竹内街道から当麻寺へ
from the Takenouchi Road to Taima Temple in Nara
ボランティアで大阪へ行く用事があったので、翌日は奈良へ。竹内(たけのうち)街道を歩くことにする。
近鉄南大阪線磐城駅を降りてすぐのところに、竹内街道の始点になる長尾神社がある。竹内街道は「日本書紀」に「推古天皇二十一(613)年、難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」とあり、全長30キロにわたる大和朝廷の官道だった。ここから二上山の南にある竹内峠を越え、河内平野を横切って堺に至る。法隆寺の仏像なども、この道を通って難波から飛鳥へ運ばれたんだろう。
左の森が長尾神社。ここから1.5キロほどが国道166号から離れた旧道として整備されている。
道は竹内峠に向けてゆるい上り坂になっている。道の左側から水の流れる音がする。暗渠になっているが、かつては流れが見えたんだろう。新しい家が多いが昔ながらの白壁の家もある。
左手の背後に葛城山が見えている。このあたりの水田は飛鳥に京ができて以来、千数百年にわたってこのままの姿なんだろうな。
右手には二上山(にじょうさん)。
竹内で幼少年期を過ごした司馬遼太郎は、当時の風景をこう描写している。
「むかって左の翼は葛城山であり、右の翼は二上山である。その山脈のふもとには幾重にも丘陵がかさなり、赤松山と落葉樹の山が交互にあって、秋などは一方では落葉樹が色づき、一方では赤松がいよいよ赤く、また右の翼のふもとの赤松山の緑に当麻寺の塔がうずもれ、左の翼のふもとには丘陵のほかに古墳もかさなり、白壁の農家が小さく点在して、こう書いていても涙腺に痛みをおぼえるほどに懐しい」
これは戦前の、あるいは戦後も高度成長期以前の記憶だろう。いま、拡張された国道にはひっきりなしに車が行き交い、建物も新しくなったけれど、目をこらせば司馬遼太郎が見た風景を想像することはできる。
国道165号を越えると竹内の集落に入り、傾斜が少しきつくなる。
日曜日の午前中、時間がゆったり流れている。
元造り酒屋の建物が休憩所に整備されている。
裏に綿引塚という松尾芭蕉の句碑がある。芭蕉の門人が竹内にいて、芭蕉はここに滞在したこともあり、句もつくった。
綿引や琵琶になぐさむ竹のおく
二上山の麓にある当麻寺へ、当麻の集落を歩く。玄関先に面白い注連縄があった。近くにある天神さんの講で、20年にいちど、つけかえるそうだ。
塀の角に七福神がいる家も多い。
当麻寺の三重塔。東塔、西塔と、ふたつの塔が創建当時から現存するのは当麻寺だけだそうだ。
本堂(正面)と講堂(右)、金堂(左)。本堂の本尊は当麻曼荼羅。原曼荼羅は損傷が激しく、現在安置されているのは室町時代に転写された文亀曼荼羅と呼ばれるもの。印刷でしか知らなかったが、じっくり見ることができた。
3時間ほどの散歩。梅雨の晴れ間で日差しが強い。門前でソバを食べ、当麻寺駅まで歩く。
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