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March 31, 2015

『イミテーション・ゲーム』 天才の気弱な微笑

Imitation_game
The Imitation Game(viewing film)

『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密(原題:Imitation Game)』の主人公はアラン・チューリング。第二次世界大戦で解読不可能と言われたドイツ軍の暗号システム・エニグマを解読し、コンピュータと人工知能の基礎を築いたイギリスの数学者だ。

連合国の勝利に貢献し、コンピュータの原型をつくったということは、僕らが生きてきた20世紀後半の世界の構造に大きくかかわっている人物。にもかかわらず戦争中の業績は秘密とされ、さらに同性愛者として告発されたために歴史から抹殺されてきた。復権したのは21世紀に入ってから。

映画はアランの少年時代から失意の時代までを描く。

いきなりアラン(ベネディクト・カンバーバッチ)の天才ゆえのふるまいが出てくる。ドイツ軍の暗号を解くため政府の極秘プロジェクトで6人の優秀な人間が集められるが、アランは2人は不要と言い放って追放する。残った4人とも協調せず、自分ひとりで解読マシーンの開発に取り組む。

そんなアランの独善が変わるのは、チームにクロスワード・パズルの達人ジョーン(キーラ・ナイトレイ)が加わってから。彼女のアドバイスでチームに差し入れをもってきて、「ジョーンにそうするよう言われたから」と不器用なコメントをする。そんな天才ゆえ他人が目に入らない孤高と、アランが時折見せる気弱な微笑の間の激しい落差をカンバーバッチが好演してる。

回想シーンでは気弱な微笑の理由が明かされる。アランは、彼を庇護し「君に向いてると思う」と暗号の本をくれた同級生のクリストファーに愛情を抱く。クリストファーは病死し、アランは開発している解読マシーンにクリストファーと名前をつけて呼びかける。アランがゲイであるあたりの描写は抑制されている。それはそれで好ましいけど、ゲイでありながら同時に異性のジョーンに惹かれ婚約するあたりのアランの葛藤が描きこまれれば、天才の悲しみがもっと引き立ったかも。

タイトルのイミテーション・ゲームは、人工知能に関してチューリングが考案したものを指す。素人理解で言うと、男と女がそれぞれに定められた質問に回答し、判定者は回答者が男なのか女なのかを判別する。男は女を装い、女は男を装って、判定者をまどわせるゲーム。この回答者を機械にやらせたらどうなるか、というのが人工知能開発の基礎となった(らしい)。

映画の最後、同性愛を追及する刑事とアランの間で、秘密を告白したアランが「さて私は機械か、人間か」と問うシーンがある。人間の底知れぬ複雑さと、その複雑さを再現しようとしたマシーン。このときアラン・チューリングは、知性をもったマシーンへの自信と同時に、ひょっとしたら自分はイミテーション・ゲームをするマシーンのような存在かもしれないという、自らが抱える闇に向き合っていたのだろうか。

はじめレオナルド・ディカプリオがこの役に興味を示したらしい。でもディカプリオではこの陰影は出ないんじゃないかな。カンバーバッチでこそ成り立ってる映画だった。監督はノルウェー出身のモルテン・ティルドゥム。


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March 29, 2015

嶋津健一トリオ・ライブ

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Shimazu Ken'ichi Trio live

嶋津健一トリオのアルバム「The Composers Ⅲ」発売記念のライブに出かけた(3月28日、横浜・ADLIB)。

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浦和から横浜まで、初めて上野東京ラインに乗る。湘南新宿ラインより数分早いだけみたいだけど、東海道線方面へ本数が増えるのはありがたい。上野-東京間はいつも乗る京浜東北線の隣の線路を走るが、わずかに位置が変わるだけで外の景色が違って見える。

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まずは腹ごしらえ。横浜へ来るとたいてい寄る関帝廟通りの蓬莱閣へ。北京家庭料理の店で、モツのピリ辛炒めが旨いんだなあ。

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前に出た「The Composers」のⅠはミシェル・ルグラン、Ⅱはジョニー・マンデルの曲と嶋津のオリジナルが半々だったけど、今度のアルバムはアントニオ・カルロス・ジョビンの曲と嶋津のオリジナルで構成されている。といってもボサノバは1曲だけ。日本ではあまり知られていない曲を嶋津流のバラード・ピアノで。ベースはいつもの加藤真一、ドラムスは初めて組む橋本学。

嶋津のピアノを堪能しました。アルバムに入ってないけど、数日前に作曲したという「夢、幻、やっぱり夢」がちょっとねじれた美しさでよかった。リクエストでレイ・ブライアント「クバノ・チャント」、中村八大「黄昏のビギン」(!)のおまけつき。


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March 27, 2015

『女神は二度微笑む』 コルカタの雑踏

Kahaani
Kahaani(viewing film)

コルカタに行ったことがない。人口450万、近郊の都市圏まで入れれば1400万人の大都会。この街の映像を最初に見たのは1970年代に公開されたサタジット・レイの映画だったろうか。

『女神は二度微笑む(原題:Kahaani)』はインド映画には珍しいミステリーだけど、主役は紛れもなくコルカタの街だ。人また人の街路。ドーム屋根のコロニアル建築。路面電車。朽ちはじめた下町。極彩色の市場。むっとする空気感。雨季の驟雨。そしてラストシーン、ヒンドゥの「戦いの女神」ドゥルガーを乗せた山車と、それを取り巻く赤白のサリーの女性の群れ。

手持ちカメラが雑踏のなかを動き回る。右に左に振れるカメラはなんだか1970年代ふうであり、いささか疲れもするけど、それだけに見ている自分もこの人の渦のなかにいるんだという感覚にもなる。その楽しさが、僕にとってはこの映画のいちばんの見どころだった。

もちろんミステリーとしても凝っている。ロンドンからコルカタへ、失踪した夫を探しに妊婦のヴィディヤ(ヴィディヤー・バーラン)がやってくる。警官のラナ(パラムブラト・チャテルジー)が彼女に協力することになる。夫が滞在していたはずのホテルに行っても覚えがないと言われ、夫が勤めていたはずのIT企業にもそんな事実はないと言われる。が、その企業には夫によく似た男が存在した……。

やがて情報機関が出てきたり、殺し屋が登場したり、地下鉄サリン事件をモデルにしたようなテロ事件にからむ国家的な陰謀であることが分かってくる。夫はテロ犯なのか、テロ犯に間違われたのか。映画はサービス満点。臨月近くよたよたと歩くヴィディヤと、それを助けるお人好しのラナはいいコンビ。ヴィディヤにラナは好意を抱いているらしい。そんなシーンでは、それらしい音楽が高まる。普段は無能な会社員を装う殺し屋は禿隠しの髪型が笑いを誘う。ヴィディヤと殺し屋の地下鉄ホーム上のやりとりも思わせぶり。「戦いの女神」とヒロインが重なる(ポスターもそれを暗示してますね)最後のWどんでん返しまで飽きさせない。

ハリウッド映画を見慣れた目には泥臭い印象もあるけど、あれもこれも過剰なのがインド映画のいいとこなんだろう。もっとも、インド映画といってもこれは東海岸のベンガル語映画で、西海岸のヒンドゥー語で歌と踊りのボリウッド映画とは別もの。ハリウッドでリメイクが決まっているそうだが、どんなものになるのか。コルカタ生まれ英国育ちのスジョイ・ゴーシュ監督。それにしても、インド映画の女優はどうしてこんなに美女ばかりなんだろう。

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March 26, 2015

菜の花とサーモンのパスタ

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pasta of salmon and rape blossoms

たまにはつくったことのないパスタをと思って、菜の花とサーモンのクリーム・パスタ。

塩鮭に胡椒して、菜の花と生クリーム、粒マスタードで和えたソース。店でクリーム・ソースのパスタを食べるとしつこいと感ずることがあるけど、あっさりめに仕上がりました。


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March 22, 2015

『娚の一生』の足指キス

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廣木隆一監督はこのところすっかり売れっ子になった。今年に入ってからも『さよなら歌舞伎町』と『娚(おとこ)の一生』が公開され、『ストロボエッジ』も近々公開される。『余命1ヶ月の花嫁』がヒットして恋愛映画上手という評価が高まったせいだろうか、『雷桜』『きいろいゾウ』『100回泣くこと』といった青少年向けのラブストーリーがつづいている(『雷桜』しか見てないけど、この時代劇は失敗作だった)。

廣木監督はもともとラブストーリーというか男と女の話が得意。もっとも青少年向けというより大人のエロスに満ちたものが多く、こちらの系列には題材も手法も作家的な志向が匂っている。

桐野夏生原作の『天使に見捨てられた夜』、団鬼六原作の『不貞の季節』、赤坂真理原作の『ヴァイブレータ』、絲山秋子原作の『やわらかい生活』(この寺島しのぶがいい)、馳星周原作の『M』、中上健次原作の『軽蔑』、オリジナルの『RIVER』といったところで、僕はこちらの廣木隆一が好きだ。『さよなら歌舞伎町』もこの系統に属する。

作家的といっても、廣木隆一の映画では学生映画出身監督がよくやるこれ見よがしなスタイルの実験はない。映画的な官能の背後に、そっと作家的な手法が埋めこまれている。例えば長回しもやるけど、『さよなら歌舞伎町』なんか廣木の撮るイ・ウンウがあまりに美しいので見惚れ、後で、ずいぶん長回しだったなと気づくことになる。『娚の一生』でも榮倉奈々がカメラを見つめるショットがさりげなく挿入されてドキッとする。

『娚の一生』もラブストーリーで、青少年向けエンタテインメントと作家的な大人映画の中間に当たるだろうか。原作は僕は読んでないけど西炯子の人気コミック。アラサー女と50代男の恋。男は女の祖母の恋人という、ちょっと無理じゃないの的な設定を観客にどう納得させるかが監督の腕の見せどころだ。

祖母の葬式で故郷に帰ったつぐみ(榮倉奈々)は、東京での仕事と不倫の恋に疲れ、空き家になった家で祖母が残した染色の仕事をやろうとしている。翌朝、つぐみは離れに見知らぬ男が泊まっているのに出くわす。海江田(豊川悦司)と名乗る大学教授で、祖母から離れの鍵をもらっていた。祖母が大学で染色を教えていたときの教え子で、どうやら祖母の若い恋人だったらしく、今も独身。つぐみと海江田の奇妙な同居生活が始まる。

お話はこういう設定の定石どおり。食事をつくってくれとか、パンツを黙って洗濯に出すとか、中年男の図々しさにつぐみはいちいち反発する。法事の席でつぐみの親類に向かって海江田は「つぐみと暮らしている」と、さもカップルであるかのような発言をする。でもやがて海江田の強引さの背後にあるやさしさに触れ……といった展開。

ポスターにもある、海江田がつぐみの足指を舐めるシーンは原作でも話題になったらしい。ここも長回しで、窓から射しこむ外光の明るい空気感が印象的。ここから(別の映画なら廣木好みだろう)谷崎潤一郎ふうなフェチにはまったく行かず、美しくまとめられているのがこの映画(原作)のありようを示している。

廣木監督が女優の魅力を引き出すのがうまいのには、いつもながら感心する。だからこそ若手女優を起用したラブストーリーに声がかかるんだろう。『余命1ヶ月の花嫁』で組んだ榮倉奈々が、ざんばら髪の日常生活のなかで見せる大人の魅力が素敵だ。豊川悦司も『やわらかい生活』以来で、こちらも渋い。ちょっと出てくる安藤サクラもさすが。心地よく楽しめる映画でした。

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March 19, 2015

沈丁花が満開に

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in full blossom of fragrant daphne

庭の沈丁花が満開になった。今日は朝から雨が降ってきそうな曇天。沈丁花は曇り空や夜が似合う。一枝切ってキッチンの一輪挿しに差すと、そこはかとない香り。

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March 17, 2015

『21世紀の資本』を読む

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Thomas Piketty"Le Capital au XXⅠe Siecle"(reading books)

トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)の感想をブック・ナビにアップしました。

http://www.book-navi.com/


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March 16, 2015

『アメリカン・スナイパー』 愛国的? 反戦的?

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American Sniper(viewing film)

イーストウッドの映画はやっぱり西部劇なんだなあ。それが『アメリカン・スナイパー』を見ての感想だった。

思い出したのはイーストウッドが主演・監督した『ペイルライダー』。物語は名作『シェーン』のイーストウッド版でありながら、そこに流れる雰囲気がちょっと異様な西部劇でもある。ゴールドラッシュ時代のカリフォルニア、鉱山会社が支配する渓谷に、会社のいやがらせに屈しない一家がいる。その一家にイーストウッド扮する流れ者がやってくる。

そこから『シェーン』とほとんど同じ話が展開するんだけど、ひとつだけ大きな違いがある。イーストウッド扮するプリーチャーと呼ばれる流れ者には、背中に6発もの銃弾を浴びた傷がある。それはどう見ても生きていられるはずがないもので、主人公が発する雰囲気からして実は蘇った死者ではないかと思わせる。そもそもタイトルからして、「蒼ざめた(pale)馬を見よ。これに乗るものの名は死」(ヨハネ黙示録)を踏まえている。

『シェーン』と『ペイルライダー』に共通するのは、(1)無法地帯(荒野)を暴力が支配しているが、それに抗する家族がいる、(2)流れ者が家族に味方する、流れ者は暴力に暴力で立ち向かうことを辞さない一匹狼である、ということだろう。

これは西部劇の定型だけど、ジョン・ウェインに代表される1950年代の西部劇にくらべて80年代のイーストウッドの西部劇が新しかったのは、「強い男」が「強く」あらねばならないために生ずる内面の歪みや傷を、『ペイルライダー』なら背中の銃弾というかたちで象徴してみせたことだろう。「ベトナム戦争以前」のジョン・ウェインと、「ベトナム以後」のイーストウッドという時代的背景もあろう。主人公がそのような傷を負っているのは『ペイルライダー』だけでなく、『荒野のストレンジャー』や現代ものの『タイトロープ』なんかもそうだった。

もうひとつイーストウッドが主演したり監督した西部劇で感ずるのは、先住民がほとんど登場しないこと。あるいは登場しても、先住民への偏見がまったく感じられないこと。だからイーストウッド西部劇には白人=善、インディアン=悪という単純な構図はない。それは現代的な西部劇である『グラン・トリノ』でも同じだ。ここではむしろマイノリティへの共感すら感じられる。

そんなイーストウッド西部劇の構造は、『アメリカン・スナイパー』にも戦争映画へと応用されながら引き継がれている。

無法な暴力が支配する荒野は、イラクの戦場。ゲリラと戦う米軍の一員として特殊部隊のスナイパー、クリス(ブラッドリー・クーパー)が派遣されてくる。クリスは戦場に展開する米軍兵士を援護して160人の敵を狙い撃ち、「伝説のスナイパー」と呼ばれるようになる。しかし過酷な任務はクリスの心をむしばみ、帰国して家へ帰っても心を閉ざしたまま日常生活に復帰できない。妻のタヤ(シエナ・ミラー)からは「あなたは変わってしまった」と言われる。

フセイン政権崩壊後のイラクは前政権の残党やシーア派、スンニ派、米軍に協力的だったクルド人など、各派・各民族が入り乱れ混沌とした政治状況だった。でも、映画はそれをきれいに切り捨て、イスラム勢力は「敵」としか認識されていない。西部劇の敵か味方かの単純な二分法が採られている。

その一方で、イスラム兵や住民に対する民族的偏見は感じられない。ゲリラ側にも狙撃の名手がいるが、彼は憎むべき敵というよりクリスの好敵手として(『シェーン』のジャック・パランスのように)描写される。ゲリラが撃たれたのを見たイスラム少年が携帯式ロケット弾を拾い上げ、クリスが少年を撃つかどうか逡巡するシーンも、見る者は少年がロケット弾を撃たないようはらはらするよう(つまりテロリストでなく、ふつうの子供として)描写されている。ウィキペディアによれば、この映画はイラクでも上映されて好評だったという。そのことも、この映画から民族的な蔑視や偏見が感じられないことの傍証になるかもしれない。

『アメリカン・スナイパー』はアメリカでも大ヒットしたが、保守派からは愛国的だと褒められ、一方リベラル派からは反戦映画だと評価されたそうだ(ウィキペディア)。

保守派的な関心からしてもっとも高揚する場面は、殺されたクリスの葬儀のシーンで棺に向かって星条旗が打ちふられるあたりだろう。音楽のほとんどないこの映画で初めて? 音楽が流れる。『続・荒野の一ドル銀貨』の主題歌がクリスを追悼するように。

戦争の非情を描いたことを評価するリベラル派からすれば、いちばん印象的なのは、家へ帰ったクリスがソファに放心して座りテレビを見ているシーンだろうか。カメラはテレビの裏側からクリスを映し、戦場で銃弾が飛び交う音が流れているが、カメラが回り込むとテレビはスイッチが切られて何も映っていない。銃弾の音はクリスの脳内で飛び交っているのだ。

戦闘シーンの迫力はすさまじい。多くの西部劇や戦争映画をつくってきたイーストウッドの職人技がここぞとばかり発揮されてる。保守派が見れば愛国的な戦闘を、リベラル派が見れば戦場の過酷を描いて余すところない。

イーストウッドが共和党支持者で、でありながらイラク戦争に反対していたことはよく知られている。イーストウッドが役者として演じ、また監督として描いてきた西部劇のヒーローは、無法の荒野でたった一人、他の何者も頼まず自立して生きる誇り高い男だった。共和党はそんな西部開拓時代の独立精神を濃厚に引き継いだ政党だから、イーストウッドが共和党支持なのは当然といえば当然だろう。

でも一方で彼は、ヒーローが強くあるために払わなければならない犠牲や傷から目をそらさずに描いてきた映画作家でもあった。『ペイルライダー』などの西部劇、『タイトロープ』や『グラントリノ』などの現代もの、『父親たちの星条旗』などの戦争映画がその系譜に当たる。

だから愛国的なイーストウッドも、戦争の非情を描くイーストウッドも、どちらもイーストウッドなのだ。そのどちらかを見ないことにすることはできない。それがイーストウッドだと受容するしかない。もちろん作品によって、どちらかが強く出ることはある。『ハートブレイク・リッジ』みたいな能天気なタカ派映画もつくってるし。

僕自身は『ペイルライダー』『グラントリノ』『父親たちの星条旗』系列のイーストウッドが好きだ。そんな目で見ると、映画を初めから終わりまで堪能ながら、ラストの葬儀のシーンでもうひとつ印象的なワンショット(『父親たちの星条旗』で元兵士が星条旗を握り棄てようとしたり、『プライベート・ライアン』でスピルバーグが逆光に黒白反転した星条旗を挿入したような)がほしかったという思いが残った。それがあるとエンドロールの沈黙がより引き立ったのではないか、と。

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March 11, 2015

幻のアーチ橋

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the arch bridge sunk in Lake Nukabira

水位の下がった糠平湖の湖面から姿を現した旧国鉄士幌線のタウシュベツ川橋梁。

士幌線は1939年に帯広-十勝三股間が開通した。大雪山の森林から伐り出したクロマツ、エゾマツなどを輸送するための山岳鉄道。建設費を抑えるため現地調達できる砂利や砂を使ったコンクリートのアーチ橋が60ほどもつくられた。

タウシュベツ川橋梁もそのひとつで、長さ130メートル。1950年代に糠平ダムが建設されることになって士幌線はルートが変わり、タウシュベツ川橋梁は糠平湖の底に沈んだ。夏から秋にかけて、ダムが満水になると橋は水面下に隠れるが、水位が下がる1月になると姿を現す。

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国道273号線からスノーシューを履いて森のなかへ入る。スノーシューはかんじきに似ていて、ストックを使いながら歩く。スノーシューがないと太ももまで雪に埋もれてしまう。300メートルほど歩くと、橋を展望できる場所に出る。

橋は腐食が進み、いつ崩れるかわからない状態だという。冬は凍った湖面を歩いて橋までいくツアーもあるが、今年は氷の溶けるのが早く、3月1日に湖面に入るのが禁止された。

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旧士幌線の線路跡。1978年に十勝三股-糠平間が、1987年に糠平-帯広間が廃止された。アーチ橋も解体されるはずだったが、住民の保存運動が実って北海道遺産に登録された。今ではアーチ橋を訪れる観光客も増えている。

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士幌線終点の十勝三股駅跡。鉄道の修理工場だった建物が残る。

林業全盛期には1500人の住民がいたが、いま残るのは2軒だけ。うち1軒は喫茶店を経営していて、昔ふうの小屋が懐かしく繁盛しているとか。

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かつての町の跡形もない。徐々に自然に還りつつある。沼までの踏み跡はシカが水を飲みにきたもの。背後は東大雪山系の石狩岳につづく山々。

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第五音更(おとふけ)川橋梁。長さ109メートル。十勝三股駅と幌加駅の間にある。

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幌加-糠平間の三の沢橋梁。長さ40メートル。雪がなくなれば橋上を歩くこともできる。


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March 10, 2015

湖と温泉

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flozen Lake Nukabira

結氷し、雪をかぶった糠平(ぬかびら)湖。ニペソツ山、ウペペサンケ山を中心とする東大雪地域の麓にある。糠平の地名は、ヌカ・ピラ(形ある崖)というアイヌ語から。

糠平湖は人造湖。1950年代に十勝川支流の音更(おとふけ)川につくられた糠平ダム建設によって生まれた。冬はワカサギ釣りが楽しめる。今年は氷の溶けるのが早く、3月1日には湖面への立ち入りが規制された。

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ぬかびら温泉(温泉名はひらがな表記)は大正期に発見された。昭和に入り鉄道が通ったことで十勝方面や林業関係の客でにぎわったという。でも1980年代をピークに林業の衰退、鉄道の廃線、スキー人気の低迷などもあって客は減っていった。

いちばん大規模な大雪グランドホテルは2003年に倒産、その廃墟は今も温泉街のなかに寂しく残っている。「みやげ」と看板のある店も数軒あるけれど、営業しているのは1軒だけ。

でもここの温泉は湯量は豊富で泉質もいい。全国に先駆けて「源泉かけ流し宣言」して、温泉としての魅力をアピールしている。高度成長期のような大きな温泉ホテルでなく、小さな宿泊施設もでき、さまざまな工夫で生き残ろうとしているようだ。頑張ってほしい。

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部屋から外をながめていたら、シカの親子がやってきた。今はシカ猟の季節だけれど、町なかなら撃たれる心配がないので、人のいるところへ出てくるという。

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夕方、雪が激しく降りはじめた。さあ、また露天に温まりにいこう。

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March 09, 2015

糠平温泉の露天

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Nukabira Spa in Hokkaido

北海道の糠平(ぬかびら)温泉郷へ。とかち帯広空港からバスで2時間弱。大雪山の東麓にある温泉だ。宿へ着き部屋から外をながめると、窓の下、渓流のそばに露天風呂が見える。

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木の階段を40段ほど下ると、雪景色のなかに風呂がある。

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ちょうど誰も入っていなかった。お湯は無色透明で無臭。湯加減は長く入ってものぼせない程度。手足をのばしてゆったり浸かる。見上げると、わずかな風にクロマツの枝から雪が粉のように落ちてくる。

お湯はナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉。飲用できないけど、なめるとかすかに塩味がする。ここは全国でもいち早く源泉かけ流しを宣言した。

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宿には同じ源泉だけど内湯がふたつ、別の露天がふたつある。深夜、別の露天に入っていると雪が降ってきた。お湯に浮いていると顔に雪がかかって冷たいのが気持ちいい。

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March 05, 2015

『そこのみにて光輝く』

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The Light Shines Only There(viewing film)

去年、評判になった作品をDVDで。『海炭市叙景』につづく函館出身の作家・佐藤泰志原作、函館発信映画の第2弾。

懐かしさを感ずる映画だなあ、というのが見終わっての感想だった。懐かしいといっても、1950~60年代の日本映画黄金時代とは肌合いが違う。5社体制が崩れつつあった1970年代、具体的な名前を挙げれば神代辰巳の文芸映画に近い感触。ロケ中心(本作は全編ロケ)のリアルな空気感、手持ちカメラを多用し光と影のくっきりした映像、長回し、ときたま入るだけなのに効果的な音楽、あてどない浮遊感、細かいところでは自転車への偏愛といったあたりも似ている。

神代は物語より現場の即興を大事にした印象があるけれど、こちらは原作がそうなのだろう、古めかしいくらいに物語を語る。

岩石採掘現場での事故のトラウマから、仕事もせずぶらぶらしている男(綾野剛)。寝たきりの父がいて、体を売って家を支える女(池脇千鶴)。函館を舞台にそんな男と女の不器用な愛が描かれる。掘立小屋のような女の家と、男の狭いアパート(ここでのラブシーンは官能的)、夜の歓楽街、函館山を望む海岸のシーンが印象に残る。ラストショットも、絶望的な環境のなかでなお一筋の人間への信頼を失わないことを暗示して素晴らしい。

呉美保監督の演出はけれん味のない正統派。これからが楽しみだ。

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March 04, 2015

卒業式の季節

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a day of a graduation ceremony

春のように暖かくなった一日、もうこんな季節なんだ。


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March 02, 2015

梅が満開

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わが家の梅が満開に近くなった。満開といってもこの程度。今年は枝を切ったわりには蕾が多い。ジャムにするくらいの梅の実がなるといいんだけど。


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