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April 23, 2016

サンウルブズの初勝利

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ヨガ仲間と出かけたラグビー・スーパーリーグのサンウルブズvsジャガーズ。ここまで全敗だったけど、やっときました初勝利。1点リードで迎えたノーサイド直前にトゥシ・ピシ─立川が鮮やかなトライを決めて秩父宮が沸く。

チャンスには「ウォーン」「ウォーン」と狼の吠え声で応援。これが定番になるのかな。


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April 20, 2016

『ボーダーライン』 砂漠のノワール

Sicario
Sicario(viewing film)

『ボーダーライン』の原題はSicario。スペイン語で殺し屋とか刺客といった意味の言葉だ。

国境(ボーダーライン)をくぐりぬけたトンネルの外で、ベニチオ・デル・トロが防弾チョッキを着たエミリー・ブラントの胸に躊躇なく銃弾を撃ちこんだ瞬間、この映画の主客が転倒する。「殺し屋」とは誰のことなのか。それまでFBI捜査官に扮するエミリーの視点から描かれてきた物語が、以後はベニチオの視点へと反転し、この映画の真の主役が誰なのかがはっきりする。

それとともに、この映画がアメリカとメキシコの麻薬戦争を描いた社会派ミステリーでなく、ひとりの男の生き方と行動を描いたノワールであることがくっきりと印象づけられる。チワワ砂漠の乾いた風景も土色にくすんだフアレスの街も、善悪を超えた世界に生きるベニチオの末期の目に映る光景だったのだ。

麻薬にからんだ誘拐捜査に従事するFBI捜査官メイサ(エミリー・ブラント)が、メキシコの麻薬組織ソノラ・カルテル撲滅を目論む政府の特別捜査チームに招集される。リーダーは国防省顧問と名乗るグレイヴァー(ジョシュ・ブローリン)。グレイヴァーはメイサに作戦の詳細を明かさないが、超法規的な権限を与えられているらしい。国境の町エル・パソへ向かう専用機のなかで、メイサは元コロンビアの検察官だったアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)という謎めいた男を紹介される。

エル・パソから国境を越えたフアレスへは、ソノラ・カルテルが掘ったトンネルが通じている。特捜チームは密かにトンネルを抜け、アレハンドロはひとり別行動を取る。彼はアメリカ政府からある特殊な任務を請け負っていた。メイサは偶然、その現場に居合わせてしまう……。

メキシコとの麻薬戦争は、これまでにもアメリカ映画や小説で描かれてきた。映画ならベニチオが捜査官役で出ていた『トラフィック』、小説ならドン・ウィンズロウの『犬の力』。どちらも面白い作品だったが、『ボーダーライン』はそれらに匹敵する、あるいはそれ以上の出来。

なによりベニチオの存在感が飛びぬけている。専用機で初めて登場するシーンから夢のなかでうなされる気配を見せ、重い過去を背負った男であることを暗示する。セリフは少なく(ベニチオは監督にセリフを削るよう求めたそうだ)、目の動きや頬のちょっとした引きつれで感情や意思を語る。

アレハンドロは、新興のソノラ・カルテルと対立するコロンビアのメデジン・カルテル(現実に存在する組織)の殺し屋だった。ソノラ・カルテル根絶という目的を共有するアメリカ政府が、麻薬組織の殺し屋と共同作戦を組む。その目くらましのためにFBI捜査官のメイサが呼ばれたことが分かってくる。

目的のために手段を択ばない政治の酷薄な構図。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はそれを社会派ふうに告発するのではなく、アレハンドロという殺し屋の行動によって描いていく。アレハンドロはメデジン・カルテルにとってもアメリカ政府にとっても捨駒でしかない。そのことはアレハンドロも承知の上だろう。法と正義にこだわるFBI捜査官のメイサは、そんな展開のなかで無力でしかない。

メイサはカルテルの罠にはまってアレハンドロに助けられる。二人の間にかすかにつながりの感情が生まれたようにも見える。でもアレハンドロは必要あれば容赦なくメイサに銃をつきつける。

映画の舞台になるエル・パソとフアレスには8年ほど前に行ったことがある(これがその時のブログ)。フアレスへ日帰りで行く日の朝、エル・パソのホテルで読んだ新聞には、フアレスで警官と調査官が麻薬組織の手で殺されたという記事が載っていた。ホテルから国境まで送ってくれた運転手は「メキシコの警官を信用するな」と、この映画のセリフと同じことを言った。

フアレスは今も「世界で最も殺人の多い町」として知られるが、街のロング・ショットは実際にここで撮影されている(ロング・ショット以外はアメリカのアリゾナやニュー・メキシコで撮影された)。僕はメイン・ストリート沿いのにぎやかな一角を数時間歩いただけだから、映画に映っているようなスラムが密集する風景は見ていない。でも夜にエル・パソ郊外の山からフアレス方面を見ると、エル・パソのダウンタウンは暗いのにリオ・グランデ河の向こうのエル・パソは光が密集して宝石のように輝いていたから、すさまじい人口密度であることは理解できた。

上空から俯瞰した乾いた砂漠や、砂漠の空を流れる黒い雨雲といった風景が圧倒的だ。撮影したのは『ノー・カントリー』『007 スカイフォール』やヴィルヌーヴ監督の前作『プリズナーズ』でも見事だったロジャー・ディーキンス。その土色の風景が、過去をもつ殺し屋アレハンドロの心象に重なる。

ディーキンスはこの作品の撮影に当たって、ジャン=ピエール・メルヴィルの『サムライ』や『仁義』を参照したそうだ。陰影深く、暗鬱なトーン。そう言われてみればベニチオ・デル・トロのたたずまいはアラン・ドロンの寡黙な殺し屋に重なる。チェロの低音を反復させるヨハン・ヨハンソンの音楽も緊迫感を高める。

『灼熱の魂』以来、カナダ出身のヴィルヌーヴ監督から目が離せない。最近はクローネンバーグ同様、アメリカで映画をつくることが多いみたいだ。これだけの才能をハリウッドが放っておくはずがない。新しいノワールの気配に満ちた犯罪映画の傑作だと思う。

Sicario2


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April 19, 2016

辺見庸『増補版 1★9★3★7』を読む

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Hemmi Yo"1★9★3★7"(reading book)

辺見庸『増補版 1★9★3★7』(河出書房新社)の感想をブック・ナビにアップしました。


http://www.book-navi.com/

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April 16, 2016

『蜜のあわれ』 官能と老残と

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『蜜のあわれ』は、映画と小説についていろいろ考えさせてくれる。

原作者である室生犀星は、この幻想小説を映画にすることを考えていた。そもそもこの小説自体が、1959年に発表される3年前に公開されたフランス映画『赤い風船』に影響を受けて書かれたものだった。犀星は雑誌連載を終えて「後記」にこう書いている。

「『赤い風船』を見た後に、こういう美しい小事件が小説に書けないものか知ら……と、一か月くらい映画『赤い風船』に取り附かれ……。お前が知らずに書いた『蜜のあわれ』は偶然にお前の赤い風船ではなかったか、まるで意図するところ些かもないのに、お前はお前らしい赤い風船を廻して歩いたのではないか」

そして実際に、犀星は『赤い風船』のアルベール・ラモリス監督に『蜜のあわれ』を映画化してほしいと単行本を送ったという。実現はしなかったが。そのことからもわかるように、『蜜のあわれ』の赤い金魚は犀星流の赤い風船だったのだ。

この小説は全編が会話体で書かれている。登場人物は4人。金魚の化身である赤子(映画では二階堂ふみ)、金魚を飼う老作家(大杉漣)、死者で老作家の愛人だったらしいゆり子(真木よう子)、赤子を老作家に売った金魚売り(永瀬正敏)。老作家と彼が飼っている金魚の赤子との会話を中心に物語が進む。

「夕栄え……がお臀にあたっていたら、言語に絶する美しさだからね」
「おばかさん、そんなこと平気で仰有るなら、あたい、もう遊んであげないわよ。人間も金魚もいつもきちんとしたことばを口にすべきだわ」

映画では冒頭に近いところで、この場面がある。二階堂ふみ(?)の円く柔らかなお尻が柔らかな光を受けている。この映画の通奏低音を見る者に印象づける素敵なショットだ。

小説はこんな会話が延々とつづく。情景描写は一切ない。小説によっては、読んでいて映像が次々に浮かんでくるようなものもあるけれど、ここではその手がかりになる情景描写がないから、読み手は会話のなかの乏しい情報から風景を想像するしかない。

その意味では、非映像的な文体といえるだろう。もっとも、映像的な文体をもつ小説を映画化して面白い作品になるかといえば、そうとも限らない(例えば司馬遼太郎の小説を映画化したもので成功例はほとんどない)。その意味では映像化する際の自由度が高いというか、映像化する者の腕が試される小説ではある。

室生犀星自身は、この小説をどんな映画にしようと考えたんだろうか。老作家と金魚の化身である少女の恋。『赤い風船』のように朱色の金魚と少女をめぐるメルヘン的な物語にもなりうるし、谷崎潤一郎『痴人の愛』のように奔放な少女に振り回される男の滑稽と悲哀、あるいは『瘋癲老人日記』や川端康成『眠れる美女』みたいな老人の性をめぐるエロチックでフェティッシュな物語にもなりうる。

僕が読んだ限り、人間と金魚と死者が会話するこの小説にエロチックな場面はあるものの、全体がそれに傾いているわけでもない。童話ふうな味わいもあるし、戦後の風俗小説ふうなところもある。根っからの変態である谷崎や老年にいたってネクロフィリア小説を書いた川端に比べれば、室生犀星は健全なんだなあ。

そんないろんな要素のなかから監督の石井岳龍がスポットライトを当てたのは朱色の官能性と、老作家のキャラをより立たせることだった。大きな朱色の金魚と部屋を照らす夕陽。金魚の化身である二階堂ふみは常にひらひらと尾のついた朱色のドレスを着ている。老作家と金魚が同衾する場面は、小説では老作家のお腹の上で金魚がはねている映像を喚起するだけだけど、映画では大杉漣と二階堂ふみのからみになる。といって、それがリアルに描写されるわけではない。程の良いエロティシズム。

映画ではゆり子に小説より重要な役割が与えられている。小説ではゆり子が老作家の愛人というより弟子だったと読めるけれど、映画では幽霊のゆり子は金魚の赤子に明らかな嫉妬の眼差しを向ける。ゆり子が死んだのも、老作家とのことが原因だったように受け取れる(ゆり子は赤子の朱と対照的に常に白い死装束)。また、映画には出てこない学校教師の愛人(韓英恵)も登場する。老作家は赤子と戯れるかたわら、愛人のアパートに通っている。

さらに小説には出てこない芥川龍之介(高良健吾)が登場する。映画の時代設定は、映画館でシネマスコープが上映されているから戦後。でも芥川は昭和初期に自殺しているから、彼もゆり子と同様に死者なのだ。才能あふれる芥川に対して、駄文を書いてきた老作家という対照が強調される。

だから最後、老残の作家が金魚の化身である少女と夕陽の当たる室内でダンスに興ずるシーンには、深い官能というより生きながらえてしまったいささかの滑稽味があった。

かつて石井聰互の名で傑作『狂い咲きサンダーロード』を撮った監督が、歳をくってこういう映画をつくったかと思うと感慨深い。


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April 11, 2016

『光りの墓』 夢のなかへ

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Cemetery of Splendour(viewing film)

タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画をそんなにたくさん見てるわけじゃないけど、これまで彼の映画から政治性を感じたことはない。でも『光りの墓(原題:Rak Ti Khon Kaen)』は珍しく政治性──現在の軍事政権への物言い──をうかがわせる作品になっていた。といってもウィーラセタクン監督のことだから、ナマな政治的メッセージがあるわけではまったくない。

タイ東北部の地方都市。元学校の仮設病院に、眠り病にかかった男たちが収容されている。彼らは突然ことんと眠りに落ちてしまう。そして何かの拍子に目を覚ます。脚に障害をもつ主婦のジェン(ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー)が、訪れる家族のいない患者を世話しにやってくる。病棟には眠っている患者の夢と交流できる能力をもつ女性ケン(ジャリンパッタラー・ルアンラム)もいて、家族と患者との会話を仲立ちしている。ジェンの患者イット(バンロップ・ノームローイ)がふっと目を覚まし、ジェンとイットは病院の庭や近くの湖のほとりで会話する。

病院の構内では軍が地面を掘り起こしている。この場所はかつてラオス民族の王宮だった。軍がその土地を掘り起こす行為は、いわば埋もれた過去を暴く意味をもつことになる。眠り病にかかった患者の傍らには蛍光色に光るパイプのような治療具が設置されている。光が薄ピンクや水色に変化することで、眠っている患者の過去の記憶を呼び起こし、魂を癒す効果をもたらすらしい。

ジェンがテラスで2人の姉妹と話している。2人はいきなり、「私たちは死んでいる」と語る。彼女たちは数日前、ジェンが祈りを捧げに行った廟に祀られる王女姉妹だった。彼女たちは普通の服装をしてジェンと普通に話すけれど、死者なのだ。ジェンもそれを自然に受け入れる。

ジェンとケンが話をしている。ケンは、ジェンの死んだ息子の魂に乗り移り、ケンの姿のまま息子の男言葉をしゃべって、母のジェンと対話する。ケン(息子)がジェンの障害のある脚に頬ずりし唇を近づけるショットは、この監督には珍しいセクシュアルな気配がただよう。

ラオス国境から遠くない地方都市の日々を淡々と描きながら、そこに当たり前のような顔をして何層もの過去が侵入してくる。現在と過去、夢と現実が登場人物それぞれのなかで対話し、ときに争いを繰り広げる。でも映画のなかに異形のものはどこにもなく、あくまで地方都市の日常的な風景であり、木々が風にそよぎ、光が注いでいる。そしてその変哲もない風景が同時に「クメールのアニミズム」や「スピリチュアルな世界」(いずれもウィーラセタクン監督の言葉)に満ちている。

ウィーラセタクン監督はまた「眠り病」というアイディアについて、「この3年間、タイの政治状況は行き詰まった状況でした。僕は、眠ることに魅了され、夢を書き留めることに熱中した。それは、現実から逃げる方法だったと思う」と語っている(公式HP)。映画にこの言葉を重ねてみれば、現在の軍事政権に対して政治的な場所からではなく、森と風と光に満ちた場所から物言いをつけているのがわかるだろう。

この映画はタイで公開されていない。また今後、国外で映画をつくることになるだろうとも監督は語っている。熱帯の森と風と光のなかで映画をつくってきた監督には、なんともつらい選択だろう。

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最後の花見

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flower viewing at Ueno Park in Tokyo

八分散り(?)の上野公園へ。花見が目的ではない会合だったけど、散り際の桜を見にたくさんの人が集まっていた。

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窓の外は青葉と、わずかばかりの花。

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会合の席の玄関。ここはまだ見事な桜。

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