May 23, 2016
May 20, 2016
谷崎・チック・小曽根
東大弥生門前の弥生美術館で「谷崎潤一郎文学の着物を見る」展を(~6月26日)。いま同タイトルの本を読んでいるので興味を持った。小説のなかでの谷崎の描写、モデルとなった妻をはじめとする女性たちの写真、名だたる画家が描く挿画などから、昭和初期の古着を集めて再現している。谷崎とおぼしき主人公が女装して浅草を歩く「秘密」の装いもある。これらについては、いずれ「ブック・ナビ」の書評で触れるつもり。
同じ建物のなかに竹久夢二美術館もある。いわゆる夢二調のなよっとした美女のモデルであるお葉さんは当時有名な美術モデルで、伊藤晴雨の絵にも登場しているんだって。
夜はヨガ仲間に誘われてサントリーホールで「チック・コリア&小曽根真」コンサート。
ピアノ・デュオでチックの曲を中心に、小曽根、ガーシュイン、バルトークの曲を交えて。チックも小曽根も聞くのは久しぶりで、ジャズとはひと味違う2人の世界を楽しんだ。
全体のコンセプトは小曽根がつくり、チックがそれぞれの曲想を設定している感じ。2人をあまり聞きこんでないからかもしれないが、意外なほど音色とフレーズに差がなく、目をつぶっているとどちらが弾いているのかわからなくなるのが面白い。でもチックはときどきはっとするようなメロディアスなフレーズを弾く。
10年ほど前、味の素スタジアムのジャズ・フェスでダイアナ・クラールがドタキャンし、ピンチヒッターでチャカ・カーンが歌い、プロデューサー役のチックがエディ・ゴメス、ジェフ・ワッツの豪華トリオでバックを務めたことがあった。そのときのチックは歌伴だからスタンダードばかりで、へえ、チック・コリアってこんなにいいんだ、と思ったことがある。そのときの音をちょっと思い出した。
May 19, 2016
『緑はよみがえる』 イタリア・アルプスの月
Torneranno i Prati(viewing film)
最近でこそ第一次世界大戦の世界史的な意味について論じた本がずいぶん出ているけれど、第二次世界大戦に比べれば、やはり戦場から遠いアジアに住む僕たちにとって遠い戦争であることに変わりはない。でもベストセラーになったピケティの『21世紀の資本』を読んでも、第一次大戦とそれに続く大恐慌が数百年つづいたヨーロッパ社会の基本構造を壊したことがわかる。
それだけでなく、戦争の形態が軍隊と軍隊の戦闘から国の総力を挙げて国家対国家が対決する総力戦になったこと、飛行機や戦車など最新の科学兵器が登場したこと、兵士の肉体と精神を極限まで追い込む塹壕戦が長くつづいたことなどからも、第一次大戦が特にヨーロッパの人々にどんなに衝撃を与えたかが想像できる。
塹壕戦を描く映画を初めて見たのは大学時代、戦争映画の古典『西部戦線異状なし』だった。主人公のドイツ兵士が、蝶をつかまえようと塹壕から身を乗りだした瞬間に射撃されるショットは鮮明に覚えている。
『緑はよみがえる(原題:Torneranno i Prati)』もまた、イタリア戦線の塹壕戦を描いた一本。第一次大戦に志願兵として参加したエルマンノ・オルミ監督の父親の体験がベースになっている。
舞台はイタリア・アルプスのアジアーゴ高原。イタリア軍の塹壕が深い雪に埋もれている。映画はこの塹壕の内外に終始し、離れた場所へは一歩も出ない。つまりオルミ監督が父親から聞いた体験だけを映像化し、それ以外の物語のふくらみや解釈を排除しているということだろう。そのシンプルで禁欲的な姿勢がこの映画の核になっている。
オーストリア軍と対峙するイタリア軍の塹壕。ナポリから来た兵士が雪中で歌を歌うと、オーストリア軍の兵士からも称賛の声がかかる近さ。大佐(クラウディオ・サンタマリア)と中尉(アレッサンドロ・スペルドゥーティ)が本部の命令をもって塹壕にやってくる。塹壕を指揮する大尉(フランチェスコ・フォルミケッティ)は病気で、代わりに中尉が指揮を取ることになる。実情を知らない命令に従って兵士が塹壕を出るが、あっという間に狙撃される。塹壕は迫撃砲で爆撃される。結局、戦線は1メートルも動くことなく、やがて撤退命令がくる……。
戦闘場面は少なく、戦闘の合間の塹壕での日々が丹念に描かれる。最大の楽しみである家族からの手紙と写真。お世辞にもうまいとは言えそうにない食事。歌を歌うのがせめてもの慰め。インフルエンザが蔓延し、中尉以下、何人もがベッドに寝ている。そして、いつ爆撃されるかもしれない恐怖。戦争の実相というのは、ドラマチックでもなんでもなく、こういうものだろう。どこにでもいる普通の人間が敵を憎み、殺すことで普通の人間でなくなってしまう。
冒頭、歌う兵士に声をかける敵のオーストリア兵がしゃべっているのは、映画の舞台になる北東イタリアで話されている(いた)ドイツ語系少数言語チンブロ語だという。とすれば、敵と味方にわかれて、同じ言葉を話す人間同士が戦っていることになる。この映画は、そんなささやかな事柄から戦争を見ようとしている。じわっと胸に響いてくる映画。ラスト、雪のイタリア・アルプスにかかる月がなんとも美しい。
May 18, 2016
J=A.ラルティーグ展へ
Jacques Henri Lartigue phoro exhibition
埼玉県立近代美術館の「ジャック=アンリ・ラルティーグ 幸せの瞬間をつかまえて」展(~5月22日)へ。
埼玉近美はわが家から歩いて7、8分のところにある。いつも散歩したり孫と遊びに行く公園で、いつでも行けるとのんきに構えていたら気がつけば会期末が迫っていた。
ラルティーグは1970年代に『カメラ毎日』で大々的に紹介され、その後、リブロポートから3冊組の写真集も出た。それらを見てはいたけれど、プリントを見るのははじめて。もっとも、ラルティーグは生涯アマチュア写真家というスタンスを通したから、オリジナル・プリントを見る楽しみというより、どんな家庭アルバムをつくっていたかという興味。
20世紀初めに大型カメラを使いながら、人や車の瞬間の動きを捉えているのが面白い。その頃にカラー写真や映画を撮っているのも初めて知った。タイトル通り、見ていて幸せな感情に満たされる展覧会。
May 15, 2016
『山河ノスタルジア』 ジャンクー流大河ドラマ
Mountains May Depart(viewing film)
『山河ノスタルジア(原題:山河故人)』の音楽を担当した半野喜弘に、ジャ・ジャンクー監督は「心のため息を音楽にしてほしい」と頼んだそうだ(Stereo Sound on line)。それを読んでジャ・ジャンクーの映画の秘密がひとつ、わかったような気がした。
監督は、どの作品でも自分で脚本を書く。「心のため息」とは、主人公の内面の微妙な心の揺らぎのこと。凡庸な監督なら、それをなんとか言葉で表現しようとするだろう。でもそれは、僕らが日常生活で発する言葉とはどこか異質なものになりがちだ。ジャンク―監督は、登場人物の会話のなかにそんな思わせぶりなセリフをまぎれこませることをしない。それが、ジャ・ジャンクーの映画はまるでドキュメンタリーみたいだと評される理由のひとつだろう。その代わり、音楽と映像で映画のテーマにかかわる微妙な感情を伝えようとする。
この映画の基調低音をつくるうえで印象的なのは、花火や水中の爆発のショットだ。幼馴染みのひとりの女とふたりの男が、微妙な関係で迎えた新年を祝う白昼の花火を河原で打ち上げる。カメラはそれをロングショットで捉えている。あるいは、幼馴染みを殺そうと男が用意したダイナマイトを女が見つけてとがめ、男はそれを川のなかで爆発させる。高く上がる水しぶきを、これもロングショットで捉えている。
ときどき、半野喜弘の単純だけれど深い旋律の音が弦楽器のソロで、あるいはエレクトリックなサウンドで流れてくる。言葉ではなく音と映像で感情を揺さぶられるのは、それが映画的ということでもある。
『山河ノスタルジア』では挿入される音楽も、とても重要。最初と最後のシーンに流れるペット・ショップ・ボーイズの「Go West」。このダンス音楽は中国でもヒットしたんだろうな。ダンサブルな曲にあわせて、冒頭では若いタオ(チャオ・タオ)が幼馴染みの2人を交えて青春を謳歌するように踊り、ラストでは雪の舞う原で中年になったタオがひとり舞う。もうひとつ、香港ポップスの葉倩文(サリー・イップ)が歌う「珍重」が、タオと彼女の息子をつなぐ音楽として登場する。
こんなふうに音楽が重要な役割を負うのは、ジャ・ジャンクーの映画では珍しいかもしれない。これまで彼の映画は中国でも外国でもマイナーなアート作品として遇されてきたけど、『山河ノスタルジア』はジャンク―監督がもっと多くの人々に見てもらいたいという思いでつくった映画かもしれない。タオというひとりの女性が生きてきた道と、その人生を彩った2人の男とひとりの息子。ジャ・ジャンクー流の大河ドラマと言えば、誉めたことになるのかならないのか。
映画は1999年、2014年、2025年の過去・現在・未来に分かれている(スタンダード、ヴィスタ、シネマスコープで描きわけられる)。舞台は監督の故郷である山西省の小都市・汾陽。1999年、タオは幼馴染みで実業家のジンシェン(チャン・イー)と炭鉱労働者のリャンズー(リャン・ジンドン)の間で揺れるが、ジンシェンのプロポーズを受け入れて結婚し、息子のダオラー(米ドルにちなんでこう名付けられた)を産む。失意のリャンズーは故郷を去る。
2014年。タオは離婚しガソリンスタンドを経営しならがひとり暮らすが、父が急死する。葬儀のため、元夫のジンシェンと上海で暮らす息子のダオラーを呼んで何年ぶりかで対面する。リャンズーは身体を壊し妻と子供を連れて故郷に帰ってきて、タオは金銭を援助する。2025年。ジンシェンとダオラーはオーストラリアに移住している。中国語を忘れたダオラーは、中国語教師のミア(シルヴィア・チェン)に母の面影を見て、ミアと海の彼方の母親に思いを馳せる。
それぞれのパートを小道具がつなぐ。タオがリャンズーに渡した真紅の結婚式招待状は2014年、リャンズーの家に埃をかぶってそのままになっている。タオが2014年にダオラーに渡した家の鍵は、2025年、ダオラーの首にネックレスとしてかけられている。1999年、タオが来ていたカラフルなセーターは、2025年、タオが飼う犬の防寒セーターになっている。1999年も2014年も、芝居で関羽に扮するのだろう、少年が青龍偃月刀をかついで雑踏を歩いている。
ジャ・ジャンクーの映画は、常に改革開放以後の中国を舞台にしてきた。処女作『一瞬の夢』は未見だけど、第2作の『プラットホーム』から前作『罪の手ざわり』まで、ヒロインが一貫してチャオ・タオであることもあり、どの映画も改革開放後の中国を描く長大な叙事詩の一部であるような印象を受ける。それは時に中国の現状を批判的な目で見ることにもなり、『プラットホーム』も『罪の手ざわり』も検閲に引っかかって中国国内では上映禁止になっている。特に『罪の手ざわり』はやや強引で性急な体制批判になっていた。
もっとも現在の中国の検閲はかつてのように問答無用でなく、話し合いの余地のあるものに変わってきている、と前作のときジャンク―監督は語っていた。上映禁止になると、外国へ出なければもう映画はつくれないという状況ではないらしい。ジャンク―監督はこれまでも、これからも中国を離れることなく映画をつくりつづけるつもりなのだろう。そして、自分が生まれ育った国の人間に見てもらわなければ、映画をつくる意味は少なからず失われる。『山河ノスタルジア』がこれまでの監督の作品に比べれば大衆映画の味わいがあるのは、そのあたりのことを考えた末ではないか、というのが僕の推論。
それが当たっているかどうかわからないが、ジャ・ジャンクー映画が変貌する第一歩となるのかどうか。次の作品を期待と不安をこめて待とう。そういう映画なのに、日本では相変わらず単館ロードショーなのが皮肉。こういうキャッチにはいつも腹が立つが、ラストは「泣けます」。
May 12, 2016
追悼・蜷川幸雄
the memory of Ninagawa Yukio,Director
蜷川幸雄が演出した『元禄港歌』を今年1月に見た。
瞽女の母役を演じた市川猿之助がひたすら哀しく、若い瞽女の宮沢りえはひたすら美しい。舞台の最初から最後まで、天井から紅い椿の花がぽたりぽたり落ちてくるのが、いかにも蜷川だった。その花が落ちてくる速度、床に落ちるときの音がひとつひとつ違うことからも、蜷川が細かいところまで気を配っているのがわかった。鈴木杏はじめ若い役者も熱演して、蜷川の群像劇らしいエネルギーに満ちている。この舞台の稽古中に入院したそうだけど、そんなことをちっとも感じさせない舞台だった。
鈴木杏さんとはニューヨークの語学学校で、短い期間だったけど同じクラス。その縁で無理を言ってチケットを取ってもらった。今となっては貴重な舞台を見られたわけで、杏さんに感謝。
1980年の『元禄港歌』初演は見ていないが、その前年に平幹二朗、太地喜和子、寺島しのぶで評判を取った『近松心中物語』は見た。芝居をそんなにたくさん見てるわけじゃないけど、過去に見た最高の舞台のひとつ。築地本願寺の石段を舞台にした『オイディプス』や『NINAGAWAマクベス』にも興奮した。あの舞台がもう見られないのは寂しい。合掌。
鳴子温泉へ
宮城県の鳴子温泉に行ってきた。東北新幹線・古川駅から山形県の新庄駅へ向かう陸羽東線沿線にある。標高470メートル尾ケ岳の山麓に広がる里山のなかの温泉。
泊まった宿には源泉がふたつある。これはふたつの源泉を混ぜた露天風呂。頭上の林のなかを時折、陸羽東線の2両連結の列車が通りすぎてゆく。
源泉のひとつ霊泉湯A。 含石膏-重曹泉。薄っすらと黄土色のお湯に黒い湯花が混じっている。無味無臭。源泉は90度あるが、熱めとぬるめ二つの浴槽があって、ぬるめのお湯がちょうどいい。
もうひとつの源泉、黄泉。 含塩化土類・石膏-重曹泉 。鉄分が含まれているのか、カーキ色の温泉。湯のなかで指をこすりあわせるとキュッキュとする感じ。湯上りの肌はすべすべしている。
雨に降られっぱなしで、ひねもす宿でぐだぐだし、本を読む。持ってきたのは司馬遼太郎『尻啖え孫市』とコーマック・マッカーシー『ザ・ロード』。読み疲れて外を見ると新緑が目に痛い。
雨が止んだので温泉街を散歩して、和洋菓子店兼カフェに入る。店にはエレキ・ベースが置いてあり、ビートルズ初期のヒット曲がかかっている。バンドが演奏している写真も飾ってある。やがて外出していた店主が帰ってきたので、「ベース、弾くんですか?」と聞くと、やおら楽器を取りあげビートルズに合わせて。「練習する時間がなくってね」。
東日本大震災の後は南三陸町でも演奏したそうだ。
震災直後は、鳴子温泉にもたくさんの人が避難してきた。カフェはたまり場になり、避難してきた人々が思いを吐き出す場になった。それが縁で支援のNPOを立ち上げたという。
そんな話をしたり、ビートルズの話をしたり、ジョージ・ハリソン1周忌コンサートのDVDを見せてもらったり、結局3時間近く長居してしまった。
明治期の鳴子温泉郷の図。温泉神社そばに共同浴場「滝の湯」があり、行ってみたかったのだがあきらめる。
昭和初期の温泉街。
May 06, 2016
『レヴェナント 蘇えりし者』 デジタル・シネカメラの進化
映画を見る醍醐味のひとつは、自分では体験できない時間と空間に身をおいて、まるでその場に居合わせたような体感を味わえることだろう。最近でいえば『ゼロ・グラビティ』が、宇宙空間を浮遊するとはどういうことなのかを五感が未知の体験をしたように味合わせてくれた。そのリアリティの背後には、この映画の場合ならVFXによるデジタル的な映画づくりの進化といった技術的な要素がある。
『レヴェナント 蘇えりし者(原題:The Revenant)』が体感させてくれるのは19世紀、まだ未開の北米大陸の、雪に閉ざされた森と山岳地帯。見る者がまるでそこに迷い込んだような錯覚さえ起こすリアルな映像。原作ではカナダ国境に接するダコタの平原が舞台になっているが、映画ではもっと西のロッキー山脈に設定されているようだ。
先住民と開拓民が縄張りを争っていた時代。先住民の領分に入りこんだアメリカ人・カナダ人の狩猟者一団に、ガイドとして猟師のヒュー(レオナルド・ディカプリオ)が、先住民の女との間にできた息子とともに雇われている。単独行動していたヒューはハイイログマに襲われ瀕死の傷を負うが、一方、一団は先住民アリカラ族に襲われ、船を捨てて陸路で砦に戻ることになる。
ヒューにつきそって最後まで看取るよう隊長に命じられたフィッツジェラルド(トム・ハーディ)は、ヒューを見捨てようとし、言い争いになってヒューの息子を殺してしまう。やがて瀕死の傷から蘇ったヒューは、息子を殺したフィッツジェラルドに復讐しようと、雪の荒野を生きぬいて砦をめざす……。
単純な復讐譚だから物語的な面白さは少ない。見る者の興味は、傷ついたディカプリオがどんなふうにこの状況をサバイバルし、復讐を遂げるのかに絞られる。冬の凍てついた川に飛び込み、雪の山野をさまよい、凍死を避けるため馬の死骸の中に入りこんだりと、ディカプリオは過酷な撮影に挑んだ(それがアカデミー賞につながったんだろう)。
アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督はVFXで画面をつくることをせず(ディカプリオがハイイログマに襲われるシーンはデジタル処理されてるだろうが)、実際に冬のロッキー山脈や、雪を求めてアルゼンチンで長期の撮影をした。
全編を鈍い光が支配している。ディカプリオが降りかかった新雪を口に入れたり、冬枯れの木立が風に震えたり、山並みが逆光に光ったり、繊細な映像がなんとも美しい。日の出直後、日没直前のいわゆる「マジック・アワー」(空と地上が同じ明るさになり、いちばん美しく写真が撮れる時間)に自然光のみで撮影しているからだろう。
撮影はイニャリトゥの前作『バードマン』で組み、『ゼロ・グラビティ』でも撮影を担当したエマニュエル・ルベツキ。彼は『レヴェナント』でドイツARRI社製で巨大センサー(54.12×25.59mm)を搭載した65ミリ・シネカメラALEXA 65を使用している(『ゼロ・グラビティ』で使ったのもALEXA)。
デジタル・シネカメラの進化により高感度・高精細撮影ができるようになって、『ゼロ・グラビティ』の宇宙空間、『レヴェナント』の冬の森林といったリアルな映像が可能になった。『ゼロ・グラビティ』ではデジタル・シネカメラとVFX、『レヴェナント』ではデジタル・シネカメラと厳しい条件のロケを組み合わせて映画がつくられている。映画の進化形は3Dなんかより、こっちの方向にあるんじゃないだろうか。
そんな技術的なことだけでなく、例えばこの映画では英語だけでなく、フランス語(アメリカ人だけでなくフランス系カナダ人もいるという設定)、先住民のアリカラ語(ディカプリオがしゃべる)が話されているなど周到な配慮がなされている。メキシコ人のイニャリトゥ監督だからこそ、かな。
イニャリトゥ、『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン、その2人と組む撮影監督ルベツキと、メキシコ出身組がハリウッドを席巻している。
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