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June 28, 2015

大根の収穫

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10年ぶりくらいで大根をつくっている。葉は勢いよく伸びた。果たして根は大きく長く育っているか。

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抜いてみたら、まずまずの大きさ。でも、種を播く前に土を深く掘って小石を除く作業がちょっと浅かったのか。最後のところで石に当たったらしく、根が二股に分かれてしまった。やはり素人の仕事です。

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この2カ月、オフィスに通っての仕事が続いているので庭の手入れがおろそかになっている。映画もあまり見られず、ブログの更新も滞っている。今週で終わるので、ブログもちゃんと書かねば。


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June 22, 2015

『広告写真のモダニズム』を読む

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Modernism of Advertising Photography(reading book)


松實輝彦『広告写真のモダニズム』(青弓社)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/

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June 21, 2015

『誘拐の掟』 くすんだブルックリンの街

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A Walk among The Tombstones(viewing film)

私立探偵を主人公とするハードボイルドは僕がいちばん好きなジャンルのエンタテインメントだけど、最近はとんとつくられなくなった。その久しぶりの1本。しかも、かつて熱中して読んだローレンス・ブロックのマット・スカダーものだから期待が高まる。

マット・スカダーものは1980年代に『800万の死にざま』がハル・アシュビー監督で映画化されたことがある。マット・スカダー役はジェフ・ブリッジス。正統ハードボイルドというよりオフ・ビートなニュー・シネマっぽい映画で、これはこれで好きな映画だったけど、舞台がニューヨークからロサンゼルスに移されていたので、ニューヨークの街がもうひとつの主人公である原作の味わいは乏しかった。

『誘拐の掟(原題:A Walk among The Tombstones)』は原作通りにニューヨークの、冬で色彩感の乏しい街の風景がふんだんに出てきて、それだけでも原作の味を堪能できる。しかもこのシリーズ、たいていはマンハッタンが舞台になっているのだが、この作品は(原作も)ブルックリンが舞台になっている。マンハッタンの洒落た都市風景とは別のくすんだ街並みや墓地の広大な緑地が、ブルックリンに住んだことのある僕には懐かしい。

元アル中の警官で無免許私立探偵のマット(リーアム・ニーソン)のもとに、禁酒集会で顔を合わせるケニーから依頼があった。兄・ピーターの妻が誘拐され40万ドルの身代金を要求された、警察に届けずに探し出したいという。さらに、ピーターの知り合いの男の娘も誘拐される。実はピーターもその知り合いの男も、麻薬のディーラーだった。やがてピーターの妻は猟奇殺人の犠牲となって発見される。マットは誘拐犯と交渉しながら彼らを追い詰めてゆく。

ピーターの家はクリントン・ヒルにある。築100年以上の褐色砂岩のタウンハウスが並ぶ落ち着いた住宅街。僕が住んでいたアパートから歩いて10分ほどのところにある。妻が誘拐されたのは、その近くのアトランティック・アベニューとの交差点近い商店街。妻の遺体が発見されるのは、港近くの廃工場地帯であるレッド・フック。昼でも人けの少ない寂しい地域だ。

もう一人の麻薬ディーラーの邸宅は、ヴェラザノ・ナロウズ橋が見えるからベイ・リッジだろう。身代金の受け渡しと銃撃戦が展開されるのはプロスペクト・パークのそばにある広大なグリーンウッド墓地。犯人たちの家もこの近くにある。ほかに高級住宅街のブルックリン・ハイツや、ポール・オースターが脚本を書いた『スモーク』の舞台、パーク・スロープらしき場所も映る。映画の設定は1999年。ジュリアーニが市長になって治安が回復しつつあった時代のブルックリンが舞台になっているとはいえ、荒廃したビルも出てくる。

原作(邦題:「獣たちの墓」)は十数巻のシリーズのうち「倒錯3部作」と呼ばれるものの一つで、90年代に『羊たちの沈黙』でブームになった猟奇犯罪を素材にしている。でも映画では、あからさまにそれを描写することはない。ローレンス・ブロックの小説も過激な描写は少なく品のよさが身上だから、原作の味を損なってはいない。その代わり警官時代に誤って少女を撃ち、アル中になったというマットの過去と、今もその傷が疼くといういかにも70~80年代のネオ・ハードボイルドらしい設定は映画でも生かされている。翳りを秘めた私立探偵を演ずるリーアム・ニーソンがいい。

それ以上に見事なのは色彩の設計。マットが着ているのはいつも黒か濃茶。季節は色彩の乏しい冬。しかもマンハッタンのように派手な色彩のないブルックリン。映画全体が暗く、重くくすんでいる。

原作ではマットに元高級娼婦の恋人がいて、彼女と古い映画やジャズについて交わす会話やジョークがもうひとつの読みどころになっている。それがあるせいでスカダー・シリーズに都会小説っぽい味が出てくるのだけど、映画ではマットの恋人の存在はカットされている。だから原作の暗い側面ばかりが強調されている。スコット・フランク監督は、脚本に着手する前に原作者のブロックと何年も話し合いを重ねたらしいから、それはそれで熟慮の末の選択だったろう。

最後、マットのアパートの窓からカメラが上空へ引いていくと、ブルックリン風景の代名詞とも言うべき水道タンクが見え、その彼方にマンハッタンのワールド・トレードセンターのツインタワーがそびえている。ニューヨーカーだったら泣けるだろう、憎いショット。

堪能しました。もしかしてシリーズ化されると嬉しいなあ。

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June 19, 2015

『新宿スワン』  愛か友情か

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Shinjuku Swan(viewing film)

邦画を見ていて、時々思うことがある。日本の映画界にいちばん欠けているのは脚本家じゃないかなあ。もちろん優れた脚本家はいる。監督が自ら脚本を手掛け、見事な脚本を書く人もいる。でも、この10年で制作本数が倍増し、年間600本以上公開される日本映画を支えるスタッフのなかで、層としていちばん薄いのは脚本家じゃないか。見終わってそんな感想を持つ映画が多い。

脚本家の層が薄いいちばんの原因は、端的に言って脚本家に入るお金が少ないことだろう。平均的な映画脚本の相場は1分1万円だそうだ(wikipedia)。仮に2時間の映画の脚本を書いて入ってくるお金は120万円。人並みの生活をしようと思ったら年に4、5本は書かないと食っていけない。となれば、1本にかけられる時間は限られる。以前、アメリカの脚本家は1時間のテレビ・ドラマなら年に2本書けば食っていけると聞いたことがある。

日本映画のスタッフが低賃金長時間労働しているのは昔からだけど(僕も昔、東映大泉撮影所で大道具のバイトやってました)、脚本は映画づくりの核心にある。いい脚本からつまらない映画ができることはあっても、つまらない脚本からいい映画ができることはない。それなのに脚本家に入るお金があまりに少ない。今の時代、お金の匂いのしないところに才能は集まってこない。

『新宿スワン』を見てそんなことを考えたのも、園子温監督の演出は見せ場があるにもかかわらず、脚本の構造的な弱点はどうしようもなく、それを演出で救おうと思っても限界があると感じたからだ。

歌舞伎町の裏町でスカウトの龍彦(綾野剛)は店とトラブっているホステスのアゲハ(沢尻エリカ)を助けて恋人同士になる。でもアゲハは覚せい剤中毒で、同じく覚せい剤中毒の風俗店の店長をナイフで刺してしまう。歌舞伎町でその覚せい剤を仕切っているのは、龍彦と同じ会社のスカウトである秀吉(山田高之)。秀吉は龍彦の中学の同級生だが、龍彦はそのことに気づいていない。会社幹部である秀吉と、龍彦の兄貴分・真虎(伊勢谷友介)は事あるごとに張り合っている。

アゲハは覚せい剤で身を滅ぼした。恋人の龍彦は、歌舞伎町で覚せい剤を売っている秀吉が許せない。秀吉が元同級生であることを知り、ラスト近く、歌舞伎町を見下ろすビルの屋上で殴り合いの喧嘩をする。でも殴り合いをしたあげく、拳と拳を交わした友情とでもいうのか、龍彦は秀吉に「お前は俺のダチだ」と言ってしまう。見ている者は、龍彦の感情をどう受け止めていいのかわからない。じゃあ、秀吉の覚せい剤で人生を棒に振ったアゲハに対する愛はどうなるの? 龍彦は誰を愛し、誰と対立するのか。その基本的な軸がぶれているから、見る者はとまどってしまう。

物語は歌舞伎町の風俗で働く女性をスカウトする会社と会社の縄張り争い。会社内部の派閥抗争。『仁義なき戦い』以来、最近では北野武の『アウトレージ』でもおなじみの構図だ。原作はコミック。全38巻の長編だから、そこから映画のために何を掬い、人物をどう配してどんな物語をつくるか。脚本家の腕のみせどころだろう。主人公の龍彦が誰を愛し、誰と友になり、誰と対立するのか。そこがきっちりしていないと、観客は誰にどう感情移入していいのか、とまどってしまう。

園子温監督自身は脚本に加わっていない。演出力を買われてメジャー作品に起用されたんだろう。だからいつもの過剰さは感じられず、でもテンポよく熱のこもったアクションシーンと、夜の歌舞伎町をビルの屋上から見下ろすショットは園子温のものだった。

 


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June 11, 2015

梅ジャムをつくる

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make jam of Japanese apricot

今年は梅の実がたくさん取れた。梅ジャムをつくるのが、ここ数年の楽しみになっている。梅を茹でて柔らかくする。

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収穫が早すぎたせいか、4分の1ほどは柔らかくならない。柔らかくなった梅を指で割って種を取るのだが、仕方ないから固いものは包丁で実をそぐ。それを包丁で叩く。

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砂糖をいれてゆっくり煮る。レシピには1キロの梅に7~800グラムの砂糖とあるけれど、それでは甘すぎるので半分くらいにおさえる。

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できあがったのは、けっこう酸っぱい梅ジャム。これで秋まで楽しめる。

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June 10, 2015

『サンドラの週末』 マリオンの微笑み

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Deux Jours, Une Nuit(viewing film)

ドキュメンタリー映画出身のダルデンヌ兄弟がつくる映画は、実際にどう撮影されているのかはわからないけど、人の動きや出来事を1台のカメラで追いかけているように見える。だから視点が切り替わる切り返しのような手法は使われない。さらには、映している対象を強調するクローズアップもない。ストーリーとは無関係に風景や物を映す(それによって何らかの感情を喚起したりする)こともない。画面の背後で音楽が流れることもない。

劇映画を劇映画たらしめているそういう技をほとんど使わず、人物を近くも遠くもない距離、バストショットからせいぜいフルショットで捉えて彼らの動きを素っ気なく追ってゆく。『サンドラの週末(原題:Deux Jours, Une Nuit)』もそのように撮られている。だからだろうか、映画が映画である最少限の部品だけに切り詰められているという感触の作品だ。

ソーラーパネル工場で働くサンドラ(マリオン・コティヤール)が解雇を言い渡される。社長は言う。社員1人当たり1000ユーロ(約14万円)のボーナスを支給するにはそうせざるをえない、ボーナスなしかサンドラ解雇のどちらを選ぶかの投票で、16人の社員はサンドラの解雇を選んだ。投票には管理職の干渉があったという同僚の口添えで、週明けにもう一度投票してもいいと社長は譲歩する。鬱病から職場復帰したばかりのサンドラは、レストランで働く夫のマニュ(ファブリツィオ・ロンジォーネ)に励まされ、自分が職場に残れるよう投票してほしいと同僚たちの自宅を訪ねてまわることになる……。

舞台はベルギーの工業都市、リエージュ。美しい風景も歴史ある街並みもない。20世紀の懐かしさを感じさせる工場風景もない。リエージュは古都だけど、そういうものをあえて映さないんだろう。郊外ののっぺりした風景に、登場するのは中・下層の労働者たち。

社員の誰もが生活は苦しく、ボーナスがほしい。娘の大学資金の当てにしたり、滞納している光熱費に当てるつもりだったり。サンドラも同僚の苦しさはわかっている。親しい同僚は居留守を使って会おうとしない。でもひとりひとり会って話をしていると、ある社員はボーナスを選んだことを悔いているとサンドラに告げる。ある社員は、夫の反対にもかかわらず彼女に投票すると言う。臨時雇いの社員も、怖いけど彼女に投票すると約束する。

サンドラが社員と顔を合わせることで、何かが変わりはじめる。組織のなかの決めごとでなく、互いにひとりの人間として相対して自分の思いを伝えることで生まれてくる何ものかが、人を動かす。ダルデンヌ兄弟はその瞬間を見つめているようだ。

マリオン・コティヤールがすっぴんで、いつものコケティッシュな魅力は陰を潜めている。最初のうち、眉をしかめていることが多い彼女だけれど、それだけに最後の微笑みが美しい。


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June 02, 2015

『ブラックハット』の米中カップル

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Blackhat(viewing film)

『ブラックハット(原題:Blackhat)』はマイケル・マン監督の久しぶりの新作。楽しみに見にいったけれど、期待に反してアクションは平凡、なにより登場人物の造形が浅いのが不満だった。アクション映画は人間をじっくり描くことを狙いにしていないけど、例えば『コラテラル』でマン監督自身が白昼の都会を横切るコヨーテのワンショットで主人公の孤独を浮き彫りにしたように、一言のセリフ、彫りの深いワンカットでその人物が抱える思いや陰影は描けるものなのに。

この映画で面白いのは、主人公の捜査官が米中コンビになっているという設定だろうか。

正体不明のハッカー(ブラックハット)がサイバーテロを仕掛けて香港の原発をメルトダウンさせ、アメリカの穀物先物市場を混乱に陥れる。中国のサイバー捜査官ダーワイ(ワン・ホーソン)、リエン(タン・ウェイ)の兄妹とFBIのキャロル(ヴィオラ・デイヴィス)が合同捜査チームを組む。ダーワイは、アメリカ留学時の大学のルームメイトでハッキングの罪で獄中にいるニコラス(クリム・ヘイワース)の協力が必要だとキャロルを説得して彼を獄から解放する。ニコラスは天才プログラマーで、ブラックハットが使った遠隔操作ウイルスはニコラスがつくったものを応用していた……。

4人の捜査チームが香港、マレーシア、ジャカルタとアジアを舞台にブラックハットを追う。サイバーテロについては、回路基板を光が走る映像で処理されてて、それなりに正確に再現されてるようだけど、映像として特に驚くようなものではない。後はごく平凡なドンパチになる。

獄から出たニコラスと中国の国家公務員である捜査官のリエンがあっという間に恋人同士になってしまうのがおかしい。その瞬間から、リエンはニコラスに従うただの恋する女性になってしまう。『ラスト・コーション』で大胆なシーンを演じたタン・ウェイは、どう見てもITに精通した捜査官に見えないし、それを言えばクリム・ヘイワースも天才プログラマーに見えない。合同捜査チームが活動している現場の一部屋でニコラスとリエンがベッドに入っていても、誰も何も言わない。ただヒーローとヒロインをくっつけるだけのご都合主義。
 
 この映画が中国で公開されたら、戦後日本を舞台にしたハリウッド製アクション映画『竹の家』のステレオタイプな日本女性(シャーリー山口)の描き方が「国辱」と言われたように、中国人のナショナリズムを刺激して国辱(!)とでも非難されるのだろうか。

 つまんない映画のことは書かずにスルーしてしまうことが多いんだけど、このところ忙しくてほかの映画を見られない。せめての見どころといえば、香港やジャカルタの夜景にマイケル・マンらしいスタイリッシュな映像が見られるあたりか。最後のオチは、こうなるならこのお二人さん、もっとじっくり描きこんでほしかったなあ。

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