『黒衣の刺客』 風と水のゆらぎ
ホウ・シャオシエンはなぜ武侠映画を撮らないんだろうと思っていた。
中国系の映画監督はふだん武侠映画と無縁の作品をつくっている監督でも、チャン・イーモウもウォン・カーウァイもアン・リーも武侠映画を撮った。武侠映画は日本で言えば映画全盛期の時代劇みたいなもんで、みんな武侠映画を見て育っているからだろう。ホウ監督もインタビューで、子供時代から武侠小説を読みあさったし、1960年代にキン・フー(台湾武侠映画の巨匠)の映画をたくさん見たと語っている。
ホウ・シャオシエン8年ぶりの新作『黒衣の刺客(原題:刺客 聶隠娘)』は遂につくられた武侠映画。原作は彼が若い頃読んだ唐代の伝奇小説「聶隠娘」。いちばんの問題は資金だったようだ。中国のチャン・イーモウ、香港のウォン・カーウァイ、ハリウッドのアン・リーと違って台湾のホウ監督は資金調達にいつも苦労する。武侠映画は歴史ものだからセットや衣装その他に金がかかり、大きな予算を必要とする。今回、初めて中国資本と提携することで企画が実現した(wikipedia)。
いかにもホウ・シャオシエンらしい美意識に貫かれた、スタイルの徹底した映画になっている。
唐代の魏博(現在の河北省)。女道士に預けられた隠娘<インニャン>(スー・チー)が故郷に帰ってくる。彼女は道士によって小刀使いの暗殺者に育てあげられ、魏博の支配者・田季安(チャン・チェン)を暗殺する使命を帯びている。隠娘はかつて田季安の許婚だった。隠娘は田を狙い、田の喉もとに小刀をつきつけるのだが……。
画面が絶えず揺れている。あるいは流れている。室内の場面では、カーテンのように吊るされた紗を通して撮影されるシーンが多い。その紗が、わずかな空気の動きに揺れている。紗が一重、ときには二重になって揺れる。また夜のシーンでは、たくさんの蝋燭の炎がかすかな空気の流れに揺れている。外のシーンでも、風が吹いている。梢がそよぎ、草がなびいている。水が流れている。雲が流れている。全編にわたって、空気と水の流れが捉えられている。
この映画のもうひとつのスタイルは、顔のクローズアップや上半身のバストショットが少ないこと。だから役者たちは顔や表情で演技することができない。台詞も切り詰められている。女道士が隠娘に言う。「汝術を極めるも、情を絶てず」。これは、暗殺者の隠娘がかつての許婚への情を絶ち切れず、暗殺に失敗する映画なのだ。その情を、スー・チーは表情や言葉で表現することを封印されている。どんな場面でも彼女は寡黙で無表情だ。その代わりに、かすかな風のゆらぎや水の流れが暗殺者の感情の揺れと動きを代弁している。
「情を絶てず」という言葉には、もうひとつの意味がある。隠娘が鑑磨きの青年(妻夫木聡)に対して抱く感情だ。暗殺者が、さわやかな若者に惹かれていく。負傷した隠娘が、肩を脱いで青年に背中の傷を手当てしてもらうショットの官能的なこと! 最後近くのロングショット、隠娘が青年の元へ帰ってきて彼女はこの映画で初めての笑顔を見せる。ロングショットだから笑顔が強調されるわけではないけれど、そのさりげなさが好ましい。
画面は圧倒的に美しい。山水画ふうの山河。戦いがおこなわれる白樺林。暮れなずむ湖沼と森。室内でも外でも、風と水の流れに鳥の鳴き声、虫の声がかぶさって、ホウ監督の長回しは風景に命を注ぎ込む。
さらに見事なのは日本のいくつもの寺で撮影された王宮などの建物と内部。唐代の建築は中国にはほとんど残っていない。そこで大覚寺、長谷寺、海龍王寺などにロケしている。奈良時代の寺院建築は、唐の官庁の建物をモデルにしている。「唐の長安に一番近いのは奈良の風景だ」と言ったのは司馬遼太郎だった。画面に映しこまれた柱や床や壁の歴史を経た存在感に、中国の歴史もの大作の金をかけた豪華なセットとは別のリアリティがある。
アクションもいかにもホウ監督らしい。武侠映画のクンフーには型があり、一方、ワイアを使った超絶アクションがある。ホウ監督はどちらも採用しない。刀をふるうのも、かわすのも最小限。派手なアクションはまったく登場しない。血沸き胸躍るのとは対極にある武侠映画になっている。説明的な映像や台詞は最小限だし、派手な物語があるわけでなし、心理描写もないから誰もが楽しめるエンタテインメントではないけど、ホウ・シャオシエンの世界を堪能した。
脚本チュー・ティエンウェン、撮影リ・ピンビン、音楽リン・チャン、編集リャオ・チンソン、録音ドゥー・ドゥージに、初期ホウ映画の名母親役メイ・ファンもちょっとだけ顔を出して、ホウ組が完全復活しているのも嬉しい。
ひとつ残念なのは、日本版はカンヌ映画祭で監督賞を受賞した国際版と違うこと。日本で撮影したシーンや、青年の妻(忽那汐里)のシーンが追加されているという。妻のシーンがない国際版では、隠娘と青年の間にもっと親密な空気が生まれるのではないか。ここは国際版で見たかった。
Comments
こんにちは。TBをありがとうございました。
この作品の建築物の内部は日本のお寺だったのですね!なんとまあ、時代に合っていたこと!そして美しかったこと!
視覚と聴覚に訴える作品だったと思います。
Posted by: ここなつ | October 15, 2015 12:37 PM
セットもあると思いますから、どこまでロケかわかりませんが。最近のホウ・シャオシエンは評価が分かれると思いますが、僕は好きです。おっしゃる通り、視覚、聴覚が刺激されました。
Posted by: 雄 | October 16, 2015 09:48 PM