『シャトーブリアンからの手紙』 神話化を超えて
フォルカー・シューレンドルフ監督の映画を見るのは『ブリキの太鼓』以来だから33年ぶりのことになる。
監督は70代半ばになるけれど、『シャトーブリアンからの手紙(原題:La Mer à l'aube)』を見るかぎり、その力はまったく衰えていない。『ブリキの太鼓』はふたつの世界大戦間のドイツを少年の目を通して描いたドラマチックな映画だった。この新作 もまた第二次大戦中のある出来事がテーマになっている。描き方によっていくらでもドラマチックになりうる素材だけれど、そうした要素をぎりぎりまで削ぎおとしたクールなタッチで、シューレンドルフ監督の映画に対する姿勢がいよいよ研ぎ澄まされていると感じた。
内容も見事だけど、この映画はつくられたことに、またどのようにつくられたかに大きな意味がある。
1941年、ドイツ占領下のフランスでナチス将校が共産党員によって暗殺された。これに怒ったヒトラーは、フランス人150人の銃殺を命ずる。シャトーブリアンの収容所に捕えられた政治犯から処刑される者が選ばれたが、なかには17歳のギィ・モケ(レオ=ポール・サルマン)もいた。彼らに許されたのは最後に家族や愛する者に宛て手紙を書くことだけだった。
戦後、ギィ・モケはナチスに対する抵抗運動の象徴となり、パリで通りの名前につけられ、地下鉄駅の名称にもなっている。フランスでは誰でも知っている有名な歴史的事件であり、少年なのだ。
『シャトーブリアンからの手紙』は独仏合作、つまり事件の加害者と被害者が共同で製作に当たっている。脚本と演出は加害者側であるドイツのシューレンドルフ。彼は、事件当時パリのドイツ司令部付の大尉でヒトラーに批判的だった作家エルンスト・ユンガーの記録や、この事件を取り上げたハインリヒ・ベルの小説、銃殺されたフランス人政治犯の手紙などに基づいて脚本を書いた。ヒトラーの命を受けたドイツ人将校たちのとまどいにも、占領に協力するフランス人行政官たちの苦悩にも目配りがきいている。
ところでこの事件は、何年か前にもフランスで政治問題になったことがある。サルコジ前大統領が、全国の高校でギィ・モケの家族に宛てた手紙(映画のなかでも読まれるが、感動的なものだ)を朗読するよう指示を出したからだ。サルコジはギィが共産党系の政治犯だったという背景を無視して、ギィを「愛国者」としてのみ持ちあげようとした。フランス国営テレビ局も、その線にそったプロモーション・ビデオをつくって放映したという。
これに対して教師や歴史学者、当の高校生からも「歴史的背景を無視し手紙だけを朗読するのは、感情によってナショナリズムを喚起しようとする歴史の政治利用だ」という反対運動やデモが起こった。結果、指示通り朗読した高校、背景を説明するプリントを付して朗読した高校、まったく朗読しなかった高校と、さまざまな対応があったという(「保坂展人のどこどこ日記」)。
ギィ・モケは戦後、共産党によって「殉教者」として祀りあげられ、その後サルコジによって「愛国者」として祀りあげられるという二重の神話化をほどこされた存在としてある。シューレンドルフのドキュメンタリーのような淡々とした描写は、いわばその二重の神話化からギィ・モケの実像をすくいあげようとする姿勢からきているのだろう。彼が担ったのは加害者側の視点だけでなく、神話から自由な第3の眼でもあったわけだ。そこに独仏合作の意味があるような気がする。
ギィ・モケをはじめとする政治犯たちは、収容所から連れ出され銃殺される。その死について、監督はこんなふうに言っている。「死は行政の行為として訪れるにすぎなかった。この処刑にかかわるすべての人間は、誰一人最終的な責任を負うことのない、純粋な行政行為とすることに成功したのだ」(映画のHPより)。
占領軍のドイツ人将校たちは、1人殺された報復に150人ものフランス人を殺すのはひどすぎると感じながらもヒトラーの命令に逆らわなかった。フランス人行政官たちは、「危険分子ではなく善良な市民を殺したいのか」と脅されて、収容所の政治犯から殺される者のリストを作成することでナチスに協力した。「誰一人責任を負わない」「純粋な行政行為」とはそういうことだ。
こうした描き方は、ナチスの命令と法に従ってユダヤ人を大量虐殺したアイヒマンを「凡庸な悪」と論じたハンナ・アレントの視点に重なっているだろう。そしてそうした視点を持つことが、「凡庸な悪」がいよいよはびこる世界に向けてこの映画をつくることの今日的意味でもあるだろう。
映画のなかで、大西洋の凪いだ海の映像が何度か挿入される(原題は「夜明けの海」)。その静けさが印象的だった。
この映画がフランスとドイツの合作映画としてつくられたことは、両国の戦争にまつわる歴史が今も一皮むけば血の出る生々しい問題であることの裏返しだろう。だからこそ、双方が和解に向けて事実を見つめ、そこから共有できるものを探す姿勢がこの映画には貫かれている。日本と中国、あるいは日本と韓国の間では、いまだに戦争の記憶をめぐって互いに事実をねじまげナショナリズムに利用する争いが繰り返されている。こんな映画がつくられるのはいつのことだろう。
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