『裁かれるは善人のみ』 北極圏の風景
『裁かれるは善人のみ(英題:Leviathan)』の原題は「リヴァイアサン」。海中に棲む巨大な怪物のことだ。アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、このタイトルは旧約聖書「ヨブ記」と政治哲学者ホッブズの「リヴァイアサン」を共に参照したと語っている(公式HP)。
「ヨブ記」のヨブは正直な男だが、サタンの示唆で愛する家族と財産を失い、病にかかるという試練を与えられる。神はヨブに「お前はレビヤタン(リヴァイアサン)を鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて屈服させることができるか」と問いかける。この問いは「できはしまい」という答えを内包し、レビヤタンという神の創造物に人間は手をかけられない、つまり神の意志の前で人間の行いはいかほどでもないことが示される。
ホッブズの言う「リヴァイアサン」は国家のことで、人間は自然状態では互いに相争うことになるので、各自の権利を一人の主権者(国家)に譲り渡す契約をすることによって社会をつくる。そのことで各自の安全は保たれるが、一方、国家は時に怪物となって個人に牙を剥くことにもなる。
映画を見終わって、ズビャギンツェフ監督の言葉に納得。二人の男とひとりの女の答えの出ない愛、そんな彼らに襲いかかる権力。現代ロシアの地方都市を舞台にしながら、時代と場所を超えて人間のおろかさと哀しさに触れたように感じた。
北極圏に位置するロシア北方の海辺の町。荒波が岩を洗い、廃船が海中に沈み、浜には巨大なクジラの骨が放置されている。そんな寒々とした風景のなかに、暖かな光をたたえた一軒の古い家がある。冒頭の映像からぐいぐい映画に引き込まれる。映画の最後に、同じカメラ位置からこの古い家があった場所を捉えたショットが登場し、暖かな光の灯った家のショットがテーマを象徴する深い意味を持っていたことが分かる。
コーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)は海辺で自動車修理工場を営み、美しい妻リリア(エレナ・リャドワ)と暮らしている。コーリャは彼の土地を収用して再開発しようとするヴァディム市長と裁判で争っており、モスクワから軍隊時代の部下で弁護士のディーマ(ウラジミール・ヴドヴィチェンコフ)を呼び寄せる。ディーマはヴァディム市長と警察・検察・裁判所が一体になった腐敗の証拠をつかんで取引しようとするが、市長は暴力でコーリャとディーマを押しつぶそうとする。
魚加工工場で働き、コーリャの前妻の息子とも折り合いの悪いリリアは、夫を愛してはいるものの、先の見えない生活からディーマに惹かれてゆく。ディーマは彼女に「モスクワに行こう」と誘いかける。飲んだくれだが一本気なコーリャは、裁判でも私生活でも追い詰められる……。
ズビャギンツェフ監督の前作『エレナの惑い』もそうだったけど、現代ロシアの社会問題を扱いながらあくまでコーリャを中心にした人間ドラマになっているのが素晴らしい。エリツィンやプーチンみたいに良くも悪くも正直に権力者としてふるまうヴァディム市長の暴言も(デスクの背後にはプーチンの写真がある)、その言葉にかっとなる飲んだくれのコーリャも、いかにもロシア的な男たち。
市長の背後にはプーチンばかりでなくロシア正教の司祭もいる。悪事を暴かれそうになり不安にかられた市長に向って司祭は言う。「権力は神の意志がもたらしたもの。神が望んでいるのだから、心配することはない」。そんなふうに権力と教会の癒着を描きながらも、映画は宗教的な雰囲気をたたえている。主人公たちは神の前で無力なヨブのようだし、北極圏の崇高な風景がいよいよそれを際立たせる。この風景に接するだけでもこの映画を見る価値がある。
監督は、この映画のアイディアをアメリカで実際にあった事件から思いついたという。現実の事件では、コーリャに当たる男は最後に暴発して改造ブルドーザーで市役所や市長宅を破壊し、内側から溶接したブルドーザーのなかで自殺して果てた。そのほうが物語としても映像としても面白いけれど、どこかハリウッド映画のようになってしまう。ズビャギンツェフ監督はコーリャを暴発させず、そのことで映画は一段と深くなった。
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