『あの日のように抱きしめて』 スピーク・ロウ
『あの日のように抱きしめて(原題:Phoenix)』の冒頭、闇のなかを女性2人の乗った自動車が走っている。ヘッドライトに照らされ闇の中に国境検問所が見えてくる。運転しているのはレネ(ニーナ・クンツェンドルフ)、助手席には顔を包帯でぐるぐる巻きにし、血走った眼だけ見えるネリー(ニーナ・ホス)。そんな画面にウッドベースの音が響いてくる。クルト・ワイル作曲のスタンダード「スピーク・ロウ」のメロディ。
戦争直後のベルリンを舞台にしたこの映画で、「スピーク・ロウ」が重要なシーンで繰り返される。
ネリーはユダヤ系富豪の一族で、アウシュビッツの収容所から出て来たばかり。顔は原型をとどめないほど傷つけられた。顔の再建手術を受け、やはりユダヤ系の友人レネとともにパレスチナ移住の計画を練っている。そのシーンでも、部屋にあるレコード・プレイヤーから男性歌手(クルト・ワイル本人が歌っている)の「スピーク・ロウ」が流れている。肉体も精神もずたずたにされた元歌手のネリーはレネに、もう一度好きだった「スピーク・ロウ」を歌いたい、と話す。
手術を終えたネリーは、焼け跡をさまよい夫のジョニー(ロナルト・ツェアフェルト)を探す。米兵相手のクラブ・フェニックス(原題)で、元ピアニストのジョニーが店員として働いているのを見つけるが、彼は顔を再建したネリーが妻だと気づかない。そればかりか、「あんたは収容所で死んだ妻に似ている。妻は金持ちだから、妻を装って一族から金を騙し取ろう」ともちかける。
ネリーはためらいながら、やがて積極的に夫が他人だと思い込んでいるその女を演じつづけ、ジョニーの妻(つまり本人)になりすまそうとする。ネリーが収容所に送られたのはジョニーがナチに内通したからだと夫の裏切りをレネから告げられても、ネリーはジョニーから離れようとしない。「ジョニーに会って私は昔の私に戻ることができた」とレネに言う。
ラストシーン。一族の前で、ジョニーがピアノを弾き、ネリーが「スピーク・ロウ」を歌いはじめる……。
クルト・ワイルの、聞く者を陶酔させるメロディがなんとも印象的だ。その官能と頽廃を感じさせる音楽にのせて(ユダヤ人のワイルはナチスに「退廃音楽」の烙印を押されアメリカに亡命した)、幾重にも屈折した男と女の愛の行方が描かれる。
ネリーは戦争によって美しい顔と心を殺されてしまった。彼女は幸福だった時代の自分の姿を取り戻して、もういちど夫に会いたいと願う。でも身体も心も元には戻らない。再会した夫も自分を妻とわからない。その上、その妻を演じて悪事を働こうと誘いかけれらる。夫が認識する「他人」を演じ、その他人として妻(自分)を演ずるという屈折のなかでジョニーに惹かれていくのは、身体も心も変わってしまったネリーにあらざるネリーとしてなのか、ネリーを演ずる他人としてなのか。夫は本当に「他人」が誰であるのか気づいていないのか。そんな心の襞と心理ゲームが傾斜をどんどん激しくしてゆく。
クリスティアン・ペッツォルト監督の前作『東ベルリンから来た女』もそうだったけど、音楽だけでなく、音への繊細さが、そして音のないシーンでの沈黙が素晴らしい。ある場面ではネリーの呼吸する音がつづいている。カットが変わってシルエットになるけれど、呼吸音がつづいているためにシルエットがネリーであることがわかる。窓に映る街路のかすかな音や、部屋の家具がたてる音も心理劇の緊張を盛り上げる。
監督はインタビューで、ドイツの戦後映画について「なぜコメディーやジャンル・フィルムが作られないのか」と語っている。ジャンル・フィルムとはこの場合、ミステリーとかノワールといったエンタテインメントのことだろう。戦争やアウシュビッツを描くと、どうしても重苦しい映画になってしまう。だから監督の言葉は、戦争や強制収容所を素材にミステリー、あるいはノワールをつくろうとしたということなのだろう。
「スピーク・ロウ」の甘美なメロディが求められた理由はそこにある。監督がヒッチコックの『めまい』を参照したと言っているのも、よく似た2人から起こる錯覚という設定だけでなく、スリラーというジャンル映画の巨匠であるヒッチコックのスタイルを参考にしたということのはずだ。
ところで「スピーク・ロウ」はジャズでもよく演奏される。いちばん好きなのはウォルター・ビショップJrトリオのもの。久方ぶりに押入れの奥からレコード盤を引っ張りだし、映画の余韻に浸って聴きほれた。
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