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January 31, 2015

酒場でドイツ歌曲を

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German lieder in a bar

友人の作曲家、淡海悟郎がピアノを弾き、ソプラノの室井綾子が歌う「酒場でドイツ・リート(歌曲)」を聞きに、東中野の酒場マ・ヤンへ。シューマン、ワーグナー、シューベルト、リヒャルト・シュトラウスの歌曲をたっぷりと。

淡海君は母上の介護に専念していたこともあり、ピアノを弾くのは3年半ぶり。終わった後は友人たちと二次会で盛り上がった。

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東中野駅前のこの一角は昭和の香りただよう小路。ところがここに30階建て高層マンションの計画が持ち上がり、地上げ業者が入っているという。マ・ヤンのオーナーが中心になった「昭和の街を保存する会」の呼びかけに一同で署名する。こういう雰囲気の酒場、小路はいちど壊してしまえば二度とつくれない。

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January 30, 2015

『さよなら歌舞伎町』 抱きしめたい

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Good-bye Kabuki-cho(viewing film)

ふた昔、いやもっと前のことになる。5社体制が生きていて、プログラム・ピクチャーが毎週大量に公開されていたころ、鳴り物入りの大作や問題作ではないけれど、すごくよくできたエンタテインメントに遭遇したときの嬉しさには格別のものがあった。東映なら加藤泰、大映なら三隅研次、日活なら藤田敏八や神代辰巳といった監督たちの映画にその確率が高かった。高度な職人の技と作家の魂をともに持った彼らの映画こそ映画の王道だと思ったりした。

学生映画出身の監督が多いこの頃、『さよなら歌舞伎町』は昔のそんな喜びを思い出させてくれた。役者をうまく使ってたっぷり楽しませてくれるし、サービスも満点。これ見よがしの新しい手法は見せないけれど、見終わると監督や脚本家の思いがずっしり伝わってくる。そんな良きプログラム・ピクチャーのテイストをもっているのも当然といえば当然。監督の廣木隆一は5社ではないけれどピンク映画の現場で修業を積んでいるし、脚本の荒井晴彦は日活ロマンポルノ時代に何本もの傑作の脚本を書いている。

新宿歌舞伎町のラブホテルが舞台。3組6人のカップルを中心に、さらに何組かのカップルを周辺に配した「グランド・ホテル」形式の群像劇だ。

同居しながらセックスレスのカップル。徹(染谷将太)は一流ホテル勤務と嘘をついてラブホ店長。バンドをやっている沙耶(前田敦子)にはメジャー・デビューの話が来ている。韓国人カップル。チョンス(ロイ)は韓国料理店の厨房で働き、ヘナ(イ・ウンウ)はチョンスに内緒でデリヘル嬢をやっている。犯罪を犯して逃走中のカップル。里美(南果歩)は変装してラブホで働き、康夫(松重豊)は部屋に身を潜め時効を待っている。

徹が店長を務めるラブホに、いろんな客がやってくる。風俗スカウトマンと家出娘。部屋を借りたアダルト・ビデオの撮影で、徹は妹が出演しているのに出くわす(震災の話はくどいけど)。ここを仕事場にしているヘナは、シャブを持った客に身の危険を感じ助けを求める。大きなマスクをした刑事の不倫カップル。女刑事は従業員の里美が指名手配中であることに気づく。沙耶が「枕営業」で音楽プロデューサー(大森南朋)とやってくる……。

ラブホテルの外観とフロントは歌舞伎町の、室内は別のラブホテルで撮影されているから、つくりもの感はまったくない。映画の大部分は狭い室内シーンの連続で、それと気づかせないけど撮影と編集にはすごい職人技が発揮されてるはずだ。さらにいい感じなのは、カメラが外へ出て実際に歌舞伎町の路上でロケされていること(許可を取るのも撮影も、さぞ大変だったろう)。ヘナが「出勤」途中で出くわすヘイト・スピーチのデモ。街娼の殺人が起こるネオンのホテル街。里美が走って逃げる夜の歌舞伎町。この映画の真の主人公は街なのだ。

そしていつもながら感心するのは、廣木隆一が女優たちを美しく撮ること。前田敦子の弾き語りにはぐっとくるし、ヌードのイ・ウンウのきれいなこと。地味なおばちゃんを装う南果歩も、メガネの奥で瞳が輝いている。『柔らかい生活』の寺島しのぶや『軽蔑』の鈴木杏もそうだったけど、彼女らのいちばん美しいショットとして記憶に残るだろう。

荒井晴彦の脚本にはいつもどろっとした倦怠が漂って、その底流はこの映画でも変わらない。でも、ほのぼのと明るく仕上がっているのは共同脚本に若い中野太が参加しているのと、つじあやのの音楽のせいだろう。見終わって登場人物のみんなを抱きしめたくなる。とてもいい青春映画だった。

エンド・ロールが終わるまで席を立たないで。


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積もるかな

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first snow in this winter

午前9時。明け方から降り始めた雪が積もりはじめた。今日は一日雪の予報だけど、どれだけ積もるのか。夕方から友人のミニ・コンサートで東中野まで行かなきゃならないんだけど。


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January 22, 2015

『薄氷の殺人』 ノワールの条件

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Black Coal, Thin Ice(viewing film)

中国映画でこういうテイストの作品を初めて見た。フィルム・ノワール。中国映画をたくさん見てるわけじゃないけど、犯罪ものや刑事・探偵ものといったフィルム・ノワールの外形のかたちでなく、事件や物語を通して人の心の奥に潜む闇を掬ってみせるフィルム・ノワールの粋をこんなふうに体現した中国映画は初めてだった。

『薄氷の殺人(原題:白日焰火)』の原題「白日焰火」は白昼の花火を意味する。映像として強い印象を残す花火は、『灰とダイヤモンド』はじめさまざまな映画で「決めのショット」として使われるけど(北野武『HANA-BI』もあった)、昼の花火というのがいい。くすんだ空にビルの屋上から花火があがる最後のロング・ショットは記憶に残る。

この映画には英語タイトルもついていて、「Black Coal, Thin Ice」という。殺人の現場(氷上)と事件の露呈(石炭工場)を黒と白という色彩の対比で象徴している。この二つのタイトルについてディアオ・イーナン監督は、英語のタイトルは現実を表し、原題はファンタジーに属する、現在の中国を描く「同じコインの表裏」だと言っている(監督インタビュー)。

中国東北部の地方都市(ロケはハルビン)。刑事のジャン(リャオ・ファン)はバラバラ死体殺人事件を追うが、容疑者と撃ち合いになり負傷する。5年後、アル中になったジャンは刑事から降格され警備員になっている。元同僚から、似たような連続バラバラ死体殺人が起こり捜査で5年前の被害者の妻ウー(グイ・ルンメイ)が浮かびあがったと聞かされる。ジャンは憑かれたように彼女を追いはじめる……。

ノワールはもともと犯人捜しや謎解きは重要でなく(とはいえ、よくわからないところはある)、映画の空気とか映画の底を流れる情感が大切だ。自堕落な生活を送る太めのジャンと、楚々とした謎の美女ウー。過去と現在を行き来しながら絡む二人の背後に映る地方都市の寂しい風景が、一貫した空気と情感をかもしだす。

ウーが勤める暗い街角のクリーニング店。店主とウーの関係もあやしい。遠く町の灯りが見える町外れのスケートリンク。ウーはジャンを誘うように、リンクの人並みから離れて滑ってゆく。ぽつんとネオンが光る雪道。時代がかった映画館やナイトクラブ。公園の観覧車。この上ないノワールの舞台装置のなかで、二人の距離が徐々に狭まっていく。

この映画をつくるにあたって、監督は3本の映画を参考にしたと言っている(前掲インタビュー)。『マルタの鷹』『第三の男』『黒い罠』。いずれもハードボイルドやミステリー、ノワールの古典とされる作品だ。『マルタの鷹』の影は、追う男と追われる女の心理的葛藤に見られるかもしれない。『第三の男』は壁をよぎる人影や観覧車のシーンに明らか。『黒い罠』は冒頭の長回しや、地方都市の描写にヒントを得たかもしれない。いずれにしてもイーナン監督の表現に昇華されている。

それ以上に興味深いのは、監督がこの映画をノワールとしてつくろうとした理由だ。監督は前掲のインタビューで、自分がノワールを好きだっただけでなく、出資者がこのジャンルに商業的な可能性を見たからだと言っている。つまり最初から商業的なエンタテインメントとして構想されている。

いま中国でいちばん先鋭な映画をつくっているジャ・ジャンクーやワン・ビンは、国内で上映禁止になる危険も承知の上で確信犯的にテーマを設定し、アート的な映画をつくっている。イーナン監督の立ち位置はそれとは違う。映画は産業でもあるから、エンタテインメントとして商業映画をつくるイーナン監督のほうが映画の本流だろう。

しかも中国では映画に検閲がある。政治的に正しいことが求められ、男女関係に不倫は許されず、犯罪は罰されなければならない。そういう規制をクリアしてノワールをつくるのはハードルが高い。もともと1950年代アメリカのノワールやハードボイルドはナチス・ドイツから亡命したユダヤ系監督やレッドパージを逃れた左派系監督の手になるものが多い。そういう背景からしてもノワールに犯罪や背徳は欠かせないテーマだった。

だからアメリカや日本なら普通につくられるこういうテイストの映画を中国で企画・製作するのは大変なことなのだと思う。イーナン監督は、規制ぎりぎりの線で犯罪や背徳を描いて検閲をしたたかにクリアしたようだ。最後、規制に従って犯罪は罰される。花火はその場面にかぶさってくる。多義的でいかようにも解釈できるけど、白昼の花火はそのものとして美しかった。

本家アメリカやフランス、香港、日本などいろんなノワールを見てきて、ノワールが生まれるには条件があると思う。都市化が進んでいること、社会が成熟してきていること。ハードボイルド小説は、19世紀の西部開拓が太平洋に到達し西海岸に都市が生まれたことで、それまでのウェスタン小説から進化するかたちで発生した。ノワールはハードボイルドと重なるところが多いけど、僕の見るところ、さらに社会の成熟というか爛熟が母体になっていると思う。ノワールは美的映画なのだ。

『薄氷の殺人』が生まれたことは、中国にもそのような社会がやってきつつあることの証明かもしれない。しかし一方では、映画(だけでなく言論や文化一般)に対する検閲は依然としてつづいている。面白い映画はそういう条件をかいくぐって生まれてくる。イーナン監督にはこれからも骨太のエンタテインメントを期待しよう。


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January 21, 2015

みぞれから雨へ。

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sleeting in my garden

午後3時半。みぞれがぼたん雪に変わり始めた。積もるだろうか。……と思ったのも束の間、30分後には冷たい雨になった。

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January 20, 2015

奈良原「王国」とフジタの戦争画

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元同僚と昼食を食べて、竹橋・近代美術館の奈良原一高「王国」展へ行く。写真史に残る名作。写真集では何度も見ているが、プリントで全体像を見るのははじめて。さすがにすごい完成度。

同時に開かれている所蔵作品展「MOMATコレクション」にはデビュー作「人間の土地」や「ブロードウェイ」も展示されていた。川田喜久治「地図」も。

「MOMATコレクション」で嬉しかったのは藤田嗣治「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」を見られたこと。近美が以前やった「藤田嗣治展」には出品されていなかった。

ノモンハン事件を題材にした戦争画。横長の大きなカンバスいっぱいに大草原と青空。動けなくなったソ連の戦車に日本軍の歩兵が襲いかかる図。藤田の戦争画の代表作「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」(今回も出品されている)が暗い画面に鎮魂の気配が満ち満ちているのに比べると、戦闘場面にもかかわらず牧歌的な感じさえ漂っている。

ノモンハンの戦闘は、この絵とはまったく違う惨憺たるものだった。「戦車ではなくオモチャ」(司馬遼太郎)のような日本の戦車はソ連の戦車にまったく歯が立たなかった。日本軍は歩兵が火炎瓶を戦車の下に投げ込んで炎上させる捨て身の戦術を取ったが、「何千という死体、死馬の山、無数の砲、自動車」(『ジューコフ元帥回想録』)を残して撤退した。藤田の絵は、この捨て身の作戦を勝利として描いたものだろう。

解説によると、藤田にはこれとは別にもう一枚のノモンハンを描いた作品があったとの証言がある。そちらは、この絵とは逆に死体累々だったという。今回の展示が表ノモンハンだとすれば、失われた裏ノモンハンを見てみたかった。藤田の戦争画には、考える種がたくさんある。

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January 17, 2015

『エレナの惑い』 母の肖像

Elena
Elena(viewing film)

黒沢明『天国と地獄』の崖上の邸宅と崖下の安アパートを引き合いに出すまでもなく、富める者と貧しい者の対立を場所をめぐる物語として語った映画は多い。ロシア映画『エレナ(原題:Елена)』もまた、際立った対照を示すふたつの場所をめぐる映画だった。

ひとつはモスクワと思しき都市。閑静な住宅地に高級コンドミニアムが建つ。広い部屋に洒落た調度。全面ガラス張りの窓からは、冬枯れの木立が並ぶ広い庭が見える。映画の最初と最後のショットは、かすかに外の音がきこえる静寂の庭から主人公の部屋を眺めたものだ。

もうひとつは、モスクワから電車で行く郊外の町。町のかたわらには原子力発電所らしい建物が水蒸気を吐いている(現実にはモスクワ郊外に原発はないが)。町には4、5階建ての古びた鉄筋コンクリートのアパートが並ぶ。この無個性なアパートはフルシチョフカと呼ばれ、1950年代のフルシチョフ時代に全国で建てられた低コストの建物だ。現在では老朽化して低所得者層が住み、出入口に不良グループがたむろしている。

この二つの場所をつなぐのが主人公のエレナ(ナジェジダ・マルキナ)。エレナはソ連崩壊後に成り上がったらしいウラジミル(アンドレイ・スミルノナ)と結婚して、モスクワの高級コンドミニアムに住んでいる。エレナは元看護士で、ウラジミルが入院したときに献身的に看護したことから愛が生まれた。エレナもウラジミルも共にバツイチで、エレナには息子が、ウラジミルには娘がいる。

朝、エレナとウラジミルは会話のない食事をする。2人の間にかつての愛は消えている。エレナはウラジミルに孫が大学へ行くため資金援助を頼むのだが、エレナの無職の息子が金をせびってばかりいるので、いい顔をしない。一方、ウラジミルの娘も父親の金で暮らしているが一向に父のところに顔を出さない。エレナは折あるごとに郊外電車に乗って息子のアパートを訪れては金を渡している。

ある日、ウラジミルが心臓発作で入院する。退院したウラジミルがエレナに、遺産は娘に渡す、明日は遺言書を書くと言った翌日、エレナは処方されたのと別の薬をウラジミルに飲ませる……。

社会派の犯罪ドラマになりそうな内容だけど、『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督は全く別のテイストの映画に仕立てている。静けさが支配する画面。隅々まで計算された端正な映像と、サスペンスを排除するようなカットのつなぎ。ところどころで入るフィリップ・グラスの音楽がわずかに感情をかきみだす。

『父、帰る』では繰り返される水の描写にタルコフスキーのDNAを感じたけど、ここではふっと挿入される円筒形の原発の建物や、すさんだコンクリートのアパート、コンドミニアムの空虚な部屋、妻でなく家政婦のように見えるエレナの鏡に映った肖像といったショットに凄みを感じた。罪を犯したエレナの心は電車の窓から眺める馬の死体や、停電で闇になり思わず息子の手を握るショットで暗示される。エレナは息子に孫の入学資金を渡すが、そのとき孫は原発が見える林の中で不良仲間とホームレス狩りをやっている。

モスクワの高級住宅地と郊外の朽ちたアパートの町を行き来する母の、盲目的な子供への愛と愚かさをナジェジダ・マルキナが好演。急激な資本主義化で極端な貧富の差がある今のロシアの断面を、何も言わずぞろりと切り取って見せてくれた映画だった。


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January 15, 2015

『マップ・トゥ・ザ・スターズ』 バビロンの炎

Map_to_the_stars
Maps to The Stars(viewing film)

この映画のキー・パーソンは脚本を書いたブルース・ワグナーだろう。脚本家志望のブルースがハリウッドでセレブの運転手をやっていた時代に体験したことが、この映画の素になっている。鉢合わせした女優同士の鞘当てとかカーセックスを誘われるあたりもそうだろうか。彼はこの脚本をもとに小説を書いている。タイトルは『Dead Stars』。こっちのほうは直截な表現だけど、映画タイトルのほうが陰翳がある。

『マップ・トゥ・ザ・スターズ(原題:Maps to The Stars)』は、まるでシェークスピア劇でも見ているように宿命的な破滅へ突き進んでいく2人のスターと、それを取り巻く映画業界の男と女の物語だ。

冒頭、顔と手に火傷の痕をもつ少女アガサ(ミア・ワシコウスカ)が映画の都ロサンゼルスにやってくる。雇われたリムジン運転手のジェローム(ロバート・パティンソン)が「どこから?」と聞くと、アガサは「木星(ジュピター)から」と答える。ジュピター(ローマ神話のユピテル、ギリシャ神話のゼウス)は天を支配する神々の王で、武器とする雷は全宇宙を焼き尽くす。黒手袋で隠す火傷の跡も「木星から来た」という台詞も、炎によって死者が生まれるこの映画でのアガサの行動を暗示するようなシーンだ(アメリカ版ポスターは「ハリウッド・バビロン」炎上のイメージ)。

アガサは両親によってLAから追放されたのだが、彼女の帰還によって2人の映画スターの運命の歯車が狂いはじめる。2人のスターはそれを予感するように、父の亡霊に出会ったハムレットみたいに亡霊に出会い、憑りつかれる。

かつてスターだった落ち目の中年女優ハバナ(ジュリアン・ムーア)は、70年代のスターで焼死した母の映画をリメイクする企画で、母の役を得ようとあせっている。ハリウッドの邸宅に住むハバナは、バスルームで若く美しい母の亡霊を見る。

子役で大ヒットを飛ばしたベンジー(エヴァン・バード)は薬物依存症を治療して次回作を準備中だが、話題づくりで訪問した病気の少女の亡霊を見るようになる。ハバナの場合もベンジーの場合も、亡霊とは言うまでもなく彼らの鬱屈した心が見る幻視のことだ。ベンジーの父スタッフォード(ジョン・キューザック)はハリウッドのスターを顧客にもつTVセラピストで、ハバナも彼の怪しげな治療を受けて自分を虐待した(と信じる)母のトラウマから逃れようとしている。アガサは実はベンジーの姉で、かつて2人は心中未遂のような事件を起こしていた。アガサはハバナの秘書として彼女の邸宅に住み込むことになる……。

ハバナのジュリアン・ムーアがすさまじい。美しい母の記憶に呪縛された中年女優の役を、ぶよぶよの肉体を晒し、バスルームでは屁をひりながら演じてる。54歳という年齢や過去の華々しい受賞歴からしてジュリアン自身を彷彿させなくもない役どころ。ジュリアンは『ブギーナイツ』のポルノ女優役もあれば『エデンより彼方に』『めぐりあう時間たち』みたいなメロドラマもあり、インディペンデントからメジャー作品まで幅広い役者だけど、この映画でもなりふり構わぬ熱演。『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンを思い起こさせる。その甲斐あって去年のカンヌ映画祭で最優秀女優賞を得た。

野心と虚栄と嫉妬がうずまく「ハリウッド・バビロン」がアガサの帰還によって狂いはじめるのを、デヴィッド・クローネンバーグ監督は化学反応を観察するような冷たい眼差しで見ている。そのクールさは、いかにもクローネンバーグ。

スタッフォードは帰ってきたアガサを妻や息子のベンジーに会わせまいと必死になる。スタッフォードの妻は実は彼の妹で、兄妹の結婚から生まれたアガサとベンジー姉弟はその秘密を知って嫌悪しつつ互いに惹き寄せられる。幻視に悩むベンジーは誤って共演する子役の首を絞めてしまう。運転手のジェロームはバビロンの観察者役なのだが、アガサと恋仲になり、ハバナがジェロームを誘ってカーセックスをしているのを見たアガサは彼女が仕えるハバナへの嫉妬に燃える。アガサがジュピターとしての本性をあらわにしていく。

神話的なスターだった母親に呪縛されるハバナ。近親結婚した親の呪縛から逃れようとして逃れられないアガサとベンジー姉弟。親子の記憶が彼らを狂わせる。それを増幅させるバビロンの狂騒。残酷で冷たい喜劇とでもいおうか。

クローネンバーグはずいぶん前からこの企画を温めていたらしい。でも映画業界を辛辣に描く内容で資金が集まらないことやヒットが見込めないことで長いこと実現しなかった。ようやく実現したが、映画は予想通り当たらず、今のところ1300万ドルの予算の3分の1も回収できていない(wikipedia)。それがわかっていながらこの映画をつくったことに、クローネンバーグの作家魂を見た。

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January 12, 2015

閻連科『愉楽』を読む

Yuraku
Yan Lianke"Lenin's Kiss"(reading a book)


閻連科『愉楽』の感想をブック・ナビにアップしました。


http://www.book-navi.com/


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January 09, 2015

庭のジョウビタキ

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a red start in my garden

縁側でPCを開いていたら、庭にジョウビタキ(♀)がやってきて葡萄の木でひと休み。

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January 08, 2015

『ゴーン・ガール』 完璧なブロンド美女

Gone_girl
Gone Girl(viewing film)

『ゴーン・ガール(Gone Girl)』は、デヴィッド・フィンチャーの映画らしくプロットが二転三転して行き着く先が読めない。しかも二転三転するごとに映画のテイストが変わって、いわゆるジャンル映画を横断するようになっているのが面白い。出だしは正統派のミステリー、それが社会派ふうに展開していたと思うと、途中から女性のロードムービーに変わり、一転して密室の監禁サスペンス、最後はひねりのきいた恐怖映画みたいになって終わる。

ミズーリ州の田舎町で暮らすニック(ベン・アフレック)の妻・エイミー(ロザムンド・パイク)が失踪する。エイミーはベストセラー『アメージング・エイミー(完璧な少女エイミー)』を書いた父の娘で、本のモデルだった。両親を中心にワイドショーも利用した公開捜査が過熱し、アリバイがあやふやで愛人の存在が発覚したニックに疑いがかけられる。ニックは殺人容疑で逮捕されるが、画面は一転、失踪したエイミーが車で移動し身を隠していることを映し出す。

前半はニックの視点で物語が進むけれど、やがてエイミーこそ真の主役であることがわかってくる。エイミーはニューヨークのセレブである両親の「作品」で、彼女自身もそれを演じていた。金も教養もある美女が実は……というのが後半の面白さ。

原作の小説は、アメリカで実際にあった事件に基づいている。「完璧な夫婦」の妻が失踪して殺され、夫が殺人罪で逮捕・起訴され有罪になった「スコット・ピーターソン事件」。原作を読んでないけど、映画と同じだとすれば、実際の事件を途中から上下左右引っくりかえしてみせたんじゃないかな。映画はそうなってる。

そこが見どころで、ヒッチコック好みのブロンド、ロザムンド・パイクが美しくも恐ろしい。と書けばネタバレだからついでに言えば、『氷の微笑』のシャロン・ストーンより魅力的だ。最大の見せどころは、ベッドの上のロザムンドにどばっと大量の血が飛びちるシーン。そこから映画は一挙にサイコ・ホラーというか、コメディ・ホラーというか、仮面をかぶった夫婦の化かしあいになる。

ちょっとだけ不満を言えば、エイミーが裕福な高校時代のボーイフレンドに助けを求め、豪邸に体よく監禁されるプロットがもっと突っ込んで描かれれば、血がどばっのショットがもっとショッキングだったろう。昔のイギリス映画『コレクター』のように、とまでは言わないが。

フィンチャーの映画にはいつもリアリズムというよりゲーム感覚がついて回るけど、この映画も同じ。それが好きかどうかは好みが分かれるところだ(実は僕はあまり好きではない)。でも面白さは抜群。

この映画、最初はカミさんと見に行く予定だったけど、一緒に行かなくて、ああ、よかった。


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January 01, 2015

元旦の空

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Happy New Year!

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。昨年後半はブログもさぼり気味だったので、今年は気合を入れてやろうと思います。おつきあいください。

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浦和の氏神、調神社を祀った神棚にお神酒と燈明をあげるのが元旦朝の習慣。

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大晦日につくったおせち。といっても煮物には手を出させてもらえず、ローストビーフをつくっただけ。


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