『妻への家路』 泣ける映画
『神々のたそがれ』というとんでもない映画を見て、次には安心して見られるものにしようと思った。それで選んだのが『妻への家路(原題:帰来)』だ。久しぶりのチャン・イーモウ監督、コン・リー主演。
この2人が組んだ映画はどちらにとってもデビュー作の『紅いコーリャン』に始まり、『菊豆』『紅夢』『秋菊の物語』『活きる』『上海ルージュ』と主なものは見ている。恋人同士といわれた2人が別れた後、コン・リーの映画はだいたい追っかけてるけど、チャン・イーモウ監督のは『初恋のきた道』を最後にとんとご無沙汰だ。北京オリンピックの開会式を演出したときも、ふーん、そういう国家的プロジェクトを手がける人物になったんだ、程度の感想しかもたなかった。だから懐かしさと、ちょっとした不安と。
文化大革命のさなか。ワンイー(コン・リー)の元に、1950年代の反右派闘争で右派分子として逮捕された夫のイエンシー(チェン・ダオミン)が脱走したと知らせが来る。革命バレエの主役を得たい娘のタンタン(チャン・ホエウェン)は、母のワンイーに連絡してきた父を密告し、イエンシーは逮捕される。文革が終わり、イエンシーは名誉回復して帰ってくるが、ワンイーはイエンシーを夫として認識できなくなっていた……。
さすがにチャン・イーモウはツボを心得ている。前半はイエンシーの逃亡・逮捕劇を軸に、文革時代の夫婦愛と親娘の葛藤をテンポよく描きこんでおいて、後半は精神を病んで夫のイエンシーがわからなくなり、いつまでも駅頭で夫を待ちつづけるワンイーと、その妻を傍らでいたわるイエンシーをじっくり描きこむ。最初、ぎこちなかった父とタンタン、密告した娘を許せなかった母とタンタンもやがて和解する。
ラストは、年老いたワンイーが車椅子で駅前に出向いて相変わらず夫を待ちつづけ、その側に夫のイエンシーが佇むショット。こういう画面で終わるだろうなと予想したとおり。それでも泣ける。精神を病みながらも夫への思いに生きるコン・リーと、辛い体験を噛みしめてなお穏やかなチェン・ダオミン、中国を代表する2人の役者がすばらしい。50歳になったコン・リーが時折見せる微笑に、若い頃の彼女が重なって、うーん、美しい。
ところで僕は泣ける映画というのに警戒心を持っている。「泣けます」というキャッチコピーの映画は(小説も)まず見ない(読まない)。ここをこう押せば観客の涙腺が刺激されるという手口を知り尽くした練達の脚本家や監督が、その技を繰り出し、そこにまんまとはめられて涙が出てくるのが、作り手の掌の上で踊らされているような気分で癪にさわる。決めぜりふがあったり、音楽が高鳴ったりすれば、いよいよ嫌になる。天邪鬼なんですね。そういう気分になったのは、かつて『砂の器』とか『鬼畜』とか松竹の松本清張もので、泣かされる自分がイヤになって以来。
チャン・イーモウはさすがにそんなことはしない。辛さも悲しみも描写は抑制されている。泣かされた感はない。ただ実にうまくできてて、泣けるけど、『神々のたそがれ』に比べると記憶に残らない映画だろうな、と思った。すべてが予定調和のなかにあるように感ずるからだ。
例えば物語。文革という50代以上の中国人なら誰もがトラウマになっているような時代を取り上げ、誰もが覚えがあるだろう家族の悲しいストーリー。しかも検閲に引っかかるような危うさは周到に避けられている。チャン・イーモウはインタビューで、原作の小説を映画化するについて、「(囚人になるまでの経緯は)まだデリケートな問題なので、映画にはできない」と語っている(映画の公式HP)。
僕が中国映画を見てきた経験から言えば、「デリケートな問題」とは一言で言って「文革批判はいいが毛沢東批判は許されない」ということ。主人公のイエンシーは反右派闘争で右派とされ逮捕された設定になっている。1950年代に毛沢東が主導した百花斉放から反右派闘争、大躍進政策は、餓死者数千万という惨憺たる失敗に終わり、毛は実権をはく奪された。イエンシーの過去をきちんと描くと、その微妙なところに触れるんだろう。だから映画では具体的に描かず、知識人のイエンシーが右派として逮捕されたとしかわからない。
そこを回避して、『妻への家路』がよくできた泣ける映画になったのは、チャン・イーモウの勝利なのか敗北なのか。例えばジャ・ジャンクーやワン・ビンの映画は、上映禁止措置を受けながらもそういう「デリケートな問題」をきちんと描いている。


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