恭仁宮跡から海住山寺へ

a trip to Kaijusenji Temple, Kyoto
ボランティアの用事で大阪へ行った翌日、体があいた。朝から冷たい雨だったけど、木津川の海住山寺(かいじゅうせんじ)へ行くことにした。京都の非公開文化財特別公開の最終日。五重塔内陣と二体の十一面観音を拝観することができる。
天王寺から大和路快速で加茂駅へ。駅から木津川を渡りしばらく行った田園のなかに恭仁(くに)宮跡がある。
天平13年、聖武天皇は平城京からこの恭仁宮に都を移した。その前年、九州で藤原広嗣の乱が起こっていて、遷都はそのことと関係しているらしい。恭仁宮のある山城国相良郡は藤原氏と対立した実力者・橘諸兄の根拠地だった。でも翌年、都が完成しないうちに聖武天皇はまたしても近江紫香楽宮に遷都してしまう。天皇はさらに遷都を繰り返し、難波宮をへて天平17年、また平城京へ戻る。このあたふたぶりは、仏教に深く帰依したこの天皇が心理的に恐慌を来していたような印象を受ける。
放棄された宮跡には山城国分寺が建てられた。この礎石は国分寺七重塔のもの。
すぐ近くの恭仁宮大極殿跡。
恭仁宮跡から海住山寺へ。田園風景のなかを2キロほど歩く。若いころ大和路を歩いたときのような、のどかな風景。
寺は海住山の中腹にあり、低い雲に霞んでいる。
途中から山道になり、急なつづら折りの登り坂がつづく。イノシシが出るのだろうか。こんな看板が。
息が上がる。雨に濡れ、古傷の膝も心配になってきた。寺へ行った帰りのタクシーが降りてきたので、へたれて手を挙げると、「もうすぐだから」と乗車拒否されてしまった。でもタクシーの運転手氏と地元の人の「もうすぐ」は信用できないんだなあ。
室町時代の道しるべ、町石(ちょういし)。
やっと山門が見えてきた。
海住山寺は恭仁宮がつくられる以前の天平7年、聖武天皇による毘盧遮那仏(東大寺)造営の無事を祈って創建されたと伝えられる。十一面観音を本尊とし、当時は藤尾山観音寺と呼ばれていた。観音寺は12世紀に焼失し、その後、興福寺の僧・貞慶によって再興され海住山寺と名づけられた。
国宝の五重塔。今日は初重(1階)の内部を見ることができる。初重の四方に扉があり、内陣に小さな仏舎利塔と四天王像が配置されている。四天王像は彩色がよく残っている。
どの五重塔も中心には心柱と呼ばれる柱があり、ふつう土台からてっぺんの装飾、水煙までを貫いている。ところが海住山寺の五重塔の心柱は初重の天井の上に置かれている。柱が土台に置かれていないわけだ。そのため初重に広い空間を取ることができ、仏舎利塔と四天王像が配置されている。こういうスタイルは海住山寺が初めてだという。
本堂。特別拝観で本尊の十一面観音と、奥の院の本尊である十一面観音(ふだんは奈良国立博物館で展示)、天平時代の二体の十一面観音を見ることができる。
奥の院の十一面観音をあしらった木津川市のパンフレット。
本尊の十一面観音は大きい。木造で彩色が落ち、木の肌目が見える。どちらかといえば素朴で平面的。仏というより、リアルに彫られた人の顔といった感じ。一方、奥の院本尊の十一面観音は像高46センチと小さい。小さいけれど、なんとも精巧。いかにも観音といった豊満な顔と肉感的な身体。裳裾の流れも優美で、見惚れてしまう。二体とも同じ天平仏ながら、ずいぶん印象が違う。
この10年ほど、機会があれば湖北、山城、大和の十一面観音を訪れるようにしている。ところで僕たちが十一面観音に惹かれるのはなぜなんだろう。
観音は仏教の仏たちのなかでもいちばんの信仰の対象とされ、中国より東の地域では観音像は女性として表象されることが多い。その理由ははっきりしないが、カトリック世界のマリア信仰みたいなものだろうか。マリア信仰はキリスト教以前の大地母神信仰がキリスト教に入ったものとされるけど、観音信仰も似たようなものなのか。観音のなかでも十一面観音は左手に蓮の水瓶を持つ立像が多いから、立ち姿や衣装で女性性がいよいよ強調される。
奥の院の十一面観音もそうで、同じ山城にある観音寺の十一面観音と並んで、今まで見たなかでいちばん強く女性性を感じた。しかも50センチ足らずとミニチュアみたいなサイズなので、等身大やもっと大きな仏像を見るのとはまた違う親密な空気が漂っている。
外へ出たら体がすっかり冷えている。休憩室にあった自動販売機の缶コーヒーで温まる。特別拝観最終日なので、雨傘をさした人たちがぽつぽつと訪れる。下りは歩く気力なく、「もうすぐだから」と言った運転手氏がくれたカードを見て車を呼ぶことにした。
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