November 28, 2015
November 25, 2015
『恋人たち』 成熟した国の映画
『恋人たち』はちぐはぐに成熟したこの国でしか生まれない、というかこの国でこそ生まれた映画だなあ。そんな感想を持った。
成熟した国でよく生まれる映画に「なにも起こらない映画」がある、と思う。発展途上の国の映画は、その国や社会が抱える問題をストレートに反映したものが多い。発展途上であるために多くの矛盾や問題を抱えているから、そこからいくつもの魅力的なドラマが生まれる。成熟した国ももちろんいろんな矛盾を抱え込んでいるけれど、一見平和で社会の表面に事件や出来事として浮上することが少なく、外から見えにくくなっている。
そこでは社会の表に問題化されないけれど、ドラマは変哲もない日常を舞台に主人公の心のなかで進行している。そんな「なにも起こらない映画」はヨーロッパにもアメリカにも日本にもあるけれど、どの映画もなにがしかその社会のありようを反映している。『恋人たち』が反映しているのは、この国の空気だろうか。
三人の男と女の日常が並行して描かれる。橋梁点検の専門家アツシ(篠原篤)は妻が通り魔に殺され、その喪失感から立ち直れないままでいる。瞳子(成嶋瞳子)は同居する姑(木野花)と会話のない夫と郊外に暮らし、弁当工場へ自転車通勤している。弁護士の四ノ宮(池田良)はゲイで、大学時代の同級生である聡(山中聡)への思いを抱えたまま若い男と同居している。
三人の日常に些細な出来事が起こる。いちばん出来事らしい出来事が起こるのは瞳子で、工場の出入り業者・藤田(光石研)と不倫関係になってしまう。藤田は薬物中毒で、愛人の晴美(安藤玉恵)と「美女水」と称する怪しげな水を販売している。この映画、主人公の3人は新人俳優だけど脇を個性派が固めている。光石研と安藤玉恵の怪しげなカップルがなんともおかしく、光石研の真面目くさった出入り業者の顔と薬物中毒者の顔の落差には笑ってしまう。
骨折して入院した四ノ宮は、見舞いに来た聡から彼の息子にゲイとしてちょっかいを出したのではないかと疑われてしまう。四ノ宮の聡への密かな思いを、骨折した四ノ宮が松葉杖の先で聡の影を輪郭に沿ってなぞる動作で描写するショットが素晴らしい。アツシは妻を殺した男に民事裁判を起こしたいと奔走するが依頼した弁護士の四ノ宮は乗り気でなく、のらくらとかわしている。ここで交錯する一途なアツシと、どう見ても正義派ではなさそうな四ノ宮の対比がおかしい。
三人の心の揺れがていねいに描かれている。生身の、等身大の人間たち。結局、僕らの日常がたいていそうであるように、事件は何も起こらない。家出して藤田の部屋に転がりこもうとした瞳子も、藤田の正体を知って元のさやに収まる。骨折が直った四ノ宮は、のらくらと弁護士稼業に戻っている。アツシは喪失感を乗り越えられそうな気配を漂わせて仕事に励んでいる。川船に乗ったアツシが高速道路に挟まれた狭い青空を指さし、仕事の習慣である「よし!」と声を出すのがいい。
みんな心の傷を抱えている。でもそんな心を抱えたまま生きていかなければならない。いとおしくもあり、いささかナルシスティックでもある。三人それぞれの姿を通して、成熟したけれど澱んでいるこの国の空気がリアルに感じられた映画だった。
橋口亮輔監督の映画を見るのはデビュー作の『二十歳の微熱』以来で、ゲイへのこだわりは変わらず。国際的にも評価された『ぐるりのこと。』『ハッシュ』も見たくなった。
November 21, 2015
フジタの戦争画
東京国立近代美術館のMOMATコレクション展で藤田嗣治の戦争画14点が展示されている(~12月13日)。
2006年に同館で開かれた「藤田嗣治展」や神奈川県近美の展覧会などでフジタの戦争画が数点ずつ展示されたことはあるけれど、近美が所蔵(米国から永久貸与)する14点を同時に見られるのははじめて。うち6点は、これまで印刷でしか見たことがなかった。フジタの戦争画は大画面で、しかも全体が暗い茶褐色に塗り込められているのが多いから、小さな印刷図版では何が何だかわからない。
14点を見て印象的だったのは、卓越した技術の背後にあるフジタの冷めた眼差しだった。
戦意高揚のための絵画を注文されながら、絵筆を取るフジタ自身はまったく熱狂していない。戦争へと総動員された国民的熱狂から遠いところにいる。そのかわり、パリでの名声を嫉妬と無視で迎えた日本画壇を見返し、絵画史に名を残そうとする野心はひしひしと感じられる。
戦争初期に描かれた「南昌飛行場の焼打」「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」「武漢進撃」などは横長の大パノラマで、地平線や水平線が画面を横断し空が広く取られている。天地の広い空間に描かれた戦闘は、青空や草原など明るい色のなかでどこか牧歌的ですらある。見る者を興奮させる類のものではない。
戦況の悪化とともに、フジタの戦争画も変わってくる。宗教画に近くなってくる。
これはよく指摘されることだけど、フジタの戦争画は日本絵画に伝統のないヨーロッパの戦争画や宗教画を下敷きにし、これを日本に移しかえようとしている。「ソロモン海域に於ける米兵の末路」や「サイパン島同胞臣節を全うす」は、画面からヨーロッパの絵画が透けて見える。「ソロモン」はアメリカの戦争絵画と言われても納得してしまいそうだし、「サイパン」の兵士や女性の顔やしぐさはどう見ても日本人じゃない。
戦争末期の絵は、近景に敵味方の兵士(どちらが日本兵でどちらが米兵かも判然としない)が銃剣で殺し合う肉弾戦、遠景に風景を描いたものが多い。「○○部隊の死闘─ニューギニア戦線」「血戦ガダルカナル」などだけど、やはり「アッツ島玉砕」の迫力は何度見ても圧倒される。ただそこで引き起こされる感情は戦意高揚ではなく、死者への鎮魂だ。これはやっぱり傑作だなあと再確認。
いつも思うことだけど国立近美は所蔵する150点の戦争絵画を中心に各地にあるものも集め、大規模な展覧会を企画して戦争絵画の問題を考えてほしい。
November 19, 2015
November 16, 2015
『裁かれるは善人のみ』 北極圏の風景
『裁かれるは善人のみ(英題:Leviathan)』の原題は「リヴァイアサン」。海中に棲む巨大な怪物のことだ。アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、このタイトルは旧約聖書「ヨブ記」と政治哲学者ホッブズの「リヴァイアサン」を共に参照したと語っている(公式HP)。
「ヨブ記」のヨブは正直な男だが、サタンの示唆で愛する家族と財産を失い、病にかかるという試練を与えられる。神はヨブに「お前はレビヤタン(リヴァイアサン)を鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて屈服させることができるか」と問いかける。この問いは「できはしまい」という答えを内包し、レビヤタンという神の創造物に人間は手をかけられない、つまり神の意志の前で人間の行いはいかほどでもないことが示される。
ホッブズの言う「リヴァイアサン」は国家のことで、人間は自然状態では互いに相争うことになるので、各自の権利を一人の主権者(国家)に譲り渡す契約をすることによって社会をつくる。そのことで各自の安全は保たれるが、一方、国家は時に怪物となって個人に牙を剥くことにもなる。
映画を見終わって、ズビャギンツェフ監督の言葉に納得。二人の男とひとりの女の答えの出ない愛、そんな彼らに襲いかかる権力。現代ロシアの地方都市を舞台にしながら、時代と場所を超えて人間のおろかさと哀しさに触れたように感じた。
北極圏に位置するロシア北方の海辺の町。荒波が岩を洗い、廃船が海中に沈み、浜には巨大なクジラの骨が放置されている。そんな寒々とした風景のなかに、暖かな光をたたえた一軒の古い家がある。冒頭の映像からぐいぐい映画に引き込まれる。映画の最後に、同じカメラ位置からこの古い家があった場所を捉えたショットが登場し、暖かな光の灯った家のショットがテーマを象徴する深い意味を持っていたことが分かる。
コーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)は海辺で自動車修理工場を営み、美しい妻リリア(エレナ・リャドワ)と暮らしている。コーリャは彼の土地を収用して再開発しようとするヴァディム市長と裁判で争っており、モスクワから軍隊時代の部下で弁護士のディーマ(ウラジミール・ヴドヴィチェンコフ)を呼び寄せる。ディーマはヴァディム市長と警察・検察・裁判所が一体になった腐敗の証拠をつかんで取引しようとするが、市長は暴力でコーリャとディーマを押しつぶそうとする。
魚加工工場で働き、コーリャの前妻の息子とも折り合いの悪いリリアは、夫を愛してはいるものの、先の見えない生活からディーマに惹かれてゆく。ディーマは彼女に「モスクワに行こう」と誘いかける。飲んだくれだが一本気なコーリャは、裁判でも私生活でも追い詰められる……。
ズビャギンツェフ監督の前作『エレナの惑い』もそうだったけど、現代ロシアの社会問題を扱いながらあくまでコーリャを中心にした人間ドラマになっているのが素晴らしい。エリツィンやプーチンみたいに良くも悪くも正直に権力者としてふるまうヴァディム市長の暴言も(デスクの背後にはプーチンの写真がある)、その言葉にかっとなる飲んだくれのコーリャも、いかにもロシア的な男たち。
市長の背後にはプーチンばかりでなくロシア正教の司祭もいる。悪事を暴かれそうになり不安にかられた市長に向って司祭は言う。「権力は神の意志がもたらしたもの。神が望んでいるのだから、心配することはない」。そんなふうに権力と教会の癒着を描きながらも、映画は宗教的な雰囲気をたたえている。主人公たちは神の前で無力なヨブのようだし、北極圏の崇高な風景がいよいよそれを際立たせる。この風景に接するだけでもこの映画を見る価値がある。
監督は、この映画のアイディアをアメリカで実際にあった事件から思いついたという。現実の事件では、コーリャに当たる男は最後に暴発して改造ブルドーザーで市役所や市長宅を破壊し、内側から溶接したブルドーザーのなかで自殺して果てた。そのほうが物語としても映像としても面白いけれど、どこかハリウッド映画のようになってしまう。ズビャギンツェフ監督はコーリャを暴発させず、そのことで映画は一段と深くなった。
November 12, 2015
加仁湯と八丁湯
奥鬼怒温泉郷の加仁湯と八丁湯に行ってきた。
東武・鬼怒川温泉駅からバスで110分、さらにマイクロバスで20分。鬼怒川の源流近い鬼怒沼山の谷あいに四つの一軒宿が点在している。鬼怒沼山を越えて西へ行けば尾瀬沼、北へ行けば福島県桧枝岐になる。
加仁湯は山奥の宿にしては大きな建物だった。
加仁湯は五つの源泉を持っている。四つは白濁する硫黄泉で、ひとつは透明の湯。この「第三露天」はふたつの硫黄泉が混合されている。片側はぬるめで、片側は熱め。硫黄泉といっても草津や万座のような強い湯でなく、肌に柔らかい感じ。白濁の度合いも草津・万座みたいなとろとろの白ではない。湯治ではないから、こちらのほうがゆっくり浸かっていられる。
対岸の崖が迫っている。標高1300メートル、鬼怒川温泉では見事だった紅葉はここでは終わり、ブナ、ナラ、カエデは落葉している。急な崖の獣道を2頭のカモシカが歩いていった。
河原につくられた「第二露天」(ちなみに、よくポスターに使われる「第一露天」は女性専用。いちばんいい湯が女性専用というのは、時代というか。第一と内湯以外は混浴)。
源泉を入りくらべられるよう小さな風呂が五つ並んだ露天もある。硫黄泉は白濁の度合い、匂いがそれぞれ。体が見えないほど白濁した湯、青味がかった白濁の湯。、半透明の湯。硫黄臭に加えて鉄のような匂いのするのもあった。肌にまつわる感じもなめらかなのと、こするときゅっきゅとするものと。透明な湯は熱かった。
ロビー脇の囲炉裏部屋。ここへ来る途中のバス停に「マタギの里」があった。マタギが捕ったクマ、鹿、カモシカ、キツネ、テンが飾られている。肉は料理に、皮は敷物に。
加仁湯から10分ほど河原の遊歩道を下ると八丁湯がある。
八丁湯は透明。この湯は熱かったけど、滝の脇にある露天ともうひとつの露天はぬるめで、お湯も柔らか。加仁湯と八丁湯は湯質が違うし散歩がてら行けるので、どちらの宿に泊まった客もたいてい二つの湯に入る。
八丁湯はログハウスの部屋もあって若い人も多い。加仁湯は昔ふうの宿で団体も湯治客も来る。
もう一軒の宿、日光沢温泉のほうへ歩いていくと、下流の常総市で堤防が決壊した9月の大雨によって道路が崩れ土嚢が積まれていた。崖を覆う工事をしている直下の遊歩道が崩落したという。そういえば、鬼怒川温泉駅からのバスに乗っているときも、路肩が崩れて片側通行になっている個所があった。
あの日は激しい雨が1日半つづき、500ミリが降ったという。日光沢温泉では橋の上まで水がきた。
バスの終点、女夫淵の橋の上から、影の自写像。女夫淵には温泉があったが、東日本大震災で泉脈が変わって温泉が出なくなった。ホテルは廃業し、今は更地になっている。
November 04, 2015
リハーサル室で
in rehearsal now, Kikuei Ikeda & Goro Ohmi
ヴァイオリニスト・池田菊衛と作曲家でピアニスト・淡海悟郎のリハーサルに立ち会う。
2人は小生の中学・高校の同級生。2人は高校時代、「いつか(ベートーヴェンの)クロイツェル・ソナタを一緒にやろう」と語り合った。その約束を50年たって叶えるために、仲間が集まってコンサートを企画している。
池田君は長いこと、室内楽の東京クヮルテットのメンバーとしてニューヨークを拠点に世界中で演奏してきた。一昨年、クヮルテットが44年の活動に終止符を打った後は、自由に演奏活動しながら日米で学生を指導している。淡海君は交響曲、歌曲、映画音楽、童謡、ロックといろんなジャンルの曲をつくっているが、ここ数年、母上の介護に専念せざるをえなかった。そんな2人がようやく高校時代の夢を叶えるチャンスがやってきた。
コンサートは来年5月。曲はクロイツェル・ソナタのほか、シューベルトの「アルペジョーネとピアノのためのソナタ」、淡海悟郎作曲の「三つの死の情景~ヴィオラとピアノのために」。来年5月といっても、池田君はニューヨーク在住だから音合わせする機会はそんなに多くない。もっとも高校時代から互いをよく知っている2人、最初から息が合っていて、リハーサルとはいえたっぷり楽しませてもらいました。
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