May 24, 2015
May 23, 2015
『私の少女』 かすかなエロスの匂い
A Girl at My Door(viewing film)
ペ・ドゥナを初めて見たのは『子猫をお願い』だった。高校を卒業した5人の元同級生の青春もの。冒頭では地味で目立たない女の子に見えたドゥナが、ラストシーンではきらきら輝くように感じられ、その魅力にすっかりいかれてしまった。以来十数年、『復讐者に憐れみを』『グエムル』『リンダ リンダ リンダ』『空気人形』『クラウド アトラス』と追っかけてきた。『私の少女(原題:도희야 ドヒよ)』は、すっかり国際的女優になった彼女の久しぶりに公開される韓国映画。35歳になったドゥナは相変わらずキュートで素敵だ。女優としての成熟も感ずる。
相手役は15歳のキム・セロン。映画の中ほど、DVの被害に遭って警察官ヨンナム(ペ・ドゥナ)のアパートに引きとられたドヒ(キム・セロン)が、ヨンナムの留守中に彼女の制服を身につけているショットがある。また別のシーンでは、長い髪のドヒが床屋で髪を短く切ると、ショート・ヘアのヨンナムそっくりになる。ドヒは明らかにヨンナムと一体になりたいと願っている。
小さな村で起こる出来事に現在の韓国社会が抱える問題が凝縮されているけれど、チョン・ジュリ監督が力を込めて描いているのは年齢差のある女性二人の微妙な感情の揺れだろう。
レズビアンであることが発覚して海辺の村の警察所長に左遷されたエリート警官ヨンナムは、村人にいじめられている少女ドヒに出会う。ドヒは酒癖の悪い継父ヨンハ(ソン・セビョク)と祖母にもいじめられており、ヨンナムはドヒを自分のアパートにかくまう。漁業を営むヨンハは不法就労で働くインド人に暴行して逮捕される。ヨンハは腹いせにヨンナムをドヒへの性的虐待で訴え、ヨンナムも逮捕されてしまう。それを知ったドヒは、釈放された継父を罠にかけ……。
新参者としてやってきたヨンナムは村のなかで孤立し、アルコールにおぼれている。はじめのうちヨンナムは警察官の義務としてDVの被害者ドヒをかくまっているけれど、同じ部屋で暮らすうちにその空気が微妙に変わってくる。ヨンナムが風呂に入っていると、ドヒも裸になりバスタブに入ってくる。ドヒはヨンナムに抱きつき、ヨンナムもためらいがちにドヒの肩に手を回す。ドヒがヨンナムの制服を着たり、ヨンナムそっくりの髪型にするのは少女の無意識の求愛行動だろう。かすかなエロスの匂いが漂う。
ドヒは無垢の被害者ではなかったことが明らかにされる。転属が決まって村を出る途中のヨンナムに若い警官が言う。「自分にはあの少女は小さな怪物に見える」。その言葉を聞いたヨンナムは、引っ返してドヒの家へ向かう。その言葉で、ヨンナムはある一線を越える決心をしたようにも見える。映画の最後、ヨンナムが運転する車の助手席で眠るドヒ。二人は保護する者とされる者なのか、あるいは未来の恋人同士なのか。
映画は南部の麗水で撮影されている。暗い空から落ちる雨や海岸に降り注ぐ光、水田のみずみずしい緑。古い木造家屋や、ヨンナムとソウルからやってきた元恋人の女が寂しく酒を飲む居酒屋の佇まい。女たちの物語を支える、そんな風景が素晴らしい。
脚本・演出のチョン・ジュリは34歳の女性監督で、これが処女作。韓国映画は次々に才能が現れる。製作はイ・チャンドン。
May 19, 2015
May 18, 2015
May 14, 2015
『リベンジ・オブ・ザ・グリーン・ドラゴン』 中国系マフィアの青春
Revenge of the Green Dragons(viewing film)
『リベンジ・オブ・ザ・グリーン・ドラゴン(原題:Revenge of the Green Dragons)』のプロデューサーはマーティン・スコセッシ。スコセッシといえば、ニューヨークでイタリア人少年たちがマフィアになってゆく『グッドフェローズ』や、同様にアイルランド・マフィアを描いた『ギャング・オブ・ニューヨーク』といった叙事詩的なギャングものをつくっている。スコセッシだけでなく、ドン・コルレオーネの父が9歳でアメリカに上陸するところから始まる『ゴッドファーザー PartⅡ』やユダヤ少年がマフィアになる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』など、ニューヨークのギャング成長物語には名作が多い。
でも、いまやニューヨークで最大のエスニック集団となった中国系マフィアを素材にしたものといえば、1980年代の『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』くらいしか思い浮かばない。その意味でこの映画は、生まれるべくして生まれた作品。雑誌『ニューヨーカー』に掲載された中国系密入国ギャングのノンフィクションを原作に、中国系アメリカ人のアンドリュー・ロウが脚本・監督を務める。共同監督に香港から『インファナル・アフェア』のアンドリュー・ラウ監督を呼んだのは、スコセッシが『インファナル・アフェア』のハリウッド版『ディパーテッド』をつくった縁からだろうか。
映画の舞台はマンハッタンではなく、クイーンズ区フラッシングのチャイナタウン。マンハッタンのチャイナタウンは今では隣接するリトル・イタリーも飲み込んで膨れ上がっているが、1970年代から合法非合法に入国する中国人が激増し、彼らはマンハッタンだけでなくブルックリンやクイーンズのフラッシングにもチャイナタウンを形成した。フラッシングにはまず台湾系中国人が住み、次いで広東系中国人が住み、その後は中国各地からやってきて、今では色んな系統の中国人が入り乱れ、北京語が話される街になっているようだ。
1980年代、密入国した孤児のサニー(ジャスティン・チョン)は、マフィアの女ボスの命令で中華レストランで働く女性に預けられ、女性の息子スティーブン(ケヴィン・ウー)の弟のように育てられる。やがて二人は密入国マフィアの女ボスの息子・ポール(ハリー・シャムjr)をリーダーとする青龍(グリーン・ドラゴン)のメンバーとなって、対立する中国系マフィアと抗争を繰り広げる。
青龍には掟がある。相手を襲うときは頭を狙うこと。目撃者を残さないこと。白人を殺さないこと。なぜなら、中国人同士が殺しあっている限り警察は本気にならないが、白人が殺されると徹底的に捜査することになるから。スティーブンが誤って白人を殺したことから、青龍は警察と密入国組織を追うFBI捜査官ブルーム(レイ・リオッタ)の手入れを受けることになる。ボスのポールは跳ね上がりのスティーブンを始末し、裁判で証言台に立ったサニーの恋人・ティナ(シューヤ・チャン)の命も狙う……。
自分の叔父を襲って金を強奪し、仲間が家族を強姦するのを見たスティーブンが、咎めるような目つきのサニーに「痛みを感じていないと思うのか」とつぶやくシーンがある。スティーブンは「この国で中国人はクソでしかない」とも言う。
アジア系なかでも中国系の人間に対してアメリカ人の視線が冷たいのは、僕も1年間暮らして感じたことがある。ニューヨークをはじめ都市部では中国系の人間や居住地域が目に見えて増えていると感じられるし、日常使うモノにもメード・イン・チャイナがあふれている。そういうことに対する何となしの反感がたいていのアメリカ人にはあって、なにかというと中国人の悪口が口をついて出てくる。「チャイナタウンは臭い」というアメリカ人もいて、確かに地下鉄から地上に出ると独特の匂いはあるけれど、チャイナタウンが好きで週に何度も通った僕はそういう発言を悲しく聞いた。
孤児のサニーはチャイナタウンで育ち、マフィアの仲間になり、やがてボスの命で兄貴分と恋人を殺されて復讐に立つ。「僕はこういうふうにしか生きられなかったんだ」というサニーの叫びと悲しみが、映画を通底している。アメリカ映画ながら、アンドリュー・ラウ監督の手で香港ノワールのたっぷりした情感が加えられて、それが同じ東洋人である僕にはぐっとくる。
『インファナル・アフェア』シリーズもそうだったけど、短いカットをつなぐ激しいアクションと、じっくり情感を醸し出すシーンが交互にやってくる。地下鉄7ラインの高架が道路上を走るフラッシングのチャイナタウンでの抗争。一方、サニーが恋人のティナと会うのはイーストリバー沿いの空き地で、川にかかるクイーンズボロ橋やマンハッタンのエンパイア・ステート・ビルが遠く見えている。サニーはもしかしたらマンハッタンに一度も足を踏み入れたことがなかったのではないか。そんな中国系マフィアの青春が痛い。
この映画、アメリカでの評価は低く、興行的にも惨敗したらしい(wikipedeiaによると500万ドルの予算に対し興収6万ドル)。中国マフィアの話は、作品の出来とは関係なく今も観客の関心を引かないのだろうか。
May 12, 2015
『書物の夢、印刷の旅』を読む
May 11, 2015
May 10, 2015
『龍三と七人の子分たち』 いい感じにゆるい
Ryūzō and The Seven Henchmen(viewing film)
これは役者を楽しむ映画だね。元暴力団組長の龍三に藤竜也、七人の子分たちに近藤正臣、中尾彬、品川徹、樋浦勉、伊藤幸純、吉澤健、小野寺昭の面々。平均年齢72歳のジジイたちが心地よさそうに演じてる。
特に若い頃、映画や舞台で見た脇役たちが懐かしい。カミソリの使い手で今は老人ホームでおむつを履いてる吉澤健。日活ロマン・ポルノや若松孝二の映画によく出てた。学生活動家の役がはまっていた記憶がある。病院のベッドの上にスティーブ・マックイーン『ブリット』のポスターを貼る早撃ちマック。今は手が震えてあぶなっかしいガンマンを演ずる品川徹は転形劇場で見たことがある。吉澤健は状況劇場にいたから舞台も見てるはずだけど記憶にない。
組長になれなかったコンプレックスを抱えて親分に尽す若頭の近藤正臣もかつての二枚目から転身、ジジイのヤクザ・ファッションが似合ってる。中尾彬は一見紳士ふうだが情けない寸借詐欺。でも藤竜也だけはブリーフ一丁に女ものの下着をつけ、シャワーキャップをかぶっても、なお恰好いい。その恰好よさがまた可笑しみになる。
息子の家に同居して邪魔者扱いされている元組長の龍三がオレオレ詐欺に遭いそうになり、元の子分たちを集めて、詐欺を会社組織でビジネスにしている元暴走族に一矢酬いるお話。北野武監督というよりビートたけし演出のゆる~いコメディだ。鈴木慶一の音楽も、いい感じ。
お楽しみはいろいろある。
親分子分たちが若い頃に切った張ったの回想シーンは傷だらけのモノクロ画面になる。昔のやくざ映画の味わい。指が2本ない藤竜也が競馬場で両手を広げ遠くから5-5を買えと指示したのに中尾彬が5-3を買ってしまうギャク。藤竜也と近藤正臣が、蕎麦屋で客が何を注文するか千円札で賭けを始めるかけあいの呼吸。
藤竜也たちが路線バスを乗っ取り狭い商店街を突っ走って屋台や品物を次々なぎ倒す爽快さ(追われるメルセデスが追う路線バスを振り切れないわけがないけど、ヤボは言いっこなしで)。死体になって経帷子に三角頭巾の中尾彬を先頭に霊柩車で殴り込み、死体を弾除けに使うわ味方にもぼこぼこにされるわのビートたけしならではのギャグ。
『アウトレイジ』『アウトレイジ・ビヨンド』と面白いアクション映画でかつての切れ味を取り戻した北野武監督が、暴力団同士の抗争という似た素材をジジイという一点をテコにゆるいコメディに仕立て上げた。ジジイの一人として拍手を。
May 02, 2015
『バードマン』 映画と舞台 微妙な関係
落ちぶれたかつてのスターが過去の栄光を求めて何事かに挑む物語は、『サンセット大通り』以来、映画に限らずスポーツなども含め繰り返しつくられる定型のようになっている。近年ではミッキー・ロークがドサ回りの老プロレスラーを演じた『レスラー』が出色の出来だった。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 原題:Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)』もそのジャンルに属する。グロリア・スワンソンやミッキー・ロークというかつてのスターが老いさらばえた肉体を晒して熱演し、それによって劇中と現実の自身の復活を二重に賭ける構造は、この映画にも共通している。今回は1990年代に『バットマン』シリーズに主演したマイケル・キートンが人気を失った映画スター、リーガンを演ずる。
リーガンが復活を賭けて挑戦するのはブロードウェーの舞台。しかも純文学ぽいレイモンド・カーヴァーを舞台化した現代劇で、それを自身で脚色・演出・主演しようとしている。いわば人気商売の映画スターからアーチストに生まれ変わろうとしている。そこからくる映画界と演劇界との微妙な関係、嫉妬と羨望と反目と皮肉に満ちた業界人たちのうごめきが面白く、内幕ものめいた映画にもなっている。
演劇界でリーガンのいわば敵役になるのが舞台の準主役マイク(エドワード・ノートン)と、ニューヨーク・タイムスの辛口の批評家タビサ(リンゼイ・ダンカン)。マイクはメソッド演技を習得した典型的な舞台俳優。ことあるごとに元スターのリーガンに絡む。リーガンもまた鼻っ柱の高いマイクにつっかかる。メソッド演技は高名なアクターズ・スタジオで教える演技法で、役者の実体験や役柄の内面を追体験して自然でリアルな演技を良しとする。映画界ではポール・ニューマン、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロといった名優たちがここの出身として有名だ。
映画は、そこここでアクション映画へのオマージュと演劇界への皮肉に満ちている。マイクが舞台のベッドの中で勃起し、ブロドウェー初体験の女優レズリー(ナオミ・ワッツ)に客の前で本番をやろうともちかけるあたりは「リアル」を求めるメソッド演技への皮肉だろうか。あんたの舞台を公演打ち止めに追い込んでやると宣言した批評家のタビサが、リーガンが舞台で本物の銃を発射すると掌を返したように「スーパー・リアリズムだ」と絶賛するのも然り。
リーガンには事あるごとにバードマンの過去の栄光の記憶が蘇り、やがてバードマンが実際に画面に現れてリーガンの背後に寄り添い、リーガンを鼓舞するようになる。
映画の最初のショット、楽屋で座禅を組んだリーガンが宙に浮いている。リーガンの脳内風景なのか、リーガンには現実がこんなふうに見えているのか。その世界ではリーガンはバードマンで、バードマンのリーガンが腕を一閃すれば車は爆発するし、ヘリは破壊され墜落する。空も飛ぶ。巨大な怪鳥がブロードウェーの劇場の屋上で翼を広げている。アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の映画への、あるいはアクション映画への愛──イニャリトゥ自身はそういう映画をつくらないけど──を感じさせて素敵だ。
イニャリトゥ監督の冒険は、映画全体をまるで一台のカメラで撮ったようにつくったこと。冒頭、出番で楽屋から舞台へ歩くリーガンを手持ちカメラが追う長いショットで(『レスラー』の冒頭も同じだった)、次のショットへの切り替えが人の背中などで一見わからないようにつながれている。
映画の大部分は劇場の中で撮影されている。実際にブロードウェーのセント・ジェームズ劇場を公演の合間に1カ月間借りて撮影したそうだ。古い劇場は舞台も舞台裏も意外に狭いから大変だったろうな。撮影は監督と同じメキシコ出身で、『ゼロ・グラビティ』のエマニュエル・ルベツキ。
もうひとつの冒険は、音楽が全編ドラム・ソロでつくられていること。画面にも登場して路上で楽屋でドラムを演奏するアントニオ・サンチェスの攻撃的な音がリズムをつくる。そのために、例えば『レスラー』ではミッキー・ロークの哀しみが際立ったけど、リーガンはどんなに追い詰められても挑戦的に見える。白ブリーフ一丁でタイムズ・スクエアを歩くリーガンは滑稽ではあっても哀れさはない。
ラストシーン。舞台で自らを撃って怪我し入院したリーガンの姿が見えなくなる。娘のサム(エマ・ストーン)が病室の窓から身を乗り出してまず下を見、それから上を見て微笑む。ハッピーエンドの映画とは言えないけれど、観客もサムとともに空を飛ぶバードマンを幻視している。
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