Son of Saul(viewing film)
アウシュビッツ収容所のユダヤ系ハンガリー人の2日間を描いた『サウルの息子(原題:Saul Fia)』は、物語とスタイルが見事なまでに融合した映画だった。
予告編が終わると、スクリーンの左右が狭くなってスタンダード・サイズ(1:1.37)になる。昔はこれが普通だったけど、横長のビスタ・サイズやシネマスコープを見慣れた目には正方形をちょっと横に伸ばした感じのスタンダード画面は視野が狭くなったような感じに襲われる。
映画はアリフレックスの35ミリカメラに40ミリのマクロ・レンズをつけて撮影されているようだ。そのことで被写界深度(ピントの合う範囲)がぐっと狭くなり、はっきり見えるのは画面中央部だけ、周辺はボケてしまう。そのカメラが主人公の背後に密着してほとんど離れない。だから観客は、主人公の目が見る風景をスクリーンに見ることになる。主人公の目の代わりだから1カットが長い。107分の映画でショット数は85。1カット平均1分15秒の長回し。
アウシュビッツに収容されたユダヤ系ハンガリー人サウル(ルーリグ・ゲーザ)は「ゾンダーコマンド」と呼ばれ、送り込まれたユダヤ人を誘導し、服を脱がせ、毒ガス室に閉じ込める助手を務めさせられている。ゾンダーコマンドも一定期間働かされた後に「処分」される運命にある。
ある日、一人の少年が毒ガス室で息絶えずに見つかった。医者のところに運ぶと、医者(彼もまた収容されたユダヤ人だ)は少年を窒息死させる。それを見たサウルは、少年をユダヤの儀式にのっとって葬りたいと決意する。少年は自分の息子だと言って死体をゾンダーコマンドのベッドに隠し、収容者のなかからラビを探しはじめる。そのとき同時に、ゾンダーコマンドの間は収容所を脱走する計画が進行していた。
話の筋を抜き出せば、サスペンスフルな映画にもなりうる。でもネメシュ・ラースロー監督が選んだスタイルによって、リアリズムとはまったく別の、まるで観客も収容所に放り込まれたひとりになって、息苦しく、全体が見えないなかでもがいているような、緊張感に満ちた映画になった。
カメラはサウルの視点だから、サウルは毒ガス室の外にいる。でもドアを叩く音やくぐもった叫び声から、そこでなにが起こっているのかはわかる。サウルが毒ガス室に入ると、裸の死体が折り重なっている。けれどもはっきり見えるのはサウルの後ろ姿と服の背に記された×印(ゾンダーコマンドの印)のみ、周辺で死体を処理する光景はピンボケで、しかとは見えない。その悲惨さ、残酷さを見せるのがこの映画の主題ではないということだろう。
言葉も少ない。収容所では会話を禁じられているから、収容者同士が話すのは低い声でぼそっと一言のみ(映画ではドイツ語、ハンガリー語、ポーランド語、イディッシュ語が話される)。しかも画面はサウルの目が見た狭い視野の光景のみで、説明的な描写はない。サウルがラビを探すのも、脱走計画があるのも、すこしずつ分かってくる。
サウルが少年をユダヤの儀式で埋葬したいと願うのも、少年を自分の息子だと言うのも、その理由は説明されない。が、やがて自分も殺される運命のなかで、サウルがその行為に自分の存在を賭けたことはしかと伝わる。サウルにとって脱走計画よりも少年を埋葬するほうが大切で、「そのために生者を犠牲にするのか」とゾンダーコマンド仲間から言われもする。サウルにとってそれはヒューマニズムを超えた行為なのだ。
脱走計画が決行され、銃弾の飛び交う混乱のなか、サウルは少年の死体をかつぎラビと脱走するのだが……。映画の最後で、サウルはポーランド人の少年と目と目を合わせる。サウルにとってその少年もまた、「サウルの息子」だったのだろう。
『倫敦から来た男』でタル・ベーラ監督の助監督を務めたネメシュ・ラースローの処女作。ハンガリー語のポスター(上)は、この映画のスタイルを踏まえている。
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