『サイの季節』の誌的幻想
クルド系イラン人であるバフマン・ゴバディ監督の映画は、時に幻想的なショットが差しはさまれることがあっても、基本はセミ・ドキュメンタリーなタッチのリアリズム映画だったと思う。傑作『酔っぱらった馬の時間』から『亀も空を飛ぶ』『ペルシャ猫を誰も知らない』まで、それは変わらない。
新作『サイの季節(原題:Gergedan Mevsimi)』では、映画の感触が大きく変わっている。はじめ社会派のリアリズム映画みたいに話が進行するけど、途中からどこまでが現実でどこからが主人公の幻想なのか、区別がつかなくなってしまう。現在と過去を行き来して、この映像がどの時制なのかもあいまいになる。現在も過去も、現実も幻想も区別できない。すべてが主人公の主観的現実と考えれば納得がいく。
そこには、『ペルシャ猫を誰も知らない』をつくったことで故国を離れざるをえなくなり、異郷をさまようゴバディ監督の精神風景が投影されているのだろう。この映画は、イランと同じようにクルド人が住むトルコで製作された。物語はクルド系イラン詩人サデック・キャマンガールの体験に基づいている。
詩人のサヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)と、パーレビ王制司令官の娘であるミナ(モニカ・ベルッチ)の夫婦。1979年のイスラム革命で反イスラムとして逮捕され、2人は10~30年の懲役刑を宣告される。夫婦の運転手アクバル(ユルマズ・エルドガン)は革命派の幹部で、2人の逮捕の陰ではアクバルが糸を引いていた。逮捕前、アクバルはミナに思いを寄せ、彼女から拒絶されている。獄中でアクバルはミナを犯し、ミナは獄中で双子を産む。
そして現在。サヘルが釈放され、ミナを探す。ミナは、夫は死んだと告げられ、子供とともにトルコのイスタンブールで移民として暮らしていた。近くにアクバルの姿も見え隠れする……。サヘルはミナの家を探し当てるが、彼はどうしても扉を叩くことができない。陰鬱な海辺の家と、車からそれを見つめるサヘル。岸に打ち寄せる波が砕け、サヘルの乗る車のウインドーを雨滴が流れて、サヘルとミナを隔てている。
そんな物語に並行してサヘルのクルド語の詩が朗読され、寒々としたイランの風景が映し出される。詩のイメージと物語がまじりあってくる。話は現在と革命前と革命後のふたつの過去を行き来し、そのうちこの映像がどの時制の、現実なのか幻想なのかも分からなくなってくる。
縛られたサヘルの周囲に、夜の空から大量の亀が降ってくる。ありえないことだけど、それが不思議には感じられない。サイの群れの中をサヘルの車が走る(イランにもトルコにもサイは棲息していないはずだ)。最後にサヘルがミナに近づいていくのも、これは現実なのか幻想なのか。いろんなものが混沌としたまま、でもサヘルの思いの深さだけは残る。
ミナによってサヘルの背中に彫り込まれたサヘルの詩の一節、「国境に生きる者だけが新たな祖国をつくることができる」とは、国境に生きるゴバディ監督の決意でもあろう。
モニカ・ベルッチがヒジャブを被り、白髪の入り混じったイラン女性になりきっている。イタリアの女優だけど彼女、伊英仏語に加えペルシャ語も話すそうだ。すごい。アート系の映画だけど、50歳をすぎてヌードも披露する。社会的発言もするし、モニカのファンとして脱帽してしまった。
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