南相馬の旅
用事があって南相馬市へ行ってきた。上野からの常磐線が東日本大震災で寸断されたままなので、南相馬へは福島駅からバスで川俣町、飯館村を通ってゆく。
南相馬市は一部が福島第一原発20キロ圏にかかり、また浪江町に接した山間部は放射線量が高いので、市南部と西部に居住制限区域と避難指示解除準備区域がある。もともと南相馬は旧原町市と鹿島町、小高(おだか)町が合併してできた市で、「解除準備区域」になっているのはいちばん南の小高区。ここは昼間は町へ入れるが、夜、自宅に泊まることはできない。
ほんの短い時間、小高区を歩いてみた。小高駅前から延びるメーンストリートの商店街。昼間の出入り自由といっても時折車が通るほか、歩く人の姿は見当たらない。
駅の脇にある広場。駅は震災以来、まったく使われていない。現在このあたりの放射線量は、近くの小高区役所で0.097マイクロシーベルト/時(9月29日)。原町区や鹿島区で住民がふつうに暮らしている市街地とほとんど変わらない。
駅そばのケーキ屋さんに「必ず復活!!」と垂れ幕。
震災で傷んだままの店も多い。郵便局と信用金庫、それに金物店が一軒営業しているらしいが(建物の修理に必要だからだろう)、今日は日曜だからかどこも閉じている。
南相馬では今も1万3000人近くが避難生活を強いられている。「準備区域」の避難指示が解除されるのは2016年4月の予定。でも除染作業の進展によっては、さらに遅れるかもしれない。
医院の入口にセイタカアワダチソウ。このあたり、首都圏近郊ではあまり見かけなくなったこの草が、かつての勢いはないにせよススキと覇を競っている。
物音ひとつしない商店街を歩いていると、大音量のサザンが聞こえてきた。見ると魚屋の店舗を塗装しているお兄さんがいる。「あんまり静かだから大きな音を出さないと寂しくって」とスイッチを切った。ここの魚屋の一家は避難して、市内の鹿島区に仮店を出しているそうだ。再来年の避難指示解除に備えて店を修理している。塗装していたお兄さんも小高の人で、仮設住宅に住みながら仕事している。
「みんな揃って戻ればいいけど、そうでないと町としてやってけるか心配だなあ。3年たって、いろんな人がいるからね。いずれ隣の浪江町で戻れる見通しが立って、小高が復興の前線基地になるといいんだけどね。そう考えて、駅前の旅館や店で修復工事にかかってるところもあるね」
結局、町で出会ったのは塗装のお兄さんひとりだけだった。
広場に置かれたベンチには小高の子供たちの手形。NGOを立ち上げてコミュニティの再生をはかり、かつて盛んだった養蚕、織物を復活させようといった試みも住民の手で行われている。
メーンストリートを離れて海に向かった。駅前周辺は避難指示解除に向けて少しずつ動きが出てきている。でも津波に襲われた海岸沿いは長いこと立ち入ることもできなかったから、時間が止まったような風景が残されている。
南相馬市は地震と津波で死者977人、行方不明111人(2014年3年現在)の大きな被害を出した。同じような被害が出た岩手や宮城のように大きく伝えられなかったのは、原発事故のため直後から誰も被害区域に入れなかったせいもあるだろう。
一面の水田だったに違いないが、水がたまり、雑草が生えたまま。
防波堤のすぐ近くで土台だけ残った家に合掌。
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