『アメリカン・スナイパー』 愛国的? 反戦的?
イーストウッドの映画はやっぱり西部劇なんだなあ。それが『アメリカン・スナイパー』を見ての感想だった。
思い出したのはイーストウッドが主演・監督した『ペイルライダー』。物語は名作『シェーン』のイーストウッド版でありながら、そこに流れる雰囲気がちょっと異様な西部劇でもある。ゴールドラッシュ時代のカリフォルニア、鉱山会社が支配する渓谷に、会社のいやがらせに屈しない一家がいる。その一家にイーストウッド扮する流れ者がやってくる。
そこから『シェーン』とほとんど同じ話が展開するんだけど、ひとつだけ大きな違いがある。イーストウッド扮するプリーチャーと呼ばれる流れ者には、背中に6発もの銃弾を浴びた傷がある。それはどう見ても生きていられるはずがないもので、主人公が発する雰囲気からして実は蘇った死者ではないかと思わせる。そもそもタイトルからして、「蒼ざめた(pale)馬を見よ。これに乗るものの名は死」(ヨハネ黙示録)を踏まえている。
『シェーン』と『ペイルライダー』に共通するのは、(1)無法地帯(荒野)を暴力が支配しているが、それに抗する家族がいる、(2)流れ者が家族に味方する、流れ者は暴力に暴力で立ち向かうことを辞さない一匹狼である、ということだろう。
これは西部劇の定型だけど、ジョン・ウェインに代表される1950年代の西部劇にくらべて80年代のイーストウッドの西部劇が新しかったのは、「強い男」が「強く」あらねばならないために生ずる内面の歪みや傷を、『ペイルライダー』なら背中の銃弾というかたちで象徴してみせたことだろう。「ベトナム戦争以前」のジョン・ウェインと、「ベトナム以後」のイーストウッドという時代的背景もあろう。主人公がそのような傷を負っているのは『ペイルライダー』だけでなく、『荒野のストレンジャー』や現代ものの『タイトロープ』なんかもそうだった。
もうひとつイーストウッドが主演したり監督した西部劇で感ずるのは、先住民がほとんど登場しないこと。あるいは登場しても、先住民への偏見がまったく感じられないこと。だからイーストウッド西部劇には白人=善、インディアン=悪という単純な構図はない。それは現代的な西部劇である『グラン・トリノ』でも同じだ。ここではむしろマイノリティへの共感すら感じられる。
そんなイーストウッド西部劇の構造は、『アメリカン・スナイパー』にも戦争映画へと応用されながら引き継がれている。
無法な暴力が支配する荒野は、イラクの戦場。ゲリラと戦う米軍の一員として特殊部隊のスナイパー、クリス(ブラッドリー・クーパー)が派遣されてくる。クリスは戦場に展開する米軍兵士を援護して160人の敵を狙い撃ち、「伝説のスナイパー」と呼ばれるようになる。しかし過酷な任務はクリスの心をむしばみ、帰国して家へ帰っても心を閉ざしたまま日常生活に復帰できない。妻のタヤ(シエナ・ミラー)からは「あなたは変わってしまった」と言われる。
フセイン政権崩壊後のイラクは前政権の残党やシーア派、スンニ派、米軍に協力的だったクルド人など、各派・各民族が入り乱れ混沌とした政治状況だった。でも、映画はそれをきれいに切り捨て、イスラム勢力は「敵」としか認識されていない。西部劇の敵か味方かの単純な二分法が採られている。
その一方で、イスラム兵や住民に対する民族的偏見は感じられない。ゲリラ側にも狙撃の名手がいるが、彼は憎むべき敵というよりクリスの好敵手として(『シェーン』のジャック・パランスのように)描写される。ゲリラが撃たれたのを見たイスラム少年が携帯式ロケット弾を拾い上げ、クリスが少年を撃つかどうか逡巡するシーンも、見る者は少年がロケット弾を撃たないようはらはらするよう(つまりテロリストでなく、ふつうの子供として)描写されている。ウィキペディアによれば、この映画はイラクでも上映されて好評だったという。そのことも、この映画から民族的な蔑視や偏見が感じられないことの傍証になるかもしれない。
『アメリカン・スナイパー』はアメリカでも大ヒットしたが、保守派からは愛国的だと褒められ、一方リベラル派からは反戦映画だと評価されたそうだ(ウィキペディア)。
保守派的な関心からしてもっとも高揚する場面は、殺されたクリスの葬儀のシーンで棺に向かって星条旗が打ちふられるあたりだろう。音楽のほとんどないこの映画で初めて? 音楽が流れる。『続・荒野の一ドル銀貨』の主題歌がクリスを追悼するように。
戦争の非情を描いたことを評価するリベラル派からすれば、いちばん印象的なのは、家へ帰ったクリスがソファに放心して座りテレビを見ているシーンだろうか。カメラはテレビの裏側からクリスを映し、戦場で銃弾が飛び交う音が流れているが、カメラが回り込むとテレビはスイッチが切られて何も映っていない。銃弾の音はクリスの脳内で飛び交っているのだ。
戦闘シーンの迫力はすさまじい。多くの西部劇や戦争映画をつくってきたイーストウッドの職人技がここぞとばかり発揮されてる。保守派が見れば愛国的な戦闘を、リベラル派が見れば戦場の過酷を描いて余すところない。
イーストウッドが共和党支持者で、でありながらイラク戦争に反対していたことはよく知られている。イーストウッドが役者として演じ、また監督として描いてきた西部劇のヒーローは、無法の荒野でたった一人、他の何者も頼まず自立して生きる誇り高い男だった。共和党はそんな西部開拓時代の独立精神を濃厚に引き継いだ政党だから、イーストウッドが共和党支持なのは当然といえば当然だろう。
でも一方で彼は、ヒーローが強くあるために払わなければならない犠牲や傷から目をそらさずに描いてきた映画作家でもあった。『ペイルライダー』などの西部劇、『タイトロープ』や『グラントリノ』などの現代もの、『父親たちの星条旗』などの戦争映画がその系譜に当たる。
だから愛国的なイーストウッドも、戦争の非情を描くイーストウッドも、どちらもイーストウッドなのだ。そのどちらかを見ないことにすることはできない。それがイーストウッドだと受容するしかない。もちろん作品によって、どちらかが強く出ることはある。『ハートブレイク・リッジ』みたいな能天気なタカ派映画もつくってるし。
僕自身は『ペイルライダー』『グラントリノ』『父親たちの星条旗』系列のイーストウッドが好きだ。そんな目で見ると、映画を初めから終わりまで堪能ながら、ラストの葬儀のシーンでもうひとつ印象的なワンショット(『父親たちの星条旗』で元兵士が星条旗を握り棄てようとしたり、『プライベート・ライアン』でスピルバーグが逆光に黒白反転した星条旗を挿入したような)がほしかったという思いが残った。それがあるとエンドロールの沈黙がより引き立ったのではないか、と。
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