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July 28, 2015

『ルック・オブ・サイレンス』 加害の蓋を開ける

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The Look of Silence(viewing film)

去年公開された『アクト・オブ・キリング』は1965年にインドネシアで起きた大虐殺を素材に、加害者に殺害を演じさせて劇映画をつくりそのメイキングをドキュメンタリーにするという反則すれすれの手法で、しかしそのことによって加害者の隠された内面を暴き出したグロテスクな映画だった。『ルック・オブ・サイレンス(原題:The Look of Silence)』はその続編に当たる。

前作は加害者の側から事件を見たものだが、『ルック・オブ・サイレンス』は逆に被害者の側から事件を見ている。しかも被害者が、今も同じ地域に住む加害者であり有力者でもある人物を訪ね歩くという、緊張と危険を伴うドキュメンタリーになっている。

30代くらいの男性アディが、ジョシュア・オッペンハイマー監督が10年前に撮影した映像を見ている。そこでは虐殺者だった2人の男が、どんなふうにアディの兄を殺したのかを演じて見せている。手をくくり、川まで引きずって、首を切り川に蹴落としたと得意げに語る2人。映画では語られないが、アディは監督に加害者を訪れて話を聞いて回りたいと提案したという。

事件の背景はこうだ。インドネシア陸軍の親共産党とされる将校団がクーデタを企図したが、後に大統領となるスハルト少将により鎮圧された。スハルトは、共産主義者を弾圧するという名目で100万とも200万ともいわれる市民、小作農、華僑、知識人を虐殺した。当時共産党は合法政党だったので軍が直接手をくだすわけにいかず、民兵やならず者を組織して虐殺を実行させている。彼らは罪を問われず、今も国民的英雄として各界で実権を握っている。

農村に住むアディは眼鏡技師として働いている。どうやら無料検診するという名目らしいが、カメラとともに加害者を訪問する。検診しながら、アディは半世紀近く前の出来事に話を向けていく。やがて、触れたくない話に検眼用眼鏡をかけたかつての加害者の顔の筋肉がぴくぴくしはじめる。

「過去は過去。忘れよう」「過去を蒸し返すとまた同じことが起きる」「イスラム教にも敵は殺してよいとある」と、加害者は自らの責任を認めようとしない。アディの叔父も収容所の看守をしていたが、「私はただ見張りをしていただけだ。何が起こったのか知らない」と逃げる。地域の実力者らしい男は、「お前も近所の仲間だろう。どこに住んでいるんだ」と脅しめいた文句を吐く。ある加害者は、アディの去り際に「お前は過去の傷を開けてしまった」と言いつのる。

加害者は「殺した者の血を飲んだ」と言う。迷信らしいが、そうすることによって精神が狂うことから免れるのだという。加害者もまた、自分がなにをやっているのか分かっているのだ。

アディには年老いた両親がいる。息子を殺した男たちのそばで暮らしているせいで、母親は息子のこと口にすることができなかった。アディが兄のことを聞きはじめると、母親からは堰を切ったように息子が殺されたときのこと、息子に対する思いがほとばしりでる。「兄さんを殺した男たちに囲まれて暮らすのは、どんな気持ちなんだろう」と、アディが母に呟く。

アディの兄の死体が流された川の映像が繰り返される。アディが加害者に向き合っている間、途切れることなくコオロギの鳴く音が背後に流れている。アディの母は裏の畑に出て包丁で野菜を切っている。人間たちの背後にあるそんな自然の風景や音の静謐さが想像力を刺激する。

『アクト・オブ・キリング』はいささかあざとい手法で加害者の心の奥を引き出したけれど、『ルック・オブ・サイレンス』は正攻法のドキュメンタリーによって、過去の罪を取り繕う有力者たちの偽善をカメラの前にさらけ出している。映画としての衝撃度は前作のほうが勝るけれど、その危うさは今作と対で見ることによって均衡が取れたと言えるかもしれない。

前作もそうだったが、今作も映画製作自体が危険をはらんでいる。エンドロールには、スタッフに多数の「アノニマス」のクレジットが出る。主人公のアディも脅しめいた言葉を吐かれていた。彼自身が提案した映画とはいえ、それによって彼が傷つくことになれば、この映画の価値も疑われる。そのあたりの舞台裏は伺いしれないけれど、アディとその家族が平穏でいられるよう祈るしかない。


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July 24, 2015

日比谷野音から官邸前へ

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日比谷野音で「安倍政権NO!」集会に参加する。安保法制反対、反原発、反ヘイトスピーチ、SEALDsなど十数団体が「安倍NO!」を共通項に主催している。コンサート以外で野音が満員になったのを見るのは久しぶりだなあ。

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この夜は別の団体が首相官邸・国会包囲大抗議をやっている。官邸前へ行く途中で会った夫婦。官邸前には日の丸を掲げた在特会もいた。こちらは抗議ではなさそうで、周囲から「ファシスト帰れ」の声を浴びている。

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マッコイ・タイナーとジョー・ロバーノ

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McCoy Tyner & Joe Lovano Quartet

マッコイ・タイナーを聴くこれが最後の機会かな、と思いつつライブに行った(Blue Note東京、7月23日)。ジョー・ロバーノとのコラボも魅力だ。

事前のアナウンスでは、最初にジョー・ロバーノのトリオ、次がマッコイ・タイナーのトリオ、最後にカルテットということだった。でもジョーのトリオが舞台に上がったあと、また拍手が起こる。舞台袖を見ると、マッコイが若い付き人に手を引かれて歩いてくる。77歳、あの巨体は小さくなり、足元もおぼつかない。でも最初からマッコイが弾くとわかって場内が湧く。

歩く姿は老人だけど、ピアノに向かえばマッコイ・タイナーの音は健在だ。1曲目から全開。全盛時の早弾き、流麗なピアノとはさすがに違うけど、若いころよりむしろ力強いタッチ。左手でピアノを打楽器のように叩いてリズムをつくる。かと思うと一瞬、コルトレーンの背後で弾いているのかと錯覚させる音を繰りだす。障害があるのだろうか、右手は時に力強さに欠けるけど相変わらず美しい。

それ以上に素晴らしかったのがジョーのサックス。次々にフレーズが湧いてくる。リズミックに吹いていたかと思うと、いきなり吠える。図太いトーンから、こすれるような翳りある音まで変幻自在。ステージそばの席だったので、2メートル足らずの近さでジョーの音のシャワーを浴びて幸せだった。

マッコイのソロ、ジョーのトリオ2曲をはさんで、最後にカルテットの「イン・ナ・メロー・トーン」まで、久しぶりに興奮した。ベースはジェラルド・キャノン、ドラムスはフランシスコ・メラと若い2人。

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July 20, 2015

『サイの季節』の誌的幻想

Photo
Rhino Season(viewing film)

クルド系イラン人であるバフマン・ゴバディ監督の映画は、時に幻想的なショットが差しはさまれることがあっても、基本はセミ・ドキュメンタリーなタッチのリアリズム映画だったと思う。傑作『酔っぱらった馬の時間』から『亀も空を飛ぶ』『ペルシャ猫を誰も知らない』まで、それは変わらない。

新作『サイの季節(原題:Gergedan Mevsimi)』では、映画の感触が大きく変わっている。はじめ社会派のリアリズム映画みたいに話が進行するけど、途中からどこまでが現実でどこからが主人公の幻想なのか、区別がつかなくなってしまう。現在と過去を行き来して、この映像がどの時制なのかもあいまいになる。現在も過去も、現実も幻想も区別できない。すべてが主人公の主観的現実と考えれば納得がいく。

そこには、『ペルシャ猫を誰も知らない』をつくったことで故国を離れざるをえなくなり、異郷をさまようゴバディ監督の精神風景が投影されているのだろう。この映画は、イランと同じようにクルド人が住むトルコで製作された。物語はクルド系イラン詩人サデック・キャマンガールの体験に基づいている。

詩人のサヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)と、パーレビ王制司令官の娘であるミナ(モニカ・ベルッチ)の夫婦。1979年のイスラム革命で反イスラムとして逮捕され、2人は10~30年の懲役刑を宣告される。夫婦の運転手アクバル(ユルマズ・エルドガン)は革命派の幹部で、2人の逮捕の陰ではアクバルが糸を引いていた。逮捕前、アクバルはミナに思いを寄せ、彼女から拒絶されている。獄中でアクバルはミナを犯し、ミナは獄中で双子を産む。

そして現在。サヘルが釈放され、ミナを探す。ミナは、夫は死んだと告げられ、子供とともにトルコのイスタンブールで移民として暮らしていた。近くにアクバルの姿も見え隠れする……。サヘルはミナの家を探し当てるが、彼はどうしても扉を叩くことができない。陰鬱な海辺の家と、車からそれを見つめるサヘル。岸に打ち寄せる波が砕け、サヘルの乗る車のウインドーを雨滴が流れて、サヘルとミナを隔てている。

そんな物語に並行してサヘルのクルド語の詩が朗読され、寒々としたイランの風景が映し出される。詩のイメージと物語がまじりあってくる。話は現在と革命前と革命後のふたつの過去を行き来し、そのうちこの映像がどの時制の、現実なのか幻想なのかも分からなくなってくる。

縛られたサヘルの周囲に、夜の空から大量の亀が降ってくる。ありえないことだけど、それが不思議には感じられない。サイの群れの中をサヘルの車が走る(イランにもトルコにもサイは棲息していないはずだ)。最後にサヘルがミナに近づいていくのも、これは現実なのか幻想なのか。いろんなものが混沌としたまま、でもサヘルの思いの深さだけは残る。

ミナによってサヘルの背中に彫り込まれたサヘルの詩の一節、「国境に生きる者だけが新たな祖国をつくることができる」とは、国境に生きるゴバディ監督の決意でもあろう。

モニカ・ベルッチがヒジャブを被り、白髪の入り混じったイラン女性になりきっている。イタリアの女優だけど彼女、伊英仏語に加えペルシャ語も話すそうだ。すごい。アート系の映画だけど、50歳をすぎてヌードも披露する。社会的発言もするし、モニカのファンとして脱帽してしまった。

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July 19, 2015

浦和のお祭り

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summer festival in Urawa

今日はこのあたりのお祭り。かつては旧中山道沿いに商店がたくさんあったけどそれも減り、この数十年はそれほど盛んとはいえない。わが家も子供が大きくなってからは寄付を出すだけになってしまった。散歩帰り、太鼓の音に誘われて隣の町会のお祭りを覗くと、3人だけの「浦和踊り」がはじまっていた。

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July 18, 2015

今朝の収穫

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昨日、一昨日と雨だったので、今朝はいろいろ採った。大根、ゴーヤ、ナス、トマト。大根は前に採ったのが使いきれていなかったので抜くのを数日ためらっていたら、下のほうが少し割れている。葉と茎も硬くなっていて、ぬか漬けは無理かも。

昨日、台風余波の風で3本のトマトのうち1本の茎が折れてしまった。枝葉が茂り、実もなりはじめていたので重みに耐えかねたか。茎をきっちり支柱に縛っておかなかったのがいけないんだろう。これから収穫の時期というのに残念。素人の仕事です。


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July 17, 2015

再び国会前へ

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今日も夜に集会があるけれど、用事があって参加できない。意思表示だけはしておこうと思って夕方、国会前へ。「アベ政治を許さない」のポスターを手に歩いていると、皆さん思い思いに集会を待っている。このグループは三線に合わせて「花」を歌う。


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July 16, 2015

国会前へ

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安保法案強行採決のニュースを聞いて国会前へ。おおぜいの人たちが詰めかけている。辻元清美議員が「今日を安倍政権の終わりの始まりの日にしよう」と挨拶。よんどころない用事があり集会途中で抜けたけど、地下鉄の駅に向かうと、さらに多くの人たちが国会に向かっている。この波をさらに大きく。ひとりひとりの力を集めて政治を動かしたい。


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July 12, 2015

新宿へ

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先々週の金曜夜、オフィスで仕事していたらメールが来た。「国会前に来てる。IさんもU夫妻もいるよ」。新安保法案に反対する集会に参加していた友人からだった。その夜も週末も深夜までの仕事がつづき、返事しそこねてしまった。会社勤めというのは仕事を通してしか社会とつながらず、それは社会生活のほんの一部のことで、実は社会とあまりつながってないんだなあというのがよくわかる。

2カ月つづいたオフィス通いが終わり、温泉でのんびりして、今日から「社会復帰」。どこかで新安保法案反対の集会をやっていないか探して、新宿駅南口へ。猛暑だけど100人以上が集まっている。小生と同じようにネットで探して来たという、神戸から出張中の弁護士らが話をしている。「アベ政治を許さない」のちらしを掲げる。今週はほとんど連日、日比谷野音や国会前で集会がある。

集会が終わって、クルド映画『サイの季節』へ。政治と革命に翻弄された夫婦の話。

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July 11, 2015

『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』 最高のアクション映画

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Mad Max :Fury Road(viewing film)

これは時代を画する、と感ずるエンタテインメントにぶつかったときには興奮する。その映画を見て以後は、同じジャンルのどんな作品を見てもその映画と比較してしまうことになる。古いものなら『007 ロシアより愛をこめて』とか『荒野の1ドル銀貨』、『スターウォーズ』第1作、『ジョーズ』『エイリアン』『ターミネーター』といったあたり。

『マッド・マックス 怒りのデス・ロード(原題:Mad Max :Fury Road)』も時代を画するアクション映画になるのではないか。そんな感覚を覚えて興奮した。しかもこの映画、CGを駆使したヴィジュアル・エフェクト(VFX)全盛時代に、「90%はプラクティカル・エフェクト(実際に人間や物を配して撮影する)」(ジョージ・ミラー監督)でつくられている。

エンドロールではVFXのスタッフの名前が流れる前に、スタントとして150人ほどの名前が、次に映画の中で活躍する十数台の改造車をつくったスタッフの名前が延々と流れる。この映画のスタンスを明らかにしていて、思わず「いいね」とつぶやきたくなる。

映画は荒野でなく砂漠を舞台に、馬でなく車が疾走する西部劇だ。冒頭は、元警官の流れ者マックス(トム・ハーディ)がおんぼろの改造車を降り、丘の上から砂漠を見渡すショット。西部劇オープニングの定番ですね。核戦争後の世界というのも、おなじみの設定。

石油や水が貴重品である荒廃の地をイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)が支配していて、マックスはジョーの戦士に捕らわれる。一方、大隊長フュリオサ(シャーリーズ・セロン)はジョーに反旗を翻し、ジョーに捕らわれ子供を産むことを命じられた5人の女たちとともに改造トレーラーで故郷に帰ろうとする。ジョーの軍団がフュリオサを追い、改造車と改造車の戦闘。生き残ったマックスはフュリオサに合流し、ジョーの軍団に対する逃亡と復讐戦が始まる……。

僕は車好きではないけれど、ビザールな改造車の群れに目は釘づけされた。『エイリアン』をデザインしたギーガーと一脈通ずる感覚の改造車の数々は、ピーター・パウンドがこの映画のために描いたコンセプト・アートが元になっている。その改造車や、放射能汚染で生まれた異形の人間たちといったグロテスクな映像感覚と全編に流れるパンク・ロックが黙示録的な映画を貫いている。昔の『マッド・マックス』にもそのテイストは流れていたと記憶する。

戦闘シーンは息つく間もなくすさまじい。映画の大部分がカーチェイスと改造車同士の戦闘。南アフリカのナミブ砂漠で、実際につくられた改造車とスタント(サーカス団員やオリンピック選手もいたそうだ)で撮影したというけれど、砂漠を突っ走る改造車の衝突とか、トレーラー上で戦う戦士とか、CGでは絶対に再現できないリアリティと迫力。デジタルの映画用カメラ(アレクサ)だけでなくキヤノンEOS 5DsやオリンパスPEN E-P5sといった小型スチール・カメラも(むろん動画機能で)使われている。

それ以上にこの映画ですごいのは、セリフが少ないこと。監督はマックスにもフュリオサにも必要最小限しかしゃべらせない。彼らの感情は、セリフや表情でなくアクションで表現される。黙って行動するマックスやフュリオサから、決然とした意志や悲しみが匂ってくる。

もともと映画はmotion pictureとかmovieと呼ぶように、19世紀末に人や物の驚異的なアクションで観客を魅了する見世物として出発した。むろんサイレントで、セリフはない。『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』は、そんな映画の原点に意識的に還ろうとしているように見える。

髪を切って義手をはめ、顔をオイルで黒く塗りたくったシャーリーズ・セロンにしびれる。『サイダーハウス・ルール』や『あの日、欲望の大地で』といったシリアスな映画の印象しかないけど、この映画でアクション映画のヒロインとしても記憶に残るだろう。トム・ハーディも筋肉むきむきのタイプではないけど、流れ者の雰囲気がよく出てた。21世紀最高のアクション映画と言ってみたくなる。


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July 09, 2015

高湯温泉につかる

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visiting Takayu Spa in Fukushima

2カ月のオフィス通いの仕事がようやく終わり、福島県の高湯温泉に行ってきた。福島駅から吾妻山連峰へ向けてバスで40分、標高750メートルの山間にある。400年前に発見され、古くから薬湯として有名な温泉だ。

泊まったのは玉子湯という旅館。明治元年創業で、当時の茅葺の湯小屋がそのままの姿で再現されている。

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湯小屋の内部。男女別で5、6人も入ればいっぱいになってしまうほどの浴槽。むろん、今も入れる。たいていの人は覗くだけで別の湯に行ってしまう。ちょっと熱めの湯にひとりのんびりつかった。

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湯小屋のそばにある源泉。この宿には、源泉がもうひとつある。

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湯小屋のほかに、内湯がふたつ、露天風呂がふたつ。これは露天の天渓の湯。湯は白濁した硫黄泉。湯の向こうに阿武隈川の支流、須川が流れている。対岸はミズナラ、エドヒガン、アカマツなどの林。まだ真夏の緑でなく、初夏の黄緑色。渓流の音を聞き、緑を目にし、ぬるめの湯につかっていると時間を忘れる。

日に三度、温泉につかり、散歩し、本を読み、食って寝て、それだけの四日間。持っていった本は青木正夫ほか『中廊下の住宅─明治大正昭和の暮らしを間取りに読む』という建築の専門書。昭和3年建築、築87年のわが家が明治以降の住宅の歴史のなかでどんな位置にあるのかがよくわかった。

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明治20年代の旅館。ここに寝泊まりし、先ほどの湯小屋で温泉につかったのだろう。農閑期の湯治場として栄えたそうだ。

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内湯の湯口。硫黄で木が変色している。

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宿から15分ほど上流へ歩くと温泉神社がある。周辺に7、8軒の宿がある。

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須川の河原にある源泉。高湯温泉は湯量が豊富で、どの宿も「源泉かけ流し」になっている。「源泉かけ流し」は湯が豊富で、しかも適当な湯温度でないとできない。僕は必ずしも源泉かけ流しにこだわらないけど、ぜいたくなことではある。

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July 03, 2015

『海街diary』 言葉にならないもの

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Our Little Sister(viewing film)

土曜日の午後、有楽町マリオン。大きな劇場だけど、客席は7割方埋まっていた。客層は若いカップルから高年者までさまざま。暗闇の中で、ときおり暖かく穏やかな笑いが広がる。こういう感じは近ごろあまり経験したことがない。こんな空気を感じたのはいつだったろうと考えてみたら、子供のころ母親に連れられて松竹系の映画館に行き、東映時代劇ファンだった子供には面白いと思えなかったホームドラマを見せられたときの劇場の雰囲気に近い。

是枝裕和監督の映画には家族をテーマにしたものが多い。でも、どちらかといえば海外の映画祭に出品され単館ロードショー系の映画館で公開されるタイプの作品で、たくさんの観客を集めるメジャーな映画とは別ものだった。それが『海街diary』の、これまでの作品からの変化だろう。

この映画の主役は、いちども姿を見せない死んだ父親である。4人の娘たちも元妻も、不在の父親とのそれぞれの関係を生きている。でも父親が画面にいちども映らないのと同様に、父親と彼女らの関係のいちばん深いところが言葉にされることはない。

鎌倉の三姉妹の家に腹違いの妹・すず(広瀬すず)がやってくると、三女の千佳(夏帆)が部屋の中で釣竿を出し、ヘラブナがかかった瞬間の手首の返しを練習している。父親がすずの母親と関係ができて出奔したとき、千佳は小さかったので父親の記憶がほとんどない。千佳は妹のすずに父親のことをさかんに聞く。

話のなかで、すずは父親に釣りに連れて行ってもらったことをしゃべる。それを聞いた瞬間、夏帆は見る人が気づくか気づかないか程度にちょっと頬をゆるめる。でも二人の間で、それ以上の会話はない。言葉にはされないし、千佳の表情をクローズアップすることもないけれど、釣りの趣味が父親ゆずりだったこと、幼い頃に父親の釣り姿を見ているに違いないと悟った千佳が父親との絆を確認するさりげない、でも素晴らしいショットだ。

そんなふうにこの映画には、言葉や映像の技によらずに人と人の関係を語る繊細で、優しいショットに満ちている。

次女の佳乃(長澤まさみ。色っぽい)は、若い恋人のアパートから朝帰りするような生活を送っている。しっかり者の長女・幸(綾瀬はるか)の小言を受け流し、縁側にだらしなく寝そべって幸やすずが庭仕事するのを見物していたりする。地方銀行に勤める佳乃は仕事が外勤に変わり、上司の坂下(加瀬亮)と顧客の家を訪ねる日々になる。佳乃と坂下は、仕事が終わって海岸に腰かけて休んでいるときも仕事の話しかしないけれど、やがてこの二人が恋人同士になりそうな気配をそこはかとなく感じさせる。

佳乃のだらしない生活も、三人の女性を次々に乗りかえた父親の影を無意識に引きずっているだろう。でも、すずと同居するようになったことをきっかけに、佳乃も生活を変えようとしているように見える。これもまた言葉にされないけれど、新しく買ったビジネス・スーツを身体に当ててみるショットで暗示されている。

『海街diary』では、大事なことはことごとく言葉にされない。クローズアップやモンタージュによってそれが強調されることもない。それは是枝監督の映画に昔からあったけれど、この映画ではそれが完成形になったように思える。

よく是枝作品への小津安二郎の影響が言われるけれど、僕はあまりそう感じたことがない。僕の印象では、小津映画はセリフ劇で、親と娘にしろ舅と嫁にしろ、対話によって物語が進んでいく。小津映画の余韻はそういうことではなく、物語と無関係な風景を挟む「空(から)ショット」を効果的に使ったりすることから生まれると思う。

また『海街diary』は鎌倉の古い日本家屋が舞台になって、いかにも小津映画。でも部屋のなかのショットの多くは斜めからの視覚で、ローアングルで襖や鴨居を正面から捉える「小津の画面」は意識的に避けられている。

鎌倉が舞台になっていたり、嫁き遅れた娘が出てきたり、いかにも小津安二郎の設定と似ているのは原作のマンガの設定だろうから、小津と是枝というより、小津と原作者・吉田秋生の影響関係を考えるほうがいいだろう。でも、これは確かに小津だなあと思ったのは佳乃と坂下が鎌倉海岸で石畳に座って話すショット。これは『東京物語』の熱海海岸の堤防で笠智衆と東山千栄子が話すのと同じ構図だった。

もうひとつ、元妻役の大竹しのぶが小津映画の杉村春子みたいに出てくるのには笑ってしまった。なんのかの言っても、やはり是枝裕和と小津安二郎は重ねて考えてみたくなる。


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