『虹蛇と眠る女』 アボリジニの神話
オーストラリアの女性監督とはどうも相性が悪いなあ。20年以上前、その後ハリウッドへ行ったジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』という映画があった。白人女性を主人公にその地の自然と先住民を配し、評価の高い映画でベスト10にも選ばれた。でも作品の評価とは別に、女性であることを前面に押し出した──女性の内面の傷を押しひらいて無理に見せられたような──つくりがどうも好きになれなかった。
『虹蛇と眠る女(原題:Strangerland)』を見て、『ピアノ・レッスン』を思い出してしまった。『虹蛇と眠る女』も女性監督(キム・ファラント。脚本にも女性が参加している)、白人女性の主人公、オーストラリアの砂漠、アボリジニと、同じような要素をもっている。
砂漠の小さな町に引っ越してきたマシュー(ジョセフ・ファインズ)とキャサリン(ニコール・キッドマン)の一家。ある晩、子供のリリー(マディソン・ブラウン)とトミー姉弟が家から抜け出たまま失踪する。リリーは前にいた町で教師と関係をもったことからこの町へ引っ越してきたのだが、ここでも虹蛇のタトゥーを入れた青年や、家を手伝うアボリジニ青年と親しくなっていた。
警官のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)を中心に捜索がつづけられるが、キャサリンはリリーの部屋でノートを発見する。ノートには、「母はもう女ではない」「この家で私は囚人だ」という文字が記され、恋人のアボリジニ青年の写真には「マイ・ブラック・プリンス」と書かれていた。キャサリンは娘を理解しようとしてだろう、娘の部屋で彼女の服を着、音楽を聞いて娘の心に共振しようとする。果ては訪れた娘の恋人のアボリジニ青年を誘惑したりする。
映画の冒頭から「Touch in the Dark.」とか「Ride the Snake.」という言葉が繰り返し(リリーの声で? あるいは大地の声?)ささやかれる。アボリジニには、砂漠で子供がいなくなるという言い伝え(日本の神隠しのようなものか)がある。「虹蛇が飲み込んだ」という歌を歌えば子供が戻ってくる。キャサリンはアボリジニ女性からそんな話を聞かされる。
最初、子供の失踪をめぐるミステリーかと思って見ていたら、途中からカメラはキャサリンばかりを追いはじめる。夫とは別の寝室(夫は夫で、リリーは自分の子ではないのではないかと疑っている)。子供との距離。警官のレイと砂漠を捜索していて虹蛇の死骸を見ておののく。キャサリンがいきなりレイの身体を求めるのは、キャサリンの内部でなにかがうごめいているのか。満月の夜、キャサリンは子供たちがそうしたように砂漠にさまよい出る。
一糸まとわぬ姿で夜の砂漠にしゃがみこむキャサリンの姿は、大地と交感することによって失踪した娘と一体化しようとしているようにも見える。ただ、残念なことに見る者がキャサリンの心に共感できるようには、それまでの彼女の心模様が描写されていない(そう感ずるのは僕が男だからか)。朝、意識を喪失して町に戻ったキャサリンは、町の人間の好奇の目にさらされる。
夫のマシューがキャサリンを家に連れ帰って抱き合うところで映画は終わるのだが、これはハッピーエンドなのか。娘が牢獄と呼んだ家、キャサリンもまた娘に心を同調させたのではなかったか。夫はなにも変わっていない。
ニコール・キッドマンが25年ぶりに故国のオーストラリアで主演した映画。彼女が脚本に惚れこんだそうだ。真っ赤な岩肌をもつ砂漠の大地、アボリジニの神話と舞台装置は整っているのに、もっと面白くなったにちがいないのに、できそこないの感じが否めないのが惜しい。
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