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October 30, 2015

『白い沈黙』の寂寥感

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The Captive(viewing film)

カナダの映画監督がつくるミステリー・犯罪映画は、なぜか似たようなテイストを持った作品が多いように思う。

デヴィッド・クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』『イースタン・プロミス』、ドゥニ・ヴィルヌーブ『プリズナーズ』『複製された男』、アトム・エゴヤン『デビルズ・ノット』と並べてみると、どの映画にも共通するのはクールな感触。3人とも、観客の喜怒哀楽を盛り上げるこれ見よがしの演出を好まない。その一方、取り上げる犯罪は、性的なものを含め人間の歪んだ心理を扱ったものが多い。ただ異常な犯罪でも、描写はきわめて抑制がきいている。

その偏執ぶりではクローネンバーグが突出し、ヴィルヌーブもかなりのもの。2人に比べればエゴヤンはバランス感覚があり(それでも並みの監督より偏執的だけど)、一歩間違えれば社会派映画になりそうなところがある。それがエゴヤンの新作『白い沈黙(原題:The Captive。ポスターはCaptivesと複数形になっている。いったんポスターをつくった後に変更したらしいから、ずいぶん迷ったんだろう)』を見ての印象で、でも楽しめるミステリーだった。

多くのシーンが雪景色で、そのモノトーンが映画の基調になっている。カナダのナイアガラフォールズの町。8年前、マシュー(ライアン・レイノルズ)が9歳になる娘・キャスを車に乗せ、ダイナーで買い物をして戻ると娘の姿は忽然と消えていた。警察に届けるが目撃者はなく、新任の刑事ジェフリー(スコット・スピードマン)は父親のマシューに疑いの目を向ける。

8年後の現在。マシューは造園業に携わりながら一人で娘の捜索をつづけている。事件のあと別れた妻ティナ(ミレイユ・イーノス)はホテルのメイドとして働いている。ある日、彼女が掃除するホテルの部屋に、娘のトロフィーや娘の乳歯を収めた箱が置かれていた。一方、ジェフリー刑事は幼児ポルノサイトでキャスらしき少女の画像をみつける……。

映画の冒頭、隠しカメラの画像でホテルの部屋で女性(ティナ)が働いているのを見ている初老の男・ミカ(ケヴィン・デュランド)が出てくる。彼が隠し部屋のカギを開けるとティーンネイジャーの美少女がいる。やがて2人が誘拐犯と成長したキャスであることがわかってくる。監禁されてはいるが、キャスは虐待されているわけではなさそうで、逆に誘拐犯がキャスに気を使っている。キャスは誘拐犯に「もう大きくなった私には興味がないんでしょ」と言ったりする。

誘拐されたキャスは成長して犯罪の片棒を担がされ、ネットを見る少女を言葉巧みに誘惑する役を果たしている。映画では誘拐犯のミカとキャスがどういう心理的関係なのか、それ以上掘り下げられないのが残念。掘り下げ不足はほかの登場人物にも言える。警察に頼らず一人で捜査をつづけるマシューも、偏執というよりひたすら娘を思う善良な父親にしか見えない。マシューと、顔を合わせれば夫を責めてしまう元妻のティナとの関係もどろどろにはならない。一貫してマシューを疑うジェフリーと、相棒の女性刑事ニコール(彼女は最後に重要な役どころになる)の捜査もあっさり処理されている。

誘拐犯と少女、両親、2人の刑事と主要登場人物が6人いて、その誰にも比重が傾かず描かれているので、もっと深い映画になりそうなのに突っ込みが浅いのがもどかしかった。だから、ネットを使った幼児ポルノ・幼児虐待を訴える社会派犯罪映画みたいな感触になってしまったんだと思う。いや、それが悪いという訳でなく、エゴヤン監督にはそれ以上のものを期待するからですね。

遠くナイアガラの滝が見えるホテルの部屋、人けの少ない町、雪のロードサイドにあるダイナーの風景なんかの寂寥と静けさが、いかにもエゴヤン監督の映画らしい。好きな映画で、もっと面白くなるはずだからつい注文が多くなってしまった。

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October 29, 2015

島唐辛子のペペロンチーノ

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今年はじめて種をまいた島唐辛子。赤く実ったのを干し、はじめて料理に使う。水菜と粗挽きハムのペペロンチーノ。

沖縄のと同じように強烈な辛みが出るか心配だったけど、うーん、十分に辛い。ちょっと入れすぎたかもしれず、食べていて鼻の下にうっすら汗をかく。いま干しているもの、まだ赤くなっていない実もあって、20本ほど収穫できそう。これは楽しみだ。

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October 25, 2015

『光のノスタルジア』『真珠のボタン』 人間の時間・宇宙の時間

Nostalgiaporlaluz

Elbotondenacar

Nostalgia de la Luz, El Boton de Nácar(viewing film)

『光のノスタルジア(原題:Nostalgia de la Luz)』は2010年、『真珠のボタン(原題:El Boton de Nácar)』2015年につくられたドキュメンタリー。2本に共通するのは、アタカマ砂漠に設置されたアルマ望遠鏡の天文台と、1970~80年代のピノチェト独裁政権下で逮捕・殺害された数千とも数万ともいわれる人々とその遺族。チリの光と影ともいうべき二つのまったく異質の主題が、息を飲む美しい映像のもとに串刺しされている。

高度5000メートルの砂漠に配置された数十台の巨大パラボラアンテナが、夕日を受けて輝き、回転する。この電波望遠鏡によって見えてくるのは、可視光では見えない暗黒の宇宙。星の誕生や生まれたての銀河といった宇宙の姿は、数億年、数十億年といった永遠の時間が凝縮された映像だ。

天文台が設置されているチリ北部アタカマ沙漠の干からびた大地と深い青空。岩肌には先史時代の人類が描いた動物の絵。一方、『真珠のボタン』の舞台となるのはチリ南端パタゴニアの大地と氷河と海。南極にも近い、荒涼とした大地。南北4000キロに及ぶチリの陸と海の風景が映し出される。

上空から見れば地球の誕生以来ほとんど人の痕跡をとどめない風景だけど、近づけばそこには人間たちの風景もある。『光のノスタルジア』では、砂漠につくられた強制収容所の跡。砂漠の表面を丹念に掘って行方不明になった家族の遺骨を探しつづける女たちがいる。『真珠のボタン』では、海の底から錆びたレールが引き上げられる。ピノチェトによって虐殺された人々は鉄道のレールを縛りつけられ海の底に沈められた。錆びたレールに付着するボタンは、括られた人が生きた証だ。歴史をさかのぼって、先住民インディオの虐殺もそこにかぶせられる。

ナレーションは虐殺の背景を──冷戦下、選挙によって誕生した社会主義的アジェンデ政権を軍部のピノチェトがクーデタによって倒したことも、その背後にアメリカの影があったことも、まったく語らない。地球や宇宙の永遠のなかに黙って溶かし込んでいる。空中を漂う光の粒や物言わぬボタンによって、人間の時間、地球の時間、宇宙の時間がつながれている。

2本の映画を見て湧いてきたのは、人間の残虐や愚行に対する怒りというより、美しいものを見たという浄化された感情だった。それは決して歴史的事件を忘れるということではない。逆に、それらを忘れまいとする人々──砂漠に遺骨を探す家族や、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている虐殺された男の娘──の営為が地球や宇宙の時間につながる美しさを持っているからだろう。

「宇宙の壮大さに比べたら、チリの人々が抱える問題はちっぽけに見えるだろう。でも、 テーブルの上に並べれば銀河と同じくらい大きい」というパトリシア・グスマン監督の言葉がこの映画の核を示している。

グスマンは、ピノチェトのクーデタのとき自らも逮捕・監禁された経験をもつ。アジェンデ政権とピノチェトのクーデタによるその崩壊を描いたドキュメンタリー『チリの戦い』3部作は、「世界で最も優れた10本の政治映画のうちの1本」と評される。見てみたいものだ。


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October 23, 2015

嶋津健一トリオを聴く

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Shimazu Kenichi Trio at Body & Soul

嶋津健一トリオのライブを聴きに表参道のボディ&ソウルへ行く(10月22日)。

このところ嶋津トリオは横浜でライブをやることが多く、東京は久しぶりだったので満席。予約してなかったので、少し待たされカウンター端の席にようやく座れた。

「ハラペコ」「ノクターン」などの自作曲に、ジョニー・マンデル「シースケープ」、A.C.ジョビン「モノクロームの肖像」「三月の海」、ミシェル・ルグラン「シェルブールの雨傘」、ビリー・ストレイホーン「U.M.M.G」など、彼が好きな作曲家の曲をたっぷり。パガニーニの急速調の曲も彼が弾くと嶋津ふうになる。

加藤真一(b)、今村健太郎(ds)のトリオはバラードもいいし、アップテンポの曲もドライブが利いて心地いい。

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October 21, 2015

『満映とわたし』を読む

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岸冨美子・石井妙子『満映とわたし』(文藝春秋)を読んだ感想をブック・ナビにアップしました。


http://www.book-navi.com/


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October 20, 2015

鳥辺山から宮川町へ

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from Toribeyama to Miyagawa-cho, Kyoto

ボランティアの用事で大阪へ行ったので、翌日は京都に回り墓参りと、知人2人に会う。

世話になった方の墓が東山五条の西大谷本廟にある。20年近く前、はじめてそこへ行ったとき、ここが高校時代に日本史や古文でよく出てきた鳥辺山であることを知った。以来、墓参りに行くたびに、鳥辺山から清水寺に抜ける道を歩くのが楽しみになった。

数百年、いや千年以上にわたって戦乱や飢饉の死者が葬られた場所。いま京都は中国人はじめ外国人観光客で大変なにぎわいだけど、さすがにここは静かだ。江戸時代の墓から、明治以後のいくつもの戦争で死んだ兵士の立派な墓まで。ひとつひとつ墓誌を読んでいくと、時代を超えた死者の連なりに粛然とする。

写真手前の頂上が丸いのは江戸時代の墓。最後に死者が葬られたのは安政年間で、以後は途絶えている。どんな家だったのだろう。

8月の台風11号で道が崩れ、清水寺へ通り抜けできないので引き返す。

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親鸞が荼毘にふされた御荼毘所。

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五条通りから宮川筋へ。このあたりまだ井戸が現役で使われている。

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知人の家は元お茶屋。かつては民宿もやっていたので、何度か客室に泊まったことがある。

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小生よりいくつ歳上か聞いたことがないのだが、今も芸妓さんに三味線を教える現役のお師匠さん。

宮川町から四条木屋町へ出て、昔からの喫茶店フランソワでもう一人の知人と久しぶりに会っておしゃべり。この2日間、新幹線やホテルの部屋で東山彰良『流』を読む。いやあ面白かった。


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October 17, 2015

『岸辺の旅』 小津安二郎の影

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Journey to The Shore(viewing film)

黒沢清監督の『岸辺の旅』を見て、これは小津安二郎へのオマージュというか、小津作品にインスパイアされた映画だなという感想を持った。

その訳を説明するために、まず黒沢清が小津の『風の中の牝鶏』という映画について語ったことを、長くなるけど引用してみよう。

「この作品(『風の中の牝鶏』)も、つらいけれど頑張って生きていこうよ的な物語上の結論が、音楽によって都合よく伝えられてはいるんですが、注意深く見てみると、これが本当に気味の悪い映画でした。/まず、ほとんど全員が死んでいるとしか思えない。息子が病気になって、いや、助かったというんですけど、ほとんど助かってよかったというようには見えない。……戦争に行った夫……佐野周二さんもほとんど亡霊のように帰ってきます。最後に、田中絹代さんが階段から落ちて死んだとしか見えない演出がされているわけですが、その後、ゆっくりと立ち上がっていく。/家族三人とも、ほとんど死んでいるわけですね。……しかし音楽だけは、よかった、よかったという音楽でみんなだまされるんですけど、本当は何ともゾッとする気味の悪い映画なんじゃないでしょうか」(『国際シンポジウム 小津安二郎』朝日選書)

親子三人いろいろあったけれども、けなげに生きていくという、小津の生涯のテーマだった家族の物語である。でもよく見ると、登場人物の三人がそろって死者であるように撮られている。もっとも音楽がいかにもホームドラマにふさわしいものなので、その異様さは音楽の陰に隠されてしまっている。黒沢清は『風の中の牝鶏』について、そう語っている。

この作品の登場人物が死者のようだという指摘は僕が知る限り黒沢以外から聞いたことはないから、これは黒沢がホラー映画を撮ってきた監督で、気配の表現にとりわけ敏感な演出家であるせいかもしれない。でも小津安二郎の映画は、家庭劇であっても部分部分に映画がスムースに流れることを寸断する異質なショットが挟まれ、観客の感情の流れをさまたげる演出がなされていることも確かなのだ。

ここまでくれば、『岸辺の旅』が『風の中の牝鶏』と似ているけれど違う、違うけれど似ている映画であることがわかるだろう。

行方不明になって3年、夫の優介(浅野忠信)が瑞希(深津絵里)の部屋に、「俺、死んだよ」と言って(亡霊のようにではなく)亡霊として帰ってくる。優介と瑞希は、優介が死んでから3年の間に世話になった人たち、場所を訪ねる旅に出る。小さな町の新聞配達店の店主・島影(小松政夫)、彼もまた死者になっている。別の町の中華料理店を営む夫婦。妻の死んだ妹が現れてピアノを弾く。谷あいの農家・星谷(柄本明)。星谷の嫁は死んだ夫が忘れられず、現れた夫ともつれあう。

映画では生きている者と死んでいる者がふつうに語り合う。死者はふっと現れ、ふっと消える。でも亡霊として気味悪い演出はまったくされていない。浅野忠信も生きているのと変らない男として、ふつうに描かれている。ただ時折、死者が暮らした部屋の極彩色の花柄を張りつめた壁とか、死者の周囲に立ち込める雲のようなものとか、カーテンが風に揺れたり部屋がいきなり暗くなったり、死を連想させるショットが挟みこまれる。まるで小津のように。でもそれも、大友良英の心温まる音楽の陰に隠れて、異様さを感じさせない。

明らかに小津を意識してつくられたのが、夫の愛人・朋子(蒼井優)と瑞希が向かい合って話すシーンだろう。2人の会話が、小津が得意としたカットバック(しゃべっているAとBを交互に正面から撮る)の手法で撮られている。だから会話している人物の視線が交わらない。小津の「逆目線のカットバック」と呼ばれるものだ。しかも小津の場合、いつも人物はカメラから少しずれた方向に眼を向けている。だから観客にとっては2人があらぬ方を向いて対話しているような異様な感じを受ける。

黒沢の場合は、深津絵里も蒼井優もカメラを見てしゃべっている。2人とも正面を向いているから、そこに不自然さはない。不自然さは別のところにある。小津の場合、笠智衆と原節子といったようにカットバックする2人に男女、あるいは年齢の差があるから不自然さを感じないけれど、黒沢は深津絵里と蒼井優という年齢差の少ない女優をまったく同じポジションで、姿形が重なるように撮っている。しかも2人とも額の左上で髪を分け、肩まで垂らしている。そんなふうに2人が同じポジション同じ姿形でカメラを見てしゃべるのを見ていると、なにやら深津絵里と蒼井優が重なってくるような奇妙な感じに捉われる。そこで蒼井優が不敵な笑みを浮かべるのが、ホラー映画なら最高の場面。

このカットバックは黒沢の小津へのオマージュでそれ以上の意味はないと思うけど、あえてその含意を探れば瑞希=朋子であるということだろうか。浅野忠信と蒼井優の間には、もうひとつの「岸辺の旅」が存在する。

小津映画がいろいろあっても最後は家族の愛の物語として終わるように、『岸辺の旅』も(『東京物語』が海が見える家で終わったように)小さな漁港の海岸で夫婦愛の物語として終わる。しみじみと、ハッピーエンドの音楽がかぶさる。見事に小津だった。


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October 11, 2015

ラグビーが盛り上がってる

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久しぶりに秩父宮ラグビー場に出かけてラグビー観戦。トップリーグ・プレシーズン・マッチの決勝戦、神戸製鋼─サントリー。ワールドカップで南ア、サモアに勝って盛り上がっているせいか、時折雨が落ち、しかも代表選手抜きのオープン戦だけど、それなりに観客がつめかけている。

神戸が先行し、サントリーが追いついて同点で迎えたラスト・ワンプレー。サントリーが神戸ゴール前まで攻め込んだが切り返され、自陣でペナルティーを犯しPKを決められる。神戸の強さが目立った。今年は楽しみ。サントリーは主力8人が日本代表、南ア代表、サモア代表でごっそり抜けては力不足だった。

隣にいた20代女性の3人組、ゲーム中からビール(プレモルだったからサントリー・ファン?)で、ノーサイド後は「これから飲みに行って、そのまま朝のアメリカ戦になだれこもうよ」なんて相談してた。元気だなあ。こちらはそんな元気なく、録画予約してあって、さて明朝のお楽しみ。


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October 09, 2015

『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』 荒廃した風景

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A Most Violent Year(viewing film)

『アメリカン・ドリーマー 理想の代償(原題:A Most Violent Year)』の舞台は1981年のニューヨーク。石油危機による経済の停滞、移民流入による人種間対立の激化、犯罪の多発によって、ニューヨークがいちばん荒れていた時代だ。90年代にニューヨーク市長になり治安を劇的に向上させたジュリアーニは、このころニューヨーク州担当の連邦検事としてマフィア撲滅を陣頭指揮していた。映画にもアフリカ系の連邦検事が出てくるが、そのキャラクターにはジュリアーニが投影されているかもしれない。

野心的な移民が起業してのしあがろうとするこの物語が最も力を注いでいるのは、1980年前後の荒んだニューヨークを再現することだ。マンハッタンではなく、いろんなエスニック集団が入り乱れて暮らすブルックリンやクイーンズが舞台になっている。

ヒスパニック移民のアベル(オスカー・アイザック。彼自身はグアテマラ系)は、何台ものタンクローリーと貯蔵タンクを抱えた灯油販売会社を起こし、既存の会社の市場を奪ってのしあがりつつある。妻のアナ(ジェシカ・チャスティン)はブルックリンのギャングの娘で、会計を一手に引き受けている。

アベルの会社のタンクローリーが何者かに襲撃され車と灯油を奪われる事件が立て続けに起こっている。アナや運転手組合の委員長は運転手に銃を持たせることを勧めるが、アベルはうんと言わない。一方、連邦検事(デヴィッド・オイェロウォ)がアベルの会社を脱税容疑で調査している。そんななか、アベルは事業拡大のためイースト・リバー沿いの土地を買う契約を結び、手持ちの全財産を手付金として払う。残金の支払いは1カ月後だが、連邦検事の調査を知った銀行が融資を断ってくる……。

アベルは運転手が違法な銃で武装することを拒み、妻の実家であるギャングとも関係を持たず、クリーンなビジネスを志している。でも襲撃を恐れた運転手のヒスパニック青年がひそかに銃を持ち、襲われて銃撃戦になってしまう。会計を仕切るアナはアベルに告げず密かに裏金をプールしていた。アベルは否応なくそうした事態に巻き込まれてゆく。襲撃犯を追い詰めたアベルは、奪った銃を手に犯人を脅す。

家族、アベルの片腕の弁護士や検事、エスニックのコミュニティ、同業者、アベルを巡るさまざまな人間関係が愛と友情と対立に彩られながら進んでゆく。派手なアクションはないし、劇的な成功や挫折といったドラマチックな結末が用意されてるわけでもないけど、画面は冒頭から最後まで緊張感にあふれている。最後のアベルと検事の会話は、これからどうなるのかいろんな想像ができて陰影深い。脚本・監督のJ.C.チャンダーの腕だろう。

クイーンズの工場地帯からイースト・リバーごしにマンハッタンのエンパイア・ステート・ビルとクライスラー・ビルを望むショットはニューヨークを象徴する風景としていろんな映画に登場するけど、ここでも主人公の野心を照らしだすように何度も登場してくる。イースト・リバーにかかるクイーンズボロ橋とすぐ脇にある火力発電所の4本煙突もいくつもの映画でお目かかった構図で、この映画でも橋上の銃撃戦で出てくる。

廃工場地帯での追跡劇は、今もブルックリンかクイーンズにこういう風景が残っているんだろうか。エンドロールを見るとデトロイトでロケしているから、デトロイトだろうか。いまやこんな荒廃した風景は、ニューヨークでなくデトロイトのものかもしれない。僕の知る限り、ウィリアムズバーグやレッド・フックといったブルックリンの廃工場地帯は、今ではジェントリフィケーション(高級化)によってお洒落な地域に変貌しつつある。ついでに言うと、主人公の土地売買の契約相手は黒ずくめの服装に身を固めたユダヤ教超正統派で、ウィリアムズバーグには超正統派のユダヤ教徒が固まって住む一角がある。

襲撃犯を追跡するシーンでは、落書きだらけで汚れた地下鉄が再現される。ブルックリンからマンハッタンを通ってブロンクスを結ぶBライン。50丁目、62丁目といったブルックリン(Dライン)の駅が登場する。荒んだ風景の中をアルマーニのロングコートを着てアベルが走りまわる。

この時代、裕福な白人はニューヨークから郊外の高級住宅地へと住まいを移していた。主人公の豪邸も、緑が多く、雪が積もり、アップダウンもあるから、郊外に設定されているようだ。ロングアイランドかウェストチェスターで撮影されたらしい。

そんなこんなで、ブルックリンに住んだことのある僕には楽しみの多い映画だった。僕が暮らした2007年には一部を除いてきれいな街になっていたけれど、この映画の設定の4年後、1985年に初めてニューヨークに行ったときには、地下鉄もバワリーあたりの街路もこの映画みたいなざらざらした感触があった。

予算2000万ドルの映画なのに回収できたのは600万ドルと興行的には失敗作みたいだ(wikipedia)。映画の評価は高く映画賞にいろいろノミネートされたけど地味な映画だからなあ。才能あるJ.C.チャンダー監督が次回作もつくれるよう祈ろう。

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October 07, 2015

大正大学で写真展と観音堂

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西巣鴨の大正大学へ行ったのは初めて。大西みつぐ、ジェレミー・ステラの「二人展─東京 交差するふたりの視点」展を見に(~12月25日)。下町の暮らしがつくりだす都市の染みのような風景を捉えた大西の写真と、現代建築家の設計で建てられた都市の異物のような建築を追うステラの写真と。

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構内に鴨台(おうだい)観音堂というのがあった。3年前に建てられた八角のお堂。入口には平安時代の制吨迦(せいたか)童子像が、頂上には真新しい一木彫りの観音菩薩像が安置されている。らせん階段を上り、別のらせん階段を下ってくる一本道の構造が面白い。

大正大学は天台宗、真言宗豊山派、同智山派、浄土宗の三宗四派によってつくられた仏教系の大学。学生には僧侶がたくさんいて、毎月、お堂の前で読経や声明を唱える縁日がある。


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October 05, 2015

カメラマンの真似事

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Taking photographs of Jazz Vocal Recital

今日はカミさんが通っているジャズ・ボーカル教室のリサイタルでボランティアの一日カメラマンを仰せつかり、久しぶりに一眼レフを手にする。皆さん素人ながら舞台(赤坂・Bフラット)とバックのトリオは一流。生徒さんのアップ、バストショット、バックのミュージシャンも入れてと、3カットずつ2時間ほどの「お仕事」。

ふだんシャッターのタイムラグが大きいコンパクト・カメラを使ってストレスが大きいので、表情を狙ってシャッターを押すと即座に反応するのが心地よい。全員での集合写真はライトの当たっている場所とそうでないところの明暗差が激しかったけど、なんとかこなした。

仕事を終えてからはアルコールを入れてスタンダードの数々を楽しむ。生徒とはいえ既に舞台に立っている方やオペラ歌手もいらして、皆さん上手だなあ。

最後に講師の高林加代子(写真)が2曲歌ってライブを堪能。


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October 01, 2015

『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』 ポップで孤独な吸血鬼

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A Girl Walks Home Alone at Night(viewing film)

『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女(原題:A Girl Walks Home Alone at Night)』はアメリカ映画だけど、舞台はイランの架空都市、話される言葉はペルシャ語、演ずるのはアメリカ、ドイツ、イランなど多民族の役者たち、監督のアナ・リリ・アミルプールはイラン系アメリカ人だ。

アナは長編処女作になるこの映画について、「最初のイラン・ヴァンパイア・マカロニウェスタン」と呼んでいる。その通り、過去のいろんな映画のさまざまな気配が入り混じり、しかしモノクロームの画面が初々しい魅力をたたえている。

道路脇に無造作に死体が転がる「バッドシティ」。人けのない街にはドラッグのディーラーと娼婦くらいしか姿が見えない。父親がドラッグ中毒のアラシュ(アラシュ・マランディ)は、ある夜、黒いヒジャブとチャドルで全身を覆った少女(シェイラ・ヴァンド)に出会う。少女は街でただ一人の孤独なヴァンパイア(ロンサム・ヴァンパイア)だった……。

とまあ、これだけのボーイ・ミーツ・ガール物語なんだけど、舞台のバッドシティというのが不思議な風景(ロケはカリフォルニア)。がらんとした街。周囲の荒野では、石油採掘機の爪のようなヘッドだけが動いている。2人がデートするのは、夜もひときわ明るい無人の石油精製工場。物語も映像もひときわシンプルなのは、マカロニ・ウェスタンの単純明快さを意識しているからだろうか。映像の背後ではイラン・ロックとテクノ・ミュージックが、クリント・イーストウッドにかぶさるエンニオ・モリコーネのように高鳴っている。

黒いチャドルに身をつつんだ少女は、その下に黒白の横縞模様のTシャツを着て、スケボーに乗っている。彼女の部屋には1980年代のアーティストや『羊たちの沈黙』など映画のポスターがいっぱい貼られている。ポップなヴァンパイア。その奇妙な味わいと美しいモノクロームの画面は、ジム・ジャームッシュの映画を思いださせる。

アラシュが少女にピアスをプレゼントして耳に穴をあける。痛みが走った瞬間、少女は思わず牙が出てしまい、それを隠すため顔をそむける。その官能が素敵だ。ここらあたりはデヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』の気配か。

アナ・リリ・アミルプールはイギリスに生まれ、幼いときフロリダに移ってきた。12歳のときから映画を撮り、UCLAの映画学部を出ている。そんな映画少女だったからこそ、いろんな映画の痕跡が見えるんだろうな。それと彼女の出自であるイランの音楽と言葉。異質なもの同士が混じり合ってこういう映画が生まれた。

イランは、最近でこそ融和に向いつつあるとはいえ、長いこと対立していた国。政治とは無関係にいろんな国からの移民を受け入れ、才能ある人間には資金が集まり、こういう作品が出てくる。そこがアメリカ映画の、ひいてはアメリカという国の懐の深さであり強みでもあるんだろう。

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