« November 2014 | Main | January 2015 »

December 31, 2014

2014映画ベスト10

Photo
10films in 2014

今年もまたお楽しみとしてベスト10を選んでみました。順番はその時の気分なので、たいした意味はありません。でも上位の5本は心に突き刺さった映画でした。

1  収容病棟
2  プリズナーズ
3  罪の手ざわり
4  アクト・オブ・キリング
5  ジャージー・ボーイズ
6  0.5ミリ
7  新しき世界
8  鉄くず拾いの物語
9  ドラッグ・ウォー 毒戦
10 アメリカン・ハッスル

1 ドキュメンタリー映画をベスト1にしたのは初めてかも。前作の大飢餓時代を描いた劇映画『無言歌』もすごかったけど、精神障害者、家族に捨てられた者、政治犯を収容する病院の日々をひたすら見つめたこの映画から、何にもまして中国の今が見えてくる。

2 今年、いちばん面白かったミステリー。敬虔なキリスト教信者である市民が神に祈りながら犯罪を犯す。エヴァンジェリカルなど宗教右派が過激化しているアメリカの現実を背景に。『複製された男』もあったし、旧作『渦』『灼熱の魂』(傑作!)も見たし、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督を発見した年。

3 中国で実際に起こった犯罪を伝統的な武侠映画の形式を借りて物語に仕立てた。ジャ・ジャンクー監督のデビュー以来の映画は、全体として改革開放以後の中国の現代史になっている。『収容病棟』もこれも中国国内では上映禁止だが、映画の力を実感する。

4 インドネシアで市民を虐殺しながら今も国民的英雄である男に、虐殺を再現する映画をつくろうと持ちかけて撮影したドキュメンタリー。素材も、手法もとんでもなくあざといけれど、それだけに映画の毒をみなぎらせたグロテスクな怪作。

5 今年いちばん映画の快楽を堪能した作品。1960年代の聞きなれたヒット曲ということもあるけど、クリント・イーストウッドの職人芸に酔う。ミュージカル映画はあまり好きじゃないけど、これはミュージカルというよりイーストウッド流の音楽映画だった。

6 日本映画で選んだのはこの1本だけ。今年は邦画を数えるほどしか見ていないけど、迷ったのはこれと『紙の月』。『紙の月』は宮沢りえに尽きる。こちらは監督・安藤桃子と主演・安藤サクラの姉妹がすごい。地方都市と高齢者の日本の風景が素敵な映画に仕立てられた。

7 韓国マフィアと中国朝鮮族マフィアの跡目争いに潜入捜査官が絡む韓国版『仁義なき戦い』。東映ヤクザ映画世代なので(健さん、文太に合掌)、こういう映画につい肩入れしてしまう。韓国に根を張った中国朝鮮族という現実を背景に、3部作になるらしいので楽しみ。

8 ボスニア・ヘルツェゴビナの山村に住むロマの一家の物語。日常よくあるちょっとした不運・不幸を淡々と描く。実際に体験した家族が出演している。なんの技巧もないストレートな映画だけど、それだけに最後に一家に訪れる暖かい夜が心に染みる。

9 香港ノワールの巨匠ジョニー・トーが大陸で撮ったノワール。麻薬製造グループと、それを追う刑事。中国で撮るには「犯罪は割に合わない」という教訓を込めなければ許可されないが、トーはそれを最後の1分でクリアしつつノワールの華を咲かせた。

10 今年いちばん楽しめたコメディー。詐欺師とFBIの騙しあいにラブ・アフェア。クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、ジェニファー・ローレンスの魅力全開。『ウィンターズ・ボーン』の意思的な少女だったジェニファーがこんな色っぽい女になったとは!

ほかにもリストに入れたい映画が何本もありました。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『サード・パーソン』『アデル、ブルーは熱い色』『郊遊』『フランシス・ハ』『悪童日記』『インターステラー』『毛皮のヴィーナス』『ゴーン・ガール』などなど。『ゴーン・ガール』はまだ感想を書いてないので、来年回し。

今年もおつきあいいただいてありがとうございました。よいお年をお迎えください。

| | Comments (4) | TrackBack (21)

December 30, 2014

『毛皮のヴィーナス』 谷崎とポランスキー

Venusinfur
La Venus a la Fourrure(viewing film)

『毛皮のヴィーナス(原題:La Venus a la Fourrure)』を見て思い出したのは、なぜか谷崎潤一郎だった。

谷崎が大正期に書いた短編群にはミステリー形式を借りて殺人、覗き、女装、性愛、マゾヒズムといったテーマを扱った、隠微な美しさに満ちたものが多い。谷崎はその後『春琴抄』や『細雪』などで日本近代文学を代表する文豪という評価を受けるけれど、晩年には『鍵』『瘋癲老人日記』といった老人の性やサド・マゾ的な心理ゲームを描いて若いころの変態性に立ち戻った。作家として自分の性(さが)に忠実だったんだろう。

ロマン・ポランスキーも『水の中のナイフ』『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』といった初期の映画では、自らの無意識に潜む性的で野蛮で凶暴なものに目を据えていたように思う。それが男女の支配-被支配の心理ゲームや狂気やホラーの物語を生み出した。彼もまた『戦場のピアニスト』などで巨匠と呼ばれるけれど、『毛皮のヴィーナス』では80歳を過ぎたロマンが執着しつづけた世界に先祖返りしているように感ずる。その姿が恰好いい。

何に驚いたって、舞台演出家トマを演ずるマチュー・アマルリックが若いころのロマン・ポランスキーそっくりなのにびっくりした。くりっとした好奇心あふれる目や大きな鼻、唇の形もそっくりだし、長髪も30代のポランスキーに意図的に似せたとしか思えない。見る者は誰もがトマ=ロマン・ポランスキーだと思う。

この映画はザッヘル=マゾッホの同名の小説を基にした演劇の映画版。映画版の脚本は舞台劇の作者デヴィッド・アイブスとロマンが共同で書いている。マチューがロマンに似てることもあり、さらに主演女優のエマニュエル・セニエが現実にポランスキー夫人ということもあって、まるでロマン・ポランスキーに当て書きしたみたいに感じられる。

激しく雨が降り雷が鳴る日。パリの古い劇場では「毛皮のヴィーナス」のオーディションが終わったところだ。主演女優が見つからなかったと愚痴るトマの前に、ワンダ(エマニュエル・セニエ)という女優が現れる。芝居は、貴婦人の奴隷になることを契約した男と貴婦人とのサド・マゾ的な心理劇。貴婦人の役名もまたワンダという。舞台上でワンダとトマが台詞を読んでオーディションが始まる。はじめ傲慢で自信たっぷりのトマが、女優ワンダが演ずる貴婦人ワンダの命令に従う男を演ずるうち、現実と舞台の境目がなくなりトマのマゾヒストとしての無意識があぶりだされてくる……。

現実から舞台への移行が素晴らしい。それまで蓮っ葉な女優ワンダを演じていたエマニュエルが貴婦人ワンダの台詞をしゃべりだした瞬間にすっとエレガントな口調になり、ヨーロッパの貴族的な空気を身にまとう。最初、「もっと感情をこめて」とワンダを指導していたトマは、やがてワンダにひれ伏し、ワンダの命ずるままになる。
登場人物は2人だけ。劇場の外へは一歩も出ない。典雅なソファーと机だけの舞台装置。舞台上には上演中のミュージカル版「駅馬車」の装置が残っていて、直立するサボテンが男根のように扱われたりするのがおかしい。

女優の名前も彼女が演ずる役名も同じワンダだし、実は女優ワンダの名はオーディション・リストに載っていない。とすると女優ワンダは実在しないのかもしれず、さらには映画全体が演出家トマ=ポランスキーの妄想なのかもしれない。

密室空間のなか、黒の背景に2人を浮かび上がらせる映像が素晴らしいけど(撮影はパヴェル・エデルマン)、なによりいいのはマチュー・アマルリックとエマニュエル・セニエ。2人なくして、この映画は成り立たなかった。ぴっちりした黒ずくめの衣装、鍵のついた首輪、ハイヒール、ブーツとサド・マゾの定番の小道具を身にまといながら過激なフェミニストの発言をしたり、下品な口をきくかと思うとブルデューやデリダの名前を口走るワンダ。演出家として女優を支配しているうちに逆に支配されることになり、やがては自分の女性性まで引き出されるトマ。複雑な大人の男と女を演じて見事。

ロマン・ポランスキーにはこういう世界にもっと耽溺してほしい。


| | Comments (0) | TrackBack (3)

December 19, 2014

『幻の、京都』を読む

Maborosi_nisikawa
Nishikawa Teruko"Kyoto, illusory"(reading book)


「ブック・ナビ」に西川照子『幻の、京都』(光村推古書院)の感想をアップしました。

http://www.book-navi.com/


| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 14, 2014

『インターステラー』 壮大な見世物

Interstellar
Interstellar(viewing film)

『インターステラー(原題:Interstellar)』の面白さは、銀河系の外へ旅するSFと父と娘の家庭劇とを1枚のタペストリーのように緊密に織りあげたことだろう。登場人物のキャラクターをていねいに描写するだけでなく、宇宙空間の旅と父娘の愛情とが物語の根本のところで離れがたく結びついている。

脚本はクリストファー・ノーラン監督と弟の脚本家ジョナサン・ノーランが共同で書き、製作に理論物理学者のキップ・ソーンが加わっている。だから理論物理学による可能性に基づいてストーリーが構想され、ブラックホールやワームホール(光より早く時空を移動できる宇宙の抜け道)のイメージがつくられている。もちろん物語そのものは壮大なつくり話なんだけど。

未来の地球。砂漠化が進んだ地球は砂嵐が吹き荒れて農作物が次々に枯れ、人類は移住先を求めて銀河系外の惑星を探索している。トウモロコシ農場を営む元宇宙飛行士のクーパー(マシュー・マコノヒー)は、娘のマーフ(成人後はジェシカ・チャスティン)の部屋で起きた超常現象に導かれて国家秘密の基地にたどりつき、再び宇宙へ出かけることになる。宇宙船には探索計画のリーダー、ブランド博士(マイケル・ケイン)の娘アメリア(アン・ハサウェイ)も乗り組んでいる。彼らは土星近くのワームホールを通って銀河系の外に出、先行した探索機の行き先である3つの惑星を目指す……。

行かないでというマーフの願いをふりきって宇宙へ旅立ったクーパーは、地球へ戻るためブラックホールを抜けて立方体が連なる5次元空間に入り込む。このあたりの映像は見ていて興奮する。その空間は、マーフの部屋と背中合わせになっている。超常現象は宇宙から戻ったクーパーが娘に送った信号だった。マーフはそれを理解する。「愛だけが時間と空間を超える」というセリフがあって、言葉だけ取り出すと安っぽいドラマみたいだけど、圧倒的な映像と緊迫した物語の積み重ねの末に出てくると説得力がある。

見どころはクーパーたちが探索する3つの惑星の描写だ。去年の『ゼロ・グラヴィティ』は宇宙の無重力空間がどんなものかを疑似体験させてくれたけど、それとはまた別の楽しさがある。大海原がつづき巨大津波が襲う第1の惑星。氷に覆われた第2の惑星。映画はもともと見世物として出発したけど、見たこともない風景にはやはり興奮する。突っ込みどころはいくらもあるけど、見ているあいだ画面に釘づけされればよく、後から気づく矛盾は気にしないのはヒッチコックもそうだった。

そうそう。第2の惑星でいきなり大物俳優が出てきてびっくり。確かエンドロールにはクレジットされてなかったからカメオ出演なのか。

ノーラン監督は、この映画をつくるに当たってSF映画をはじめさまざまな作品を参考にしたと言っている。

誰にもすぐわかるのは『2001年 宇宙の旅』だろう。主人公が宇宙空間に旅立ち、異次元の地球に帰還するという基本構造はまったく同じだ。それだけでなく宇宙船がタイムワープするときの映像や、広大な宇宙空間にぽつんと浮かぶ小さな宇宙船、惑星の陰から太陽が顔を出して光が一直線に広がるショットなど、『2001年』を思い起こさせるものがいくつもある。石柱のようにそそりたつモノリスも、この映画の人工知能ロボットTARSの形に生かされている。

TARSに関しては『スターウォーズ』のR2D2も思い出した。特に「ユーモア度」や「本気度」の設定とか、クーパーとTARSが交わすユーモラスな会話について。宇宙空間に浮かぶ宇宙船の威容は『スターウォーズ』第1作の最初のショットで度肝をぬかれたけど、もちろんこれも参考にされているだろう。

監督はSFの古典『メトロポリス』や『ブレードランナー』の名前も挙げている。これは具体的にどこを参考にしたというより、作品に流れる気配やテーマに関してだろう。またクーパーの造形について『ライトスタッフ』に影響を受けたと言っているが、そういえばマシュー・マコノヒーのクーパーは『ライトスタッフ』のサム・シェパードに似てなくもない。クーパーの農場やトウモロコシ畑、野球場など地球のシーンは『フィールド・オブ・ドリームス』や『冷血』といった中西部の農業地帯を舞台にした映画を思い出した。

この映画はSFなのにCGが最小限でしか使われていない。俳優がグリーン・スクリーンの前で演技し、背後にCG画面を合成させる手法はまったく使われていないそうだ。そのために何機もの宇宙船をセットでつくり、船の内部も外部もセットで撮影した。また銀河系外の惑星シーンはアイスランドなどにロケしている。

ノーラン監督はデジタル撮影をせずフィルムにこだわっていることでも有名だ。この映画もIMAXと35ミリのフィルムで撮影している。フィルムにこだわり、CGに頼らない。この映画、最初はスピルバーグが監督することになっていた(wikipedia)。そうしたらずいぶん違う映画になっていたろう。ノーランの映画への愛を感ずるなあ。

(おまけ)このメイキング映像が面白い。

http://eiga.com/news/20141115/12/

| | Comments (0) | TrackBack (14)

December 08, 2014

『デビルズ・ノット』 町の空気

Devils_knot
Devil's Knot(viewing film)

『デビルズ・ノット(原題:Devil's Knot)』は、1993年にアーカンソー州の小さな町ウェスト・メンフィスで起きた殺人事件に基づいてつくられている。原作は、マラ・リヴェリットの同名のノンフィクション。それ以外にも、この事件を追った『パラダイス・ロスト』というドキュメンタリー映画があり、これがTV放映されたことから冤罪事件ではないかと全米で激しい議論が巻き起こった。

ウェスト・メンフィスの町外れにある森の「悪魔の巣窟」と呼ばれる場所で、3人の小学生の死体が発見された。3人は全裸で手足を縛られ、暴行されていた。警察は確たる証拠のないままダミアン(ジェームズ・ハムリック)ら3人を逮捕する。ダミアンたちはいわゆるGOTH少年で、黒ずくめの服を着、へヴィーメタルの音楽を聞き、魔術に興味を持っていた。小さな田舎町では異端者で、浮いた存在だった。

捜査のなかで、殺された小学生の知り合いクリス(デイン・ディーン)が嘘発見器にかけられ黒と出たり、犯行時に血だらけの黒人が目撃されたり、何人かの不審者がいたが警察ははじめからダミアンらGOTH少年を犯人と決めつけていた。裁判になっても、裁判長や陪審員が町をおおうそんな空気に侵されている。

疑問を抱いた調査員ロン(コリン・ファース)は、少年たちの弁護士と協力して調査を始める。やがて殺されたスティービーの母パム(リース・ウィザースプーン)も少年たちの犯行に疑問を持っていることを知る。ある日、パムは思わぬ人間がスティービーのナイフを隠し持っていたことをロンに告げる……。

アトム・エゴヤン監督は、取り調べから裁判にいたる過程を丹念に、でも淡々と描いている。この淡々とした描写には理由がある。この事件はいまだ未解決で、犯人が特定されていないからだ。事件から10年以上たって弁護側の要求で現場に残された体液のDNA鑑定が行われたところ、一人の被害少年の継父のものと一致した。それを受けて検察と弁護側が取引し、GOTH少年たちは釈放されたが、警察は捜査をしないので犯人はいまだ不明のままなのだ(町山智浩『USAカニバケツ』による)。

これが純然たるフィクションならば、ミステリーの常道として主人公のロンが犯人をつきとめることがテーマになる。ロンがパムと協力して犯人を捜し出す、というのがクライマックスになるだろう。でも現実に真犯人が捕まっていないのだから、この映画ではそれができない。だからコリン・ファースもリース・ウィザースプーンも、主役といってもあまり出番がない。

そのかわり、小さな共同体が異端者を爪はじきし、悪魔崇拝者として血祭りにあげていくるさまを丹念に描きだす。閉じられた共同体を取り囲む空気と、意識せず魔女狩りに加担してゆく住民たちが真の主役かもしれない。殺された少年たちが渡った水道橋の映像が繰り返し写しだされ、じわっと締めつけられるような気配が、よく出ていた。

町山智浩はドキュメンタリーの『パラダイス・ロスト』を見て、この映画の背景をこんなふうに書いている。「町の空撮ショットがあるが、なんとトレイラー・ハウス以外に建物がない。事件の被害者も加害者もみんなトレイラー・ハウスの住人。一世帯の年収二百万以下のホワイト・トラッシュ(貧乏白人)。……貧しく、学歴も教養もなく、キリスト教を盲目的に信じ、悪魔を本気で恐れ、ヘヴィメタルやパンクを殺したいほど憎む」(前掲書)。このあたりはプロテスタント系福音派が多数を占める「バイルブ・ベルト」だが、ダミアンは少数派のカソリックということもあった。

ミズーリ州ファーガソンやニューヨークで丸腰のアフリカ系住民が白人警官に殺される事件がつづいて、人種差別だと抗議が巻き起こっている。「ウェスト・メンフィス3」と呼ばれるこの映画の3人の少年も、アフリカ系ではないけれど根っこにあるものは同じだろう。彼らは白人だけれど、悪魔の子というレッテルを貼られた。だが「デビルズ・ノット(knotは「結び目」であり「集団」でもある)」とは3人を指すのか、3人を生贄にしようとした住民を指すのか、どっちなんだろう。

これはアメリカだけの話じゃない。いろんな条件が違うとはいえ、差別と偏見は同じ。ヘイト・スピーチが公然と語られるこの国の問題でもある。

| | Comments (0) | TrackBack (5)

December 05, 2014

山手線を半周して

1412051w
a view of Shinshiba Canal(新芝運河・百代橋から)

今日は午後から写真展めぐり。山手線を新宿から新橋まで半周して6つの写真展と欲張る。都心に出るのは週1、2回だから、つい無理をしてしまう。右膝の痛みと相談しながら。

新宿 金村修「Ansel Adams Stardust」
    林典子「キルギスの誘拐結婚」
渋谷 吉村朗「闇の光」
品川 佐藤信太郎「The spirit of the place」
田町 佐藤信太郎「夜光」
新橋 石川竜一「絶景のポリフォニー」

1412052w

夜は週刊誌時代の先輩、竹内謙さんを偲ぶ会(内幸町・プレスセンター)。

竹内さんは上司のひとりだったが、彼は政治担当の硬派、こちらは文化ものの軟派だったので一緒に仕事したことはほとんどない。でも、校了した後は毎週のように市ヶ谷の印刷所近くにある居酒屋で飲んだ。豪快な笑いが記憶に残る。竹内さんはその後、社を辞めて鎌倉市長になり、環境自治体を標榜して市民参加の地方自治を推し進めた。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

« November 2014 | Main | January 2015 »