『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』 最高のアクション映画
Mad Max :Fury Road(viewing film)
これは時代を画する、と感ずるエンタテインメントにぶつかったときには興奮する。その映画を見て以後は、同じジャンルのどんな作品を見てもその映画と比較してしまうことになる。古いものなら『007 ロシアより愛をこめて』とか『荒野の1ドル銀貨』、『スターウォーズ』第1作、『ジョーズ』『エイリアン』『ターミネーター』といったあたり。
『マッド・マックス 怒りのデス・ロード(原題:Mad Max :Fury Road)』も時代を画するアクション映画になるのではないか。そんな感覚を覚えて興奮した。しかもこの映画、CGを駆使したヴィジュアル・エフェクト(VFX)全盛時代に、「90%はプラクティカル・エフェクト(実際に人間や物を配して撮影する)」(ジョージ・ミラー監督)でつくられている。
エンドロールではVFXのスタッフの名前が流れる前に、スタントとして150人ほどの名前が、次に映画の中で活躍する十数台の改造車をつくったスタッフの名前が延々と流れる。この映画のスタンスを明らかにしていて、思わず「いいね」とつぶやきたくなる。
映画は荒野でなく砂漠を舞台に、馬でなく車が疾走する西部劇だ。冒頭は、元警官の流れ者マックス(トム・ハーディ)がおんぼろの改造車を降り、丘の上から砂漠を見渡すショット。西部劇オープニングの定番ですね。核戦争後の世界というのも、おなじみの設定。
石油や水が貴重品である荒廃の地をイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)が支配していて、マックスはジョーの戦士に捕らわれる。一方、大隊長フュリオサ(シャーリーズ・セロン)はジョーに反旗を翻し、ジョーに捕らわれ子供を産むことを命じられた5人の女たちとともに改造トレーラーで故郷に帰ろうとする。ジョーの軍団がフュリオサを追い、改造車と改造車の戦闘。生き残ったマックスはフュリオサに合流し、ジョーの軍団に対する逃亡と復讐戦が始まる……。
僕は車好きではないけれど、ビザールな改造車の群れに目は釘づけされた。『エイリアン』をデザインしたギーガーと一脈通ずる感覚の改造車の数々は、ピーター・パウンドがこの映画のために描いたコンセプト・アートが元になっている。その改造車や、放射能汚染で生まれた異形の人間たちといったグロテスクな映像感覚と全編に流れるパンク・ロックが黙示録的な映画を貫いている。昔の『マッド・マックス』にもそのテイストは流れていたと記憶する。
戦闘シーンは息つく間もなくすさまじい。映画の大部分がカーチェイスと改造車同士の戦闘。南アフリカのナミブ砂漠で、実際につくられた改造車とスタント(サーカス団員やオリンピック選手もいたそうだ)で撮影したというけれど、砂漠を突っ走る改造車の衝突とか、トレーラー上で戦う戦士とか、CGでは絶対に再現できないリアリティと迫力。デジタルの映画用カメラ(アレクサ)だけでなくキヤノンEOS 5DsやオリンパスPEN E-P5sといった小型スチール・カメラも(むろん動画機能で)使われている。
それ以上にこの映画ですごいのは、セリフが少ないこと。監督はマックスにもフュリオサにも必要最小限しかしゃべらせない。彼らの感情は、セリフや表情でなくアクションで表現される。黙って行動するマックスやフュリオサから、決然とした意志や悲しみが匂ってくる。
もともと映画はmotion pictureとかmovieと呼ぶように、19世紀末に人や物の驚異的なアクションで観客を魅了する見世物として出発した。むろんサイレントで、セリフはない。『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』は、そんな映画の原点に意識的に還ろうとしているように見える。
髪を切って義手をはめ、顔をオイルで黒く塗りたくったシャーリーズ・セロンにしびれる。『サイダーハウス・ルール』や『あの日、欲望の大地で』といったシリアスな映画の印象しかないけど、この映画でアクション映画のヒロインとしても記憶に残るだろう。トム・ハーディも筋肉むきむきのタイプではないけど、流れ者の雰囲気がよく出てた。21世紀最高のアクション映画と言ってみたくなる。
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