『薄氷の殺人』 ノワールの条件
Black Coal, Thin Ice(viewing film)
中国映画でこういうテイストの作品を初めて見た。フィルム・ノワール。中国映画をたくさん見てるわけじゃないけど、犯罪ものや刑事・探偵ものといったフィルム・ノワールの外形のかたちでなく、事件や物語を通して人の心の奥に潜む闇を掬ってみせるフィルム・ノワールの粋をこんなふうに体現した中国映画は初めてだった。
『薄氷の殺人(原題:白日焰火)』の原題「白日焰火」は白昼の花火を意味する。映像として強い印象を残す花火は、『灰とダイヤモンド』はじめさまざまな映画で「決めのショット」として使われるけど(北野武『HANA-BI』もあった)、昼の花火というのがいい。くすんだ空にビルの屋上から花火があがる最後のロング・ショットは記憶に残る。
この映画には英語タイトルもついていて、「Black Coal, Thin Ice」という。殺人の現場(氷上)と事件の露呈(石炭工場)を黒と白という色彩の対比で象徴している。この二つのタイトルについてディアオ・イーナン監督は、英語のタイトルは現実を表し、原題はファンタジーに属する、現在の中国を描く「同じコインの表裏」だと言っている(監督インタビュー)。
中国東北部の地方都市(ロケはハルビン)。刑事のジャン(リャオ・ファン)はバラバラ死体殺人事件を追うが、容疑者と撃ち合いになり負傷する。5年後、アル中になったジャンは刑事から降格され警備員になっている。元同僚から、似たような連続バラバラ死体殺人が起こり捜査で5年前の被害者の妻ウー(グイ・ルンメイ)が浮かびあがったと聞かされる。ジャンは憑かれたように彼女を追いはじめる……。
ノワールはもともと犯人捜しや謎解きは重要でなく(とはいえ、よくわからないところはある)、映画の空気とか映画の底を流れる情感が大切だ。自堕落な生活を送る太めのジャンと、楚々とした謎の美女ウー。過去と現在を行き来しながら絡む二人の背後に映る地方都市の寂しい風景が、一貫した空気と情感をかもしだす。
ウーが勤める暗い街角のクリーニング店。店主とウーの関係もあやしい。遠く町の灯りが見える町外れのスケートリンク。ウーはジャンを誘うように、リンクの人並みから離れて滑ってゆく。ぽつんとネオンが光る雪道。時代がかった映画館やナイトクラブ。公園の観覧車。この上ないノワールの舞台装置のなかで、二人の距離が徐々に狭まっていく。
この映画をつくるにあたって、監督は3本の映画を参考にしたと言っている(前掲インタビュー)。『マルタの鷹』『第三の男』『黒い罠』。いずれもハードボイルドやミステリー、ノワールの古典とされる作品だ。『マルタの鷹』の影は、追う男と追われる女の心理的葛藤に見られるかもしれない。『第三の男』は壁をよぎる人影や観覧車のシーンに明らか。『黒い罠』は冒頭の長回しや、地方都市の描写にヒントを得たかもしれない。いずれにしてもイーナン監督の表現に昇華されている。
それ以上に興味深いのは、監督がこの映画をノワールとしてつくろうとした理由だ。監督は前掲のインタビューで、自分がノワールを好きだっただけでなく、出資者がこのジャンルに商業的な可能性を見たからだと言っている。つまり最初から商業的なエンタテインメントとして構想されている。
いま中国でいちばん先鋭な映画をつくっているジャ・ジャンクーやワン・ビンは、国内で上映禁止になる危険も承知の上で確信犯的にテーマを設定し、アート的な映画をつくっている。イーナン監督の立ち位置はそれとは違う。映画は産業でもあるから、エンタテインメントとして商業映画をつくるイーナン監督のほうが映画の本流だろう。
しかも中国では映画に検閲がある。政治的に正しいことが求められ、男女関係に不倫は許されず、犯罪は罰されなければならない。そういう規制をクリアしてノワールをつくるのはハードルが高い。もともと1950年代アメリカのノワールやハードボイルドはナチス・ドイツから亡命したユダヤ系監督やレッドパージを逃れた左派系監督の手になるものが多い。そういう背景からしてもノワールに犯罪や背徳は欠かせないテーマだった。
だからアメリカや日本なら普通につくられるこういうテイストの映画を中国で企画・製作するのは大変なことなのだと思う。イーナン監督は、規制ぎりぎりの線で犯罪や背徳を描いて検閲をしたたかにクリアしたようだ。最後、規制に従って犯罪は罰される。花火はその場面にかぶさってくる。多義的でいかようにも解釈できるけど、白昼の花火はそのものとして美しかった。
本家アメリカやフランス、香港、日本などいろんなノワールを見てきて、ノワールが生まれるには条件があると思う。都市化が進んでいること、社会が成熟してきていること。ハードボイルド小説は、19世紀の西部開拓が太平洋に到達し西海岸に都市が生まれたことで、それまでのウェスタン小説から進化するかたちで発生した。ノワールはハードボイルドと重なるところが多いけど、僕の見るところ、さらに社会の成熟というか爛熟が母体になっていると思う。ノワールは美的映画なのだ。
『薄氷の殺人』が生まれたことは、中国にもそのような社会がやってきつつあることの証明かもしれない。しかし一方では、映画(だけでなく言論や文化一般)に対する検閲は依然としてつづいている。面白い映画はそういう条件をかいくぐって生まれてくる。イーナン監督にはこれからも骨太のエンタテインメントを期待しよう。
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