『山河ノスタルジア』 ジャンクー流大河ドラマ
Mountains May Depart(viewing film)
『山河ノスタルジア(原題:山河故人)』の音楽を担当した半野喜弘に、ジャ・ジャンクー監督は「心のため息を音楽にしてほしい」と頼んだそうだ(Stereo Sound on line)。それを読んでジャ・ジャンクーの映画の秘密がひとつ、わかったような気がした。
監督は、どの作品でも自分で脚本を書く。「心のため息」とは、主人公の内面の微妙な心の揺らぎのこと。凡庸な監督なら、それをなんとか言葉で表現しようとするだろう。でもそれは、僕らが日常生活で発する言葉とはどこか異質なものになりがちだ。ジャンク―監督は、登場人物の会話のなかにそんな思わせぶりなセリフをまぎれこませることをしない。それが、ジャ・ジャンクーの映画はまるでドキュメンタリーみたいだと評される理由のひとつだろう。その代わり、音楽と映像で映画のテーマにかかわる微妙な感情を伝えようとする。
この映画の基調低音をつくるうえで印象的なのは、花火や水中の爆発のショットだ。幼馴染みのひとりの女とふたりの男が、微妙な関係で迎えた新年を祝う白昼の花火を河原で打ち上げる。カメラはそれをロングショットで捉えている。あるいは、幼馴染みを殺そうと男が用意したダイナマイトを女が見つけてとがめ、男はそれを川のなかで爆発させる。高く上がる水しぶきを、これもロングショットで捉えている。
ときどき、半野喜弘の単純だけれど深い旋律の音が弦楽器のソロで、あるいはエレクトリックなサウンドで流れてくる。言葉ではなく音と映像で感情を揺さぶられるのは、それが映画的ということでもある。
『山河ノスタルジア』では挿入される音楽も、とても重要。最初と最後のシーンに流れるペット・ショップ・ボーイズの「Go West」。このダンス音楽は中国でもヒットしたんだろうな。ダンサブルな曲にあわせて、冒頭では若いタオ(チャオ・タオ)が幼馴染みの2人を交えて青春を謳歌するように踊り、ラストでは雪の舞う原で中年になったタオがひとり舞う。もうひとつ、香港ポップスの葉倩文(サリー・イップ)が歌う「珍重」が、タオと彼女の息子をつなぐ音楽として登場する。
こんなふうに音楽が重要な役割を負うのは、ジャ・ジャンクーの映画では珍しいかもしれない。これまで彼の映画は中国でも外国でもマイナーなアート作品として遇されてきたけど、『山河ノスタルジア』はジャンク―監督がもっと多くの人々に見てもらいたいという思いでつくった映画かもしれない。タオというひとりの女性が生きてきた道と、その人生を彩った2人の男とひとりの息子。ジャ・ジャンクー流の大河ドラマと言えば、誉めたことになるのかならないのか。
映画は1999年、2014年、2025年の過去・現在・未来に分かれている(スタンダード、ヴィスタ、シネマスコープで描きわけられる)。舞台は監督の故郷である山西省の小都市・汾陽。1999年、タオは幼馴染みで実業家のジンシェン(チャン・イー)と炭鉱労働者のリャンズー(リャン・ジンドン)の間で揺れるが、ジンシェンのプロポーズを受け入れて結婚し、息子のダオラー(米ドルにちなんでこう名付けられた)を産む。失意のリャンズーは故郷を去る。
2014年。タオは離婚しガソリンスタンドを経営しならがひとり暮らすが、父が急死する。葬儀のため、元夫のジンシェンと上海で暮らす息子のダオラーを呼んで何年ぶりかで対面する。リャンズーは身体を壊し妻と子供を連れて故郷に帰ってきて、タオは金銭を援助する。2025年。ジンシェンとダオラーはオーストラリアに移住している。中国語を忘れたダオラーは、中国語教師のミア(シルヴィア・チェン)に母の面影を見て、ミアと海の彼方の母親に思いを馳せる。
それぞれのパートを小道具がつなぐ。タオがリャンズーに渡した真紅の結婚式招待状は2014年、リャンズーの家に埃をかぶってそのままになっている。タオが2014年にダオラーに渡した家の鍵は、2025年、ダオラーの首にネックレスとしてかけられている。1999年、タオが来ていたカラフルなセーターは、2025年、タオが飼う犬の防寒セーターになっている。1999年も2014年も、芝居で関羽に扮するのだろう、少年が青龍偃月刀をかついで雑踏を歩いている。
ジャ・ジャンクーの映画は、常に改革開放以後の中国を舞台にしてきた。処女作『一瞬の夢』は未見だけど、第2作の『プラットホーム』から前作『罪の手ざわり』まで、ヒロインが一貫してチャオ・タオであることもあり、どの映画も改革開放後の中国を描く長大な叙事詩の一部であるような印象を受ける。それは時に中国の現状を批判的な目で見ることにもなり、『プラットホーム』も『罪の手ざわり』も検閲に引っかかって中国国内では上映禁止になっている。特に『罪の手ざわり』はやや強引で性急な体制批判になっていた。
もっとも現在の中国の検閲はかつてのように問答無用でなく、話し合いの余地のあるものに変わってきている、と前作のときジャンク―監督は語っていた。上映禁止になると、外国へ出なければもう映画はつくれないという状況ではないらしい。ジャンク―監督はこれまでも、これからも中国を離れることなく映画をつくりつづけるつもりなのだろう。そして、自分が生まれ育った国の人間に見てもらわなければ、映画をつくる意味は少なからず失われる。『山河ノスタルジア』がこれまでの監督の作品に比べれば大衆映画の味わいがあるのは、そのあたりのことを考えた末ではないか、というのが僕の推論。
それが当たっているかどうかわからないが、ジャ・ジャンクー映画が変貌する第一歩となるのかどうか。次の作品を期待と不安をこめて待とう。そういう映画なのに、日本では相変わらず単館ロードショーなのが皮肉。こういうキャッチにはいつも腹が立つが、ラストは「泣けます」。
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