『毛皮のヴィーナス』 谷崎とポランスキー

La Venus a la Fourrure(viewing film)
『毛皮のヴィーナス(原題:La Venus a la Fourrure)』を見て思い出したのは、なぜか谷崎潤一郎だった。
谷崎が大正期に書いた短編群にはミステリー形式を借りて殺人、覗き、女装、性愛、マゾヒズムといったテーマを扱った、隠微な美しさに満ちたものが多い。谷崎はその後『春琴抄』や『細雪』などで日本近代文学を代表する文豪という評価を受けるけれど、晩年には『鍵』『瘋癲老人日記』といった老人の性やサド・マゾ的な心理ゲームを描いて若いころの変態性に立ち戻った。作家として自分の性(さが)に忠実だったんだろう。
ロマン・ポランスキーも『水の中のナイフ』『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』といった初期の映画では、自らの無意識に潜む性的で野蛮で凶暴なものに目を据えていたように思う。それが男女の支配-被支配の心理ゲームや狂気やホラーの物語を生み出した。彼もまた『戦場のピアニスト』などで巨匠と呼ばれるけれど、『毛皮のヴィーナス』では80歳を過ぎたロマンが執着しつづけた世界に先祖返りしているように感ずる。その姿が恰好いい。
何に驚いたって、舞台演出家トマを演ずるマチュー・アマルリックが若いころのロマン・ポランスキーそっくりなのにびっくりした。くりっとした好奇心あふれる目や大きな鼻、唇の形もそっくりだし、長髪も30代のポランスキーに意図的に似せたとしか思えない。見る者は誰もがトマ=ロマン・ポランスキーだと思う。
この映画はザッヘル=マゾッホの同名の小説を基にした演劇の映画版。映画版の脚本は舞台劇の作者デヴィッド・アイブスとロマンが共同で書いている。マチューがロマンに似てることもあり、さらに主演女優のエマニュエル・セニエが現実にポランスキー夫人ということもあって、まるでロマン・ポランスキーに当て書きしたみたいに感じられる。
激しく雨が降り雷が鳴る日。パリの古い劇場では「毛皮のヴィーナス」のオーディションが終わったところだ。主演女優が見つからなかったと愚痴るトマの前に、ワンダ(エマニュエル・セニエ)という女優が現れる。芝居は、貴婦人の奴隷になることを契約した男と貴婦人とのサド・マゾ的な心理劇。貴婦人の役名もまたワンダという。舞台上でワンダとトマが台詞を読んでオーディションが始まる。はじめ傲慢で自信たっぷりのトマが、女優ワンダが演ずる貴婦人ワンダの命令に従う男を演ずるうち、現実と舞台の境目がなくなりトマのマゾヒストとしての無意識があぶりだされてくる……。
現実から舞台への移行が素晴らしい。それまで蓮っ葉な女優ワンダを演じていたエマニュエルが貴婦人ワンダの台詞をしゃべりだした瞬間にすっとエレガントな口調になり、ヨーロッパの貴族的な空気を身にまとう。最初、「もっと感情をこめて」とワンダを指導していたトマは、やがてワンダにひれ伏し、ワンダの命ずるままになる。
登場人物は2人だけ。劇場の外へは一歩も出ない。典雅なソファーと机だけの舞台装置。舞台上には上演中のミュージカル版「駅馬車」の装置が残っていて、直立するサボテンが男根のように扱われたりするのがおかしい。
女優の名前も彼女が演ずる役名も同じワンダだし、実は女優ワンダの名はオーディション・リストに載っていない。とすると女優ワンダは実在しないのかもしれず、さらには映画全体が演出家トマ=ポランスキーの妄想なのかもしれない。
密室空間のなか、黒の背景に2人を浮かび上がらせる映像が素晴らしいけど(撮影はパヴェル・エデルマン)、なによりいいのはマチュー・アマルリックとエマニュエル・セニエ。2人なくして、この映画は成り立たなかった。ぴっちりした黒ずくめの衣装、鍵のついた首輪、ハイヒール、ブーツとサド・マゾの定番の小道具を身にまといながら過激なフェミニストの発言をしたり、下品な口をきくかと思うとブルデューやデリダの名前を口走るワンダ。演出家として女優を支配しているうちに逆に支配されることになり、やがては自分の女性性まで引き出されるトマ。複雑な大人の男と女を演じて見事。
ロマン・ポランスキーにはこういう世界にもっと耽溺してほしい。

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