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August 31, 2015

「戦争と平和」展

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War and Postwar exhibition

今日は大規模な反安保法制の集会がある日だけど、前から墓参の計画を立てていたので三島へ。墓参りをすませて近くのIZU PHOTO MUSEUMの「戦争と平和」展へ行く。

昭和10年代、日本文化を海外へ紹介することに始まった国策ヴィジュアル雑誌が戦争に巻き込まれていく。その過程を『NIPPON』『TRAVEL IN JAPAN』『FRONT』『写真週報』などを通して追跡している。

小型カメラが出現し「報道写真(ルポルタージュ・フォト)」の可能性が一挙に広がったこと、印刷技術の発達で高画質の雑誌を大量に印刷できる時代になったことなど、メディア環境の変化とともに生じた近代写真・デザインの勃興期に名取洋之助、木村伊兵衛、土門拳、原弘、亀倉雄策らが出現したことの幸運と、彼らの世界水準の仕事が戦争協力を通じてしか実現しなかった不幸。

数年前の名取洋之助展で見たものも多いけど、パリ万博に出品された写真壁画(写真・木村伊兵衛ら、構成・原弘)が再現されていたことや、戦後すぐに出版された『LIVING HIROSHIMA』の版下を見られたのが面白かった。

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熱海へ一泊。朝、空はどんより曇っている。

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August 28, 2015

国会前 SEALDs集会

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憲法読めないソーリはいらない
戦争したがるソーリはいらない
なんか自民党感じ悪いよね
なんか安倍ソーリ大人げないよね
国民 なめんな
言うこときかせる番だ うちらが
Tell me what democracy look like.
This is waht democracy look like.
♪あ♪べ♪は♪や♪め♪ろ♪

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August 26, 2015

『あの日のように抱きしめて』 スピーク・ロウ

Phoenix
Phoenix(viewing film)

『あの日のように抱きしめて(原題:Phoenix)』の冒頭、闇のなかを女性2人の乗った自動車が走っている。ヘッドライトに照らされ闇の中に国境検問所が見えてくる。運転しているのはレネ(ニーナ・クンツェンドルフ)、助手席には顔を包帯でぐるぐる巻きにし、血走った眼だけ見えるネリー(ニーナ・ホス)。そんな画面にウッドベースの音が響いてくる。クルト・ワイル作曲のスタンダード「スピーク・ロウ」のメロディ。

戦争直後のベルリンを舞台にしたこの映画で、「スピーク・ロウ」が重要なシーンで繰り返される。

ネリーはユダヤ系富豪の一族で、アウシュビッツの収容所から出て来たばかり。顔は原型をとどめないほど傷つけられた。顔の再建手術を受け、やはりユダヤ系の友人レネとともにパレスチナ移住の計画を練っている。そのシーンでも、部屋にあるレコード・プレイヤーから男性歌手(クルト・ワイル本人が歌っている)の「スピーク・ロウ」が流れている。肉体も精神もずたずたにされた元歌手のネリーはレネに、もう一度好きだった「スピーク・ロウ」を歌いたい、と話す。

手術を終えたネリーは、焼け跡をさまよい夫のジョニー(ロナルト・ツェアフェルト)を探す。米兵相手のクラブ・フェニックス(原題)で、元ピアニストのジョニーが店員として働いているのを見つけるが、彼は顔を再建したネリーが妻だと気づかない。そればかりか、「あんたは収容所で死んだ妻に似ている。妻は金持ちだから、妻を装って一族から金を騙し取ろう」ともちかける。

ネリーはためらいながら、やがて積極的に夫が他人だと思い込んでいるその女を演じつづけ、ジョニーの妻(つまり本人)になりすまそうとする。ネリーが収容所に送られたのはジョニーがナチに内通したからだと夫の裏切りをレネから告げられても、ネリーはジョニーから離れようとしない。「ジョニーに会って私は昔の私に戻ることができた」とレネに言う。

ラストシーン。一族の前で、ジョニーがピアノを弾き、ネリーが「スピーク・ロウ」を歌いはじめる……。

クルト・ワイルの、聞く者を陶酔させるメロディがなんとも印象的だ。その官能と頽廃を感じさせる音楽にのせて(ユダヤ人のワイルはナチスに「退廃音楽」の烙印を押されアメリカに亡命した)、幾重にも屈折した男と女の愛の行方が描かれる。

ネリーは戦争によって美しい顔と心を殺されてしまった。彼女は幸福だった時代の自分の姿を取り戻して、もういちど夫に会いたいと願う。でも身体も心も元には戻らない。再会した夫も自分を妻とわからない。その上、その妻を演じて悪事を働こうと誘いかけれらる。夫が認識する「他人」を演じ、その他人として妻(自分)を演ずるという屈折のなかでジョニーに惹かれていくのは、身体も心も変わってしまったネリーにあらざるネリーとしてなのか、ネリーを演ずる他人としてなのか。夫は本当に「他人」が誰であるのか気づいていないのか。そんな心の襞と心理ゲームが傾斜をどんどん激しくしてゆく。

クリスティアン・ペッツォルト監督の前作『東ベルリンから来た女』もそうだったけど、音楽だけでなく、音への繊細さが、そして音のないシーンでの沈黙が素晴らしい。ある場面ではネリーの呼吸する音がつづいている。カットが変わってシルエットになるけれど、呼吸音がつづいているためにシルエットがネリーであることがわかる。窓に映る街路のかすかな音や、部屋の家具がたてる音も心理劇の緊張を盛り上げる。

監督はインタビューで、ドイツの戦後映画について「なぜコメディーやジャンル・フィルムが作られないのか」と語っている。ジャンル・フィルムとはこの場合、ミステリーとかノワールといったエンタテインメントのことだろう。戦争やアウシュビッツを描くと、どうしても重苦しい映画になってしまう。だから監督の言葉は、戦争や強制収容所を素材にミステリー、あるいはノワールをつくろうとしたということなのだろう。

「スピーク・ロウ」の甘美なメロディが求められた理由はそこにある。監督がヒッチコックの『めまい』を参照したと言っているのも、よく似た2人から起こる錯覚という設定だけでなく、スリラーというジャンル映画の巨匠であるヒッチコックのスタイルを参考にしたということのはずだ。

ところで「スピーク・ロウ」はジャズでもよく演奏される。いちばん好きなのはウォルター・ビショップJrトリオのもの。久方ぶりに押入れの奥からレコード盤を引っ張りだし、映画の余韻に浸って聴きほれた。

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August 21, 2015

平塚市美術館から国会前へ

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平塚市美術館の「写真家 濱谷浩」展へ(~9月6日)。同時開催の「ペコちゃん展」のほうは小学生も多くにぎやかだけど、こちらは落ち着いて見られる。

濱谷浩の写真をまとまって見られるのは1997年の東京都写真美術館での展覧会以来だから18年ぶり。平塚市美術館所蔵の作品を中心に130点が展示されている。これと9月19日から世田谷美術館で開かれる「写真家・濱谷浩」(タイトルが同じなのは偶然か連携してるのか)を見れば、濱谷浩の全体像がわかる。

一駅隣の茅ヶ崎へ行き、作曲家(というより50年来の悪友)淡海悟郎と軽く飲みながら音楽のこと、映画のことなどしゃべる。

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夜は国会前へ。反原発集会とSEALDsの安保法制反対集会が同時に開かれている。3週つづけて来たけど、どんどん人が多くなっているように感ずる。

周囲では、いろんな人間が歌ったり、楽器演奏したり、スピーチしたり、蝋燭の灯りを立てたり、国会に向けてぶおーっとラッパを吹いたり、旗を掲げて自転車で国会の周囲を回ったり、それぞれにメッセージを表現している。こういう自由勝手さがいいなあ。小生はごくおとなしく、「アベ政治を許さない」のポスターを掲げて。


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August 20, 2015

『ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション』 合言葉はコルトレーン 

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Mission Impossible:Rogue Nation(viewing film)

シリーズ化されたアクション映画はむずかしいこと言わずに楽しめるのがいいとこ。だけど、バットマンも007もここ数作は気鋭の監督が起用されたため作家的な匂いのある映画になり、完成度も高くなった。

それはそれでいいけれど、やはりお気楽に見られるのもほしい。その点、『ミッション・インポッシブル』シリーズはエンタテインメントに徹している。しかもCGをできるだけ排し、トム・クルーズが相変わらず身体を張っているのがいい。

予告で大宣伝している飛行機にぶら下がるシーンは、本筋とは関係ないイントロ。滑走するA400Mの翼から機体に飛び移ったり、空中1500メートルで扉にぶら下がったり。ほかに、定番(?)のバイク追跡劇や、水中で3分潜りっぱなしのシーン(潜水のトレーニングを受け、ぶっつけ本番で撮影した)など、50歳を過ぎたというのに元気だなあ。

ウィーン、カサブランカ、ロンドンと、世界各地を巡りながらのアクションも定石どおり。なかでウィーン国立オペラ座で、プッチーニの「トゥーランドット」が上演されている舞台裏でトム・クルーズと2人の暗殺者三つ巴のアクションを繰り広げるシーンがヒッチコックばりで楽しめた。オペラ座内部の撮影はセットを組んだんだろうけど、屋上からロープで飛び降りるシーンは実際にオペラ座で撮影されている。

ヒロインに抜擢されたレベッカ・ファーガソンも、アクションの切れがいい。いかにもスウェーデン出身らしい美人だし、魅力的。名前を憶えておくことにしよう。

監督は『ゴースト・プロトコル』に続いてクリストファー・マッカリー。いい雰囲気だった『アウトロー』でもトムと組んでいるし、トム・クルーズを魅力的に見せる術を知っている。

冒頭、お馴染みのミッションを伝えられるシーンでにやりとした。中古レコード店。トムと女店員が合言葉を確認する会話。「なにかレアなものはないかな」「コルトレーン」「モンク」「ドラムはシャドウ・ウィルソン」。で、トムが買ってプレイヤーにかけると、音楽ではなく例のミッションが伝えらえるという趣向。

ジャケットは映らないが、この3人が一緒に演奏しているアルバムは2枚ある。「セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン」(ジャズランド)と「セロニアス・モンク・カルテット・ウィズ・ジョン・コルトレーン・アト・カーネギーホール」(ブルーノート)。どちらも1957年、新鋭コルトレーンが短期間モンクのグループにいたときの貴重な録音だ。コルトレーンがモンクと共演することで大きく飛躍したと言われる伝説のカルテット。ブルーノート盤は長らく眠っていた音源を2007年に発売したものだから、「レアもの」と言うここはジャズランド盤だ。


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今年最後のミントの葉

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home-made mint tea

今年三度目になる乾燥させたミントの葉。梅雨明け前後に摘んだので、5月に摘んだものに比べてかなり葉が厚く、大きくなっていた。ミント・ティーにした味は市販のものに比べて野性味たっぷり。というのは小生の評価で、家族は「あんまりおいしくない」の一言。でも今年はたくさん採れた。ミントは生命力が強いらしく、毎年自分の場所を拡げている。

右は木槿の花。木槿は夏のあいだ無数に花をつけるので(韓国の漢字表記だと「無窮花」)、毎日ひとつずつ採って皿に飾る。


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August 18, 2015

『堕天使殺人事件』を読む

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Boris Akunin"AZAZEL"(reading books)

ボリス・アクーニン『堕天使殺人事件』(岩波書店)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/


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August 17, 2015

『さよなら、人類』 どんな映画にも似てない

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A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence(viewing film)

いささかブラックではあっても、人間たちの愚行や愛おしさをゆったりしたリズムで紡いでいたこの映画が、いきなり歴史を露出させるシーンがある。

英国人らしき兵隊が鎖でつながれた黒人奴隷を巨大な円筒型の釜に閉じ込める。いくつものラッパ状の穴が開いた釜は回転しはじめ、釜の下から炎があがる。閉じ込められた奴隷たちは、当然、炎の熱にいぶされる。膨張した空気でラッパが悲しい音を立てはじめる。そのさまを、着飾った上流階級の年老いた貴顕淑女たちがシャンパン片手に悠然とながめている。この映画でいちばんぎょっとする場面だ。その釜には「BOLIDEN」と刻まれている。

BOLIDENとは、この映画がつくられたスウェーデンに本拠をおく国際的な鉱山会社。20世紀前半に金銀銅を採掘する国内最大の鉱山会社として出発し、やがてヨーロッパ、カナダ、南米などに広がるグローバル企業となった。スペインやチリなどで鉱毒による公害問題を引き起こしている(wikipedia)。

スウェーデンが20世紀になってアフリカに植民地を持ったことはないけれど、想像するに、BOLIDENはグローバル企業として陰に陽にヨーロッパによるアフリカの植民地収奪に手を貸していたのではないか。全体に超越した高みから人間たちの行動を見つめる視線が貫かれているなかで、この場面のリアルな感触は際立っている。スウェーデン人であるロイ・アンダーソン監督が、スウェーデンというより欧米の白人社会に向けてギラリと抜いて見せた鋭い刃みたいだ。

『さよなら、人類(原題:En duva satt på en gren och funderade på tillvaron)』は、いままで見たどんな映画にも似ていない。どんな映画にも似ていないけれど、映画以外のいろんな文化に隣接していると感じられるものはある。誰もが感ずるのは、絵画に隣接していることだろう。

映画はヨナタン(ホルガー・アンダーソン)とサム(ニルス・ウェストブロム)2人組の面白グッズ・セールスマンを狂言回しに、39のショート・ストーリーからなっている。固定カメラで捉えられたショート・ストーリーの冒頭で、登場人物はしばしば動きを止めている。絵のように見える。まず39枚の絵があり、ちょっと間をおいて絵(人物)が動き出しお話がはじまる、という体裁。

この映画の英語題名は原題をそのまま訳して「A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence」となっている。存在について考える、枝にとまった鳩、といった感じだろうか。このタイトルについてアンダーソン監督は、ブリューゲルの「雪中の狩人」という絵がヒントになったと語っている(wikipedia)。

「雪中の狩人」
は、雪景色のなかに犬を連れた狩人たちがいる。火を焚いてなにか作業している農夫もいて、池では村人たちがなにか作業している。そばに大きな木があり、枝に鳥が3、4羽とまって、下の人間たちを見ている。監督には、こう感じられた。鳥たちは人間を見て、なにか考えているようだ。それがこの映画のアイディアになった。鳥の目から見た人間たち。

出てくるのは、寂しい男と女たちの、思わず笑ってしまう愚かなふるまいの数々。空港ラウンジで急死した男が注文したビールを、誰か飲みませんかと言われ、おずおず手を挙げる男。太めの女性フラメンコ教師はレッスンしながら若い男の体を触りまくる。ヨナタンは、売り込み先で商品のドラキュラの牙を口に装着して人を驚かせる。酒場女のロッタは、金のない兵隊たちに自分にキスさせることで酒を飲ませる。独特の間と無表情がおかしみを醸しだす。同じ北欧のアキ・カウリスマキ映画のおかしさ、哀しさに通ずるところがある。美術のパフォーマンス・アートやスタンダップ・コメディにも隣接しているかもしれない。

そのうち、画面の時制が混乱しはじめる。現代のカフェの前を、18世紀スウェーデン国王カール12世の騎馬隊がロシアと戦うために通ってゆく。カール12世はロシアとたびたび戦った勇猛果敢な国王として有名らしいが、その国王がカフェに入ってきてバーテンの若い男を口説きはじめ、手を握る。日本で言えば織田信長みたいな存在になるのか、スウェーデンの観客にはこのお話はどう映るんだろう。

ところでこの映画はいっさいロケをせず、すべてスタジオのセットで撮影されている。カフェの向こうには工場と野原があるが、野原はマットペイント(背景画)で描かれている。昔の映画ではよく使われた手法だけど、CGでつくれる今ではまったくすたれてしまった。マットペイントで描かれた風景は、一見本物らしいけど微妙な空気感が違う(CGのものとも違う)。灰色にくすんだセットとマットペイント、そこに光と影を強調しないフラットな光をあてることで、どこかミニチュア感がかもしだし、それがこの映画の独特の空間をつくりだしている。そのなかを本物の数十頭の馬が通り過ぎることで、奇妙な感触がいや増す。

その上、カメラも固定され、カット割りも少ないので、映画というよりまるで舞台を客席からカメラで撮影しているようにも感じられる。そういえば映画史の初期には、舞台劇を固定カメラで撮影した映画もあった。

そして脈絡もなく黒人奴隷を焼き殺す挿話が入ってくる。でもそれがテーマとして発展することはなく、並行してヨナタンとサムの喧嘩別れ、そして2人が泊まっている殺風景な簡易宿泊所での和解と映画はエンディングにむかう。39のお話を樹上の鳩が眺めているような視線に、終末感があふれている。

僕がこの監督の映画を見るのははじめて。いろんな意味で現在の映画とは正反対の方向を向いてつくられているけれど、これもまたまぎれもなく映画。そのオリジナルな発想と完成度にヴェネツィア映画祭はグランプリを与えた。

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August 14, 2015

国会前 SEALDs集会で叫ぶ

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戦争したがるソーリはいらない
憲法読めないソーリはいらない
勝手に決めんな
国民舐めんな
屁理屈いうな
アベシンゾーから日本を守れ
アベシンゾーから憲法守れ
なんか自民党感じ悪いよね
誰も殺したくなくて ふるえる
戦争するのがいやで ふるえる
言うこときかせる番だ 俺たちが
民主主義ってなんだ? これだ!
立憲主義ってなんだ? これだ!
誰も殺すな
♪あ♪べ♪は♪や♪め♪ろ♪

言わずもがなの注。リーダーの「民主主義ってなんだ」のコールに対して参加者がレスポンスする「これだ!」とは、この場で声を発している私たちの在り方こそが民主主義だの意。

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August 13, 2015

『野火』 鮮烈な緑の中の酸鼻

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Fires on the Plain(vewing film)

大岡昇平の『野火』や『レイテ戦記』を読んだのはずいぶん昔のことになる。映画『野火』を見て初めて気づいたのは、文章を読んだときはうかつにも想像力が働かなかったけど、舞台になるレイテ島の熱帯雨林の鮮烈な緑だった。活字を読んだとき立ちあがってきたのは、黒く暗い密林。その頃は熱帯雨林のことをよく知らなかったせいもあるし、小説が描写する絶望的な状況が読み手の心理に反映したせいもあるだろう。

熱帯雨林は背の高い常緑広葉樹やヤシ類が濃い緑をなしている。太陽の光が地表まで届きにくいので、下草は乏しく、ジャングルにならないので移動はそんなに困難ではない。『野火』の敗残兵たちが下草を刈ることもなく森を歩き回るのはそのせいだ。

これも大岡昇平を読んで知ったことだが、熱帯雨林は意外にも食料が乏しい。僕は日本の縄文の森からの連想で豊富な果実をつける樹があるんじゃないかと思っていたが、熱帯雨林には乾季がないので実がなることが少なく、栄養は根に行ってしまうという。焼畑で栽培されているのもイモ類やキャッサバ。『野火』の敗残兵たちもイモを食べている。彼らが食べる動物といえば山蛭に蛇に蛙(小説)。後は、住民が飼育している家畜を強奪するくらい。いや、もうひとつあった。『野火』が描写しているように「猿」を食う。

日本軍には兵站という思想が乏しく(新安保法制について、後方支援つまり兵站は紛れもなく戦争の一部なのに戦闘行為ではないと強弁する今の政府の説明に至るまで)、食糧は現地調達を原則としていた。アジアの熱帯雨林に放り出された日本兵の死者の大半は、餓死と栄養失調からくる病気によるものだった。飢えた敗残兵に残された選択は、略奪か、死か、究極の選択としての人肉食か。

レイテ島で米軍との戦闘に敗れ、統制を失った日本軍。肺病病みで食糧調達の体力もない田村一等兵(塚本晋也)は部隊を追い出され、野戦病院からも出ろと言われ、熱帯雨林を彷徨うことになる。田村は村で出会った現地の女に恐怖から発砲して殺してしまい、自責の念にかられて銃を捨てる。

敗残兵のリーダーである伍長(中村達也)は傷つき、田村に「俺のここを食っていいよ」と言って死ぬ。足を怪我したと称する安田(リリー・フランキー)は、若い永松(森優作)に銃を持たせ「猿」を撃たせて食糧にしている。田村は安田たちと行動を共にするが……。

原作は生と死の極限的な状況と、それを見ながらベルグソンやドストエフスキーの一節を連想しベートーベンの曲を思う田村の哲学的内省とが交錯するけれど、映画は内省の部分を思い切りよく捨て、熱帯雨林の強烈な緑と、動物になった兵たちと死してモノとなった元人間たちの姿をひたすら描き出す。映画の田村は「インテリさん」と呼ばれるけれど、機転のきかないぼさっとした老兵でしかなく、塩を手に入れ偶然生き延びることから戦場の酸鼻を目撃することになる。

塚本晋也のこれまでの作品からして、一歩間違えればスプラッターかゾンビ映画に間違われかねないような死体の描写。内臓に湧く蛆虫。食えないので捨てられた手足。敵の米兵はトラックとサーチライトと銃弾でしか表されず、ひたすら強烈な緑のなかで死んでゆく敗残兵たちを追う。時折、緑のなかに立ち上る野火の煙が印象に残る。

僕は市川崑版『野火』を見ていないけれど、市川版はモノクロで、しかも御殿場でロケされている。当然のことながら、熱帯雨林の緑はない。名作として評価が高いけど、そこだけは塚本版に譲らざるをえない。

リリー・フランキーがいやらしい日本兵を演じて絶品。塚本晋也は「唯一残念なのは、自分が主演であること」と言っている(シネマトゥデイ「『野火』への道)。主演の田村役には人気俳優を起用してたくさんの人に見てもらいたかったが、名のある俳優を100日拘束し、フィリピン・ロケするのは資金的に無理だったという。

製作に当たって資金を募ったが、応ずる会社は現れなかった。金銭的なことだけでなく、「戦争を懐疑的に描くこと自体が難しくなってきている」(同前)とも感じたと言う。結局、塚本監督のプロダクションの自主製作映画となった。塚本が製作、監督、脚本、撮影、編集、主演と6役を兼ねているのはそういう理由からだ。

ロケはミンダナオ島で行ったが、フィリピンへ行ったのはスタッフ・キャスト含めてわずか4人というのに驚く。あとは似た風景がある沖縄と、大がかりな爆発シーンは東京近郊でロケした。映画としての濃密な出来とともに、「極限の小さい映画」として完成にこぎつけ、ベネツィア映画祭にセレクションされたことにも拍手を送りたい。

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August 07, 2015

SEALDsの集会へ

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今夜の国会前は2つの集会で、みんな声をあげている。正面向かって左は川内原発再稼働反対の集会。右はSEALDsの反安保法制の集会。それぞれに集会をしつつ、共鳴している。

今日は学生のSEALDsの集会に参加。シュプレヒコールも「こくみん・なめんな」「けんぽう・よめよ」「♪あ♪べ♪は♪や♪め♪ろ」とリズミカル。SEALDsは毎週金曜夜にここで集会をつづけるという。戦争に行きたくない利己主義者になろう。

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August 04, 2015

島唐辛子の花

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今年は沖縄の島唐辛子を育てている。小さな花が咲いた。島唐辛子は小さいけれど辛みは強烈。わが家はペペロンチーノはいつもこいつを使う。実がなるのが楽しみ。

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30センチ余りのゴーヤ。ドウダンツツジに這わせているので、上のほうの実に気づかず、黄色くなってはじめてこんなにおおきくなっていたんだと知った。もちろん食べられないので、来年播く種を採る。

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