『さよなら、人類』 どんな映画にも似てない
A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence(viewing film)
いささかブラックではあっても、人間たちの愚行や愛おしさをゆったりしたリズムで紡いでいたこの映画が、いきなり歴史を露出させるシーンがある。
英国人らしき兵隊が鎖でつながれた黒人奴隷を巨大な円筒型の釜に閉じ込める。いくつものラッパ状の穴が開いた釜は回転しはじめ、釜の下から炎があがる。閉じ込められた奴隷たちは、当然、炎の熱にいぶされる。膨張した空気でラッパが悲しい音を立てはじめる。そのさまを、着飾った上流階級の年老いた貴顕淑女たちがシャンパン片手に悠然とながめている。この映画でいちばんぎょっとする場面だ。その釜には「BOLIDEN」と刻まれている。
BOLIDENとは、この映画がつくられたスウェーデンに本拠をおく国際的な鉱山会社。20世紀前半に金銀銅を採掘する国内最大の鉱山会社として出発し、やがてヨーロッパ、カナダ、南米などに広がるグローバル企業となった。スペインやチリなどで鉱毒による公害問題を引き起こしている(wikipedia)。
スウェーデンが20世紀になってアフリカに植民地を持ったことはないけれど、想像するに、BOLIDENはグローバル企業として陰に陽にヨーロッパによるアフリカの植民地収奪に手を貸していたのではないか。全体に超越した高みから人間たちの行動を見つめる視線が貫かれているなかで、この場面のリアルな感触は際立っている。スウェーデン人であるロイ・アンダーソン監督が、スウェーデンというより欧米の白人社会に向けてギラリと抜いて見せた鋭い刃みたいだ。
『さよなら、人類(原題:En duva satt på en gren och funderade på tillvaron)』は、いままで見たどんな映画にも似ていない。どんな映画にも似ていないけれど、映画以外のいろんな文化に隣接していると感じられるものはある。誰もが感ずるのは、絵画に隣接していることだろう。
映画はヨナタン(ホルガー・アンダーソン)とサム(ニルス・ウェストブロム)2人組の面白グッズ・セールスマンを狂言回しに、39のショート・ストーリーからなっている。固定カメラで捉えられたショート・ストーリーの冒頭で、登場人物はしばしば動きを止めている。絵のように見える。まず39枚の絵があり、ちょっと間をおいて絵(人物)が動き出しお話がはじまる、という体裁。
この映画の英語題名は原題をそのまま訳して「A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence」となっている。存在について考える、枝にとまった鳩、といった感じだろうか。このタイトルについてアンダーソン監督は、ブリューゲルの「雪中の狩人」という絵がヒントになったと語っている(wikipedia)。
「雪中の狩人」は、雪景色のなかに犬を連れた狩人たちがいる。火を焚いてなにか作業している農夫もいて、池では村人たちがなにか作業している。そばに大きな木があり、枝に鳥が3、4羽とまって、下の人間たちを見ている。監督には、こう感じられた。鳥たちは人間を見て、なにか考えているようだ。それがこの映画のアイディアになった。鳥の目から見た人間たち。
出てくるのは、寂しい男と女たちの、思わず笑ってしまう愚かなふるまいの数々。空港ラウンジで急死した男が注文したビールを、誰か飲みませんかと言われ、おずおず手を挙げる男。太めの女性フラメンコ教師はレッスンしながら若い男の体を触りまくる。ヨナタンは、売り込み先で商品のドラキュラの牙を口に装着して人を驚かせる。酒場女のロッタは、金のない兵隊たちに自分にキスさせることで酒を飲ませる。独特の間と無表情がおかしみを醸しだす。同じ北欧のアキ・カウリスマキ映画のおかしさ、哀しさに通ずるところがある。美術のパフォーマンス・アートやスタンダップ・コメディにも隣接しているかもしれない。
そのうち、画面の時制が混乱しはじめる。現代のカフェの前を、18世紀スウェーデン国王カール12世の騎馬隊がロシアと戦うために通ってゆく。カール12世はロシアとたびたび戦った勇猛果敢な国王として有名らしいが、その国王がカフェに入ってきてバーテンの若い男を口説きはじめ、手を握る。日本で言えば織田信長みたいな存在になるのか、スウェーデンの観客にはこのお話はどう映るんだろう。
ところでこの映画はいっさいロケをせず、すべてスタジオのセットで撮影されている。カフェの向こうには工場と野原があるが、野原はマットペイント(背景画)で描かれている。昔の映画ではよく使われた手法だけど、CGでつくれる今ではまったくすたれてしまった。マットペイントで描かれた風景は、一見本物らしいけど微妙な空気感が違う(CGのものとも違う)。灰色にくすんだセットとマットペイント、そこに光と影を強調しないフラットな光をあてることで、どこかミニチュア感がかもしだし、それがこの映画の独特の空間をつくりだしている。そのなかを本物の数十頭の馬が通り過ぎることで、奇妙な感触がいや増す。
その上、カメラも固定され、カット割りも少ないので、映画というよりまるで舞台を客席からカメラで撮影しているようにも感じられる。そういえば映画史の初期には、舞台劇を固定カメラで撮影した映画もあった。
そして脈絡もなく黒人奴隷を焼き殺す挿話が入ってくる。でもそれがテーマとして発展することはなく、並行してヨナタンとサムの喧嘩別れ、そして2人が泊まっている殺風景な簡易宿泊所での和解と映画はエンディングにむかう。39のお話を樹上の鳩が眺めているような視線に、終末感があふれている。
僕がこの監督の映画を見るのははじめて。いろんな意味で現在の映画とは正反対の方向を向いてつくられているけれど、これもまたまぎれもなく映画。そのオリジナルな発想と完成度にヴェネツィア映画祭はグランプリを与えた。
Comments