April 30, 2015
April 29, 2015
『海にかかる霧』 古風だけど重厚
映画も大詰め近くなり死体累々の漁船チョンジン号のなかで、密航者でただ一人生き残った女性ホンメ(ハン・イェリ)に向かって、カン船長(キム・ユンソク)が「お前は魔女か」と叫ぶシーンがある。
悲劇というのは植物の成長に似てる。シェークスピアもそうだけど、劇の冒頭で一粒の不安の種が播かれる。その種が芽を出し、枝葉をしげらせ、成長して登場人物に絡みつき、もがけばもがくほど枝葉に絡めとられてゆく。身動きできなくなった彼らは、運命のように破滅に向かって加速してゆく。
老朽船のチョンジン号を廃船にすると通告されたカン船長は、中国からの密航者を運ぶ闇の仕事を引き受ける。深夜、荒天の東シナ海で朝鮮族密航者を乗せた船と落ち合うが、乗り移る際にホンメが海に落ち、新人乗組員のドンシク(パク・ユチュン)が飛び込んで彼女を助ける。そこからすべてが狂い始める。
ホンメに好意を持ったドンシクは、彼女を暖かい機関室に入れて食べ物を与える。密漁取締船がやってきて、船長は数十人の密航者を魚を貯蔵する船倉に隠すが、冷凍装置が故障して全員フロン中毒で死んでしまう。船長は、死体を傷つけ血を出して海に捨て魚に食わせろと5人の乗組員に命ずる。このあたりの描写はパク・チャヌクかキム・ギドクのテイスト。
甲板長のホヨンは船長の命令に忠実に従う。心優しい機関長は死体を処理しながら精神を狂わせてゆく。ドンシクは生き残ったホンメを隠し、2人で生き延びようと約束する。船員のチャンウクとギョングは若いホンメに欲望を抱き彼女を探し回る。カン船長が船を守るために取った行動が次々に破綻をきたし、視界ゼロの海霧のなかで、チョンジン号は傾き浸水してゆく……。
海水が流れこみ傾いた甲板で、カン船長は波にさらわれ碇のロープに絡みつかれる。甲板で身動きできず海に引きずり込まれてゆくカン船長の斜面のショットは、映画が結末に向かって傾斜を転げ落ちてゆくさまを象徴しているようだ。古風なドラマではあるけれど、息つく暇もない。お見事。
『海にかかる霧(原題:해무海霧)』は、『殺人の追憶』の監督ポン・ジュノが製作し、脚本を書いている。その『殺人の追憶』の脚本家シム・ソンボがポンと共同で脚本を書き、監督をしている。とても処女作とは思えない重厚で正統派の映画になっていた。2001年に、朝鮮族を含む中国人密航者数十人が船倉で窒息死した第7テチャン号事件が素材になっている。
キム・ユンソクは『チェイサー』の元刑事もよかったけど、ここでも誠実なあまりに狂ってゆく船長を演じて素晴らしい。パク・ユチュンは、知らなかったけど東方神起やJYJのメンバーなんですね。道理で映画館に韓流ファンの若い女性が多かった。もうひとつ、物語のほとんどがそこで展開される漁船チョンジン号の油や魚の匂いさえ漂ってきそうな古ぼけた船体。まぎれもなく本当の主役だった。
この数年、『新しき世界』とか『悲しき獣』とか中国朝鮮族が登場する韓国のアクション映画が増えた。映画でも文学でも、異文化との遭遇は新しいものを生み出す。この映画でも密航者は朝鮮族。それがドラマの核になっている。
いま韓国では中国からの朝鮮族の出稼ぎ者が増え、朝鮮族が集まって住み漢字の看板が立ち並ぶ街もある。映画の最後、事件から6年後に建設労働者になったドンシクが「延吉飯店」という店に食事に入るのも、そんな店のひとつだろう。そこでドンシクは、子連れで幸せそうな女性の声と後ろ姿にホンメの面影を見る。余韻のある終わり方がまたよかった。
April 22, 2015
『妻への家路』 泣ける映画
『神々のたそがれ』というとんでもない映画を見て、次には安心して見られるものにしようと思った。それで選んだのが『妻への家路(原題:帰来)』だ。久しぶりのチャン・イーモウ監督、コン・リー主演。
この2人が組んだ映画はどちらにとってもデビュー作の『紅いコーリャン』に始まり、『菊豆』『紅夢』『秋菊の物語』『活きる』『上海ルージュ』と主なものは見ている。恋人同士といわれた2人が別れた後、コン・リーの映画はだいたい追っかけてるけど、チャン・イーモウ監督のは『初恋のきた道』を最後にとんとご無沙汰だ。北京オリンピックの開会式を演出したときも、ふーん、そういう国家的プロジェクトを手がける人物になったんだ、程度の感想しかもたなかった。だから懐かしさと、ちょっとした不安と。
文化大革命のさなか。ワンイー(コン・リー)の元に、1950年代の反右派闘争で右派分子として逮捕された夫のイエンシー(チェン・ダオミン)が脱走したと知らせが来る。革命バレエの主役を得たい娘のタンタン(チャン・ホエウェン)は、母のワンイーに連絡してきた父を密告し、イエンシーは逮捕される。文革が終わり、イエンシーは名誉回復して帰ってくるが、ワンイーはイエンシーを夫として認識できなくなっていた……。
さすがにチャン・イーモウはツボを心得ている。前半はイエンシーの逃亡・逮捕劇を軸に、文革時代の夫婦愛と親娘の葛藤をテンポよく描きこんでおいて、後半は精神を病んで夫のイエンシーがわからなくなり、いつまでも駅頭で夫を待ちつづけるワンイーと、その妻を傍らでいたわるイエンシーをじっくり描きこむ。最初、ぎこちなかった父とタンタン、密告した娘を許せなかった母とタンタンもやがて和解する。
ラストは、年老いたワンイーが車椅子で駅前に出向いて相変わらず夫を待ちつづけ、その側に夫のイエンシーが佇むショット。こういう画面で終わるだろうなと予想したとおり。それでも泣ける。精神を病みながらも夫への思いに生きるコン・リーと、辛い体験を噛みしめてなお穏やかなチェン・ダオミン、中国を代表する2人の役者がすばらしい。50歳になったコン・リーが時折見せる微笑に、若い頃の彼女が重なって、うーん、美しい。
ところで僕は泣ける映画というのに警戒心を持っている。「泣けます」というキャッチコピーの映画は(小説も)まず見ない(読まない)。ここをこう押せば観客の涙腺が刺激されるという手口を知り尽くした練達の脚本家や監督が、その技を繰り出し、そこにまんまとはめられて涙が出てくるのが、作り手の掌の上で踊らされているような気分で癪にさわる。決めぜりふがあったり、音楽が高鳴ったりすれば、いよいよ嫌になる。天邪鬼なんですね。そういう気分になったのは、かつて『砂の器』とか『鬼畜』とか松竹の松本清張もので、泣かされる自分がイヤになって以来。
チャン・イーモウはさすがにそんなことはしない。辛さも悲しみも描写は抑制されている。泣かされた感はない。ただ実にうまくできてて、泣けるけど、『神々のたそがれ』に比べると記憶に残らない映画だろうな、と思った。すべてが予定調和のなかにあるように感ずるからだ。
例えば物語。文革という50代以上の中国人なら誰もがトラウマになっているような時代を取り上げ、誰もが覚えがあるだろう家族の悲しいストーリー。しかも検閲に引っかかるような危うさは周到に避けられている。チャン・イーモウはインタビューで、原作の小説を映画化するについて、「(囚人になるまでの経緯は)まだデリケートな問題なので、映画にはできない」と語っている(映画の公式HP)。
僕が中国映画を見てきた経験から言えば、「デリケートな問題」とは一言で言って「文革批判はいいが毛沢東批判は許されない」ということ。主人公のイエンシーは反右派闘争で右派とされ逮捕された設定になっている。1950年代に毛沢東が主導した百花斉放から反右派闘争、大躍進政策は、餓死者数千万という惨憺たる失敗に終わり、毛は実権をはく奪された。イエンシーの過去をきちんと描くと、その微妙なところに触れるんだろう。だから映画では具体的に描かず、知識人のイエンシーが右派として逮捕されたとしかわからない。
そこを回避して、『妻への家路』がよくできた泣ける映画になったのは、チャン・イーモウの勝利なのか敗北なのか。例えばジャ・ジャンクーやワン・ビンの映画は、上映禁止措置を受けながらもそういう「デリケートな問題」をきちんと描いている。
April 19, 2015
April 17, 2015
April 10, 2015
『神々のたそがれ』のどろどろねちょねちょ
Hard to Be A God(viewing film)
『神々のたそがれ(英題:Hard to Be A God)』の3時間近い上映時間の間ずっと、ブリューゲルかボッシュの怪奇な細密画に拡大鏡を当てて少しずつ移動させながら見ている感じがしてた。
ヨーロッパ中世ふうの粗末な衣をまとった人間たち。縄を打たれ、枷や革の仮面をかぶせられ、吊るされ、虐殺される。切り裂かれた死体から内臓がどろりと落ちる。フリークスと卑猥な動作を繰り返す子供。裸の大女。火と剣。犬、ニワトリ、馬、フクロウが画面を横切り、棒にくくられた魚がウロコを光らせる。人間も動物や魚の同類にすぎない。彼らはどろどろねちょねちょした液体にまみれている。雨やぬかるんだ泥や汗や唾や嘔吐物や糞尿や体液やコールタールのようなもの。匂いまで漂ってきそうだ。
画面はそんな粘液まみれの細部を延々と映し出す。ロングショットがほとんどなく、長回しで人体や動物や魚に密着して離れない。いやでもディテールに目がいき、全体像がつかめない。それがアレクセイ・ゲルマン監督がこの映画で採ったスタイル。ここまで徹底すると、映画の極北を見たという感じになる。
物語らしきものはある。僕は原作がストロガツキー兄弟のSFという以外なんの情報もなく見たから、人物にしても主人公以外よく分からなかった(これを書いている今も分からない)。
どうやら地球とは別の惑星らしい。そこに地球からドン・ルマータ(レオニード・ヤルモルニク)らが送りこまれる。惑星の文明は地球から800年遅れている。地球の中世に当たる。都市では虐殺が進行している。異星人(といっても人間も動物も地球と同じ姿)たちは互いに果てしない殺戮と愚行と痴態を繰り返している。ドンは神として彼らに崇められているらしい(かと思うと子供がドンの頭をこずいたりする)。最後に異星人に絶望したドンは彼らを虐殺し、「神でいることはつらい」とつぶやく。
これをスターリン時代の虐殺や数千万の死者を生んだ毛沢東の大躍進政策といった政治への暗喩と見ることはもちろん可能だろう。実際、そうなのかもしれない。でもこの映画の面白さ(というなら)は、そこにはないと思う。
それはグロテスクにのたうち回る人間たちのどろどろぐちゃぐちゃねばねばべちょべちょを楽しめるか否かにかかっている。それが生理的に嫌なら、ストーリーがよく見えないこの映画を3時間見るのは苦痛でしかないだろう。映画を見ながら、僕はそれが嫌いじゃない自分を発見した。ストーリーがあるようでないから途中2度ほど落ちたけど、それでも最後まで面白かった。とにかく今まで一度も見たことがないような映画を見た。
アレクセイ・ゲルマン監督はこの映画に2000年に取り組み始め、2013年、完成を目前に心不全で亡くなった。74歳。
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