『ルック・オブ・サイレンス』 加害の蓋を開ける
The Look of Silence(viewing film)
去年公開された『アクト・オブ・キリング』は1965年にインドネシアで起きた大虐殺を素材に、加害者に殺害を演じさせて劇映画をつくりそのメイキングをドキュメンタリーにするという反則すれすれの手法で、しかしそのことによって加害者の隠された内面を暴き出したグロテスクな映画だった。『ルック・オブ・サイレンス(原題:The Look of Silence)』はその続編に当たる。
前作は加害者の側から事件を見たものだが、『ルック・オブ・サイレンス』は逆に被害者の側から事件を見ている。しかも被害者が、今も同じ地域に住む加害者であり有力者でもある人物を訪ね歩くという、緊張と危険を伴うドキュメンタリーになっている。
30代くらいの男性アディが、ジョシュア・オッペンハイマー監督が10年前に撮影した映像を見ている。そこでは虐殺者だった2人の男が、どんなふうにアディの兄を殺したのかを演じて見せている。手をくくり、川まで引きずって、首を切り川に蹴落としたと得意げに語る2人。映画では語られないが、アディは監督に加害者を訪れて話を聞いて回りたいと提案したという。
事件の背景はこうだ。インドネシア陸軍の親共産党とされる将校団がクーデタを企図したが、後に大統領となるスハルト少将により鎮圧された。スハルトは、共産主義者を弾圧するという名目で100万とも200万ともいわれる市民、小作農、華僑、知識人を虐殺した。当時共産党は合法政党だったので軍が直接手をくだすわけにいかず、民兵やならず者を組織して虐殺を実行させている。彼らは罪を問われず、今も国民的英雄として各界で実権を握っている。
農村に住むアディは眼鏡技師として働いている。どうやら無料検診するという名目らしいが、カメラとともに加害者を訪問する。検診しながら、アディは半世紀近く前の出来事に話を向けていく。やがて、触れたくない話に検眼用眼鏡をかけたかつての加害者の顔の筋肉がぴくぴくしはじめる。
「過去は過去。忘れよう」「過去を蒸し返すとまた同じことが起きる」「イスラム教にも敵は殺してよいとある」と、加害者は自らの責任を認めようとしない。アディの叔父も収容所の看守をしていたが、「私はただ見張りをしていただけだ。何が起こったのか知らない」と逃げる。地域の実力者らしい男は、「お前も近所の仲間だろう。どこに住んでいるんだ」と脅しめいた文句を吐く。ある加害者は、アディの去り際に「お前は過去の傷を開けてしまった」と言いつのる。
加害者は「殺した者の血を飲んだ」と言う。迷信らしいが、そうすることによって精神が狂うことから免れるのだという。加害者もまた、自分がなにをやっているのか分かっているのだ。
アディには年老いた両親がいる。息子を殺した男たちのそばで暮らしているせいで、母親は息子のこと口にすることができなかった。アディが兄のことを聞きはじめると、母親からは堰を切ったように息子が殺されたときのこと、息子に対する思いがほとばしりでる。「兄さんを殺した男たちに囲まれて暮らすのは、どんな気持ちなんだろう」と、アディが母に呟く。
アディの兄の死体が流された川の映像が繰り返される。アディが加害者に向き合っている間、途切れることなくコオロギの鳴く音が背後に流れている。アディの母は裏の畑に出て包丁で野菜を切っている。人間たちの背後にあるそんな自然の風景や音の静謐さが想像力を刺激する。
『アクト・オブ・キリング』はいささかあざとい手法で加害者の心の奥を引き出したけれど、『ルック・オブ・サイレンス』は正攻法のドキュメンタリーによって、過去の罪を取り繕う有力者たちの偽善をカメラの前にさらけ出している。映画としての衝撃度は前作のほうが勝るけれど、その危うさは今作と対で見ることによって均衡が取れたと言えるかもしれない。
前作もそうだったが、今作も映画製作自体が危険をはらんでいる。エンドロールには、スタッフに多数の「アノニマス」のクレジットが出る。主人公のアディも脅しめいた言葉を吐かれていた。彼自身が提案した映画とはいえ、それによって彼が傷つくことになれば、この映画の価値も疑われる。そのあたりの舞台裏は伺いしれないけれど、アディとその家族が平穏でいられるよう祈るしかない。
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