『ジャージー・ボーイズ』 職人技に酔う
ブロードウェー・ミュージカルを映画化した『ジャージー・ボーイズ(原題:Jersey Boys)』を見て、これはミュージカル映画じゃないな、と思った。しいて言うなら音楽映画。比べるなら『マンマ・ミーア!』や『シカゴ』やじゃなくクリント・イーストウッドがチャーリー・パーカーを描いた『バード』だろう。
ミュージカルは歌とダンスとドラマがひとつの舞台に統合されたもの。だからドラマの台詞と歌が同居していて、台詞をしゃべっていた役者が歌へ移り、歌が終わればまた台詞に戻る。古い映画だけど『ウエストサイド物語』ならリチャード・ベイマーとナタリー・ウッドの恋人同士が愛を語りあい、そこから「トゥナイト」が始まる。その移行がどんなに自然にあろうと、現実にはそういうことはありえないわけで、見る者はこれがミュージカルの約束事だとわかっているから違和感を持たない。
『ジャージー・ボーイズ』は、僕の記憶では(一度見ただけなので確信はないんだけど)、そういう約束事としての台詞から歌への移行がほとんどなかった。フォー・シーズンズの音楽が流れるのは、彼らがクラブやスタジオで演奏するシーンか、バックグラウンド・ミュージック(映画音楽)として。初めから終わりまでフォー・シーズンズの音楽が流れていながら、ミュージカルを見ているという感触がない。
だからこれは、イーストウッドがミュージカルを映画化したというより、ミュージカルを素材にイーストウッドがいつものイーストウッド流映画をつくったというほうが正確だと思う。
僕は舞台を見ていないので、舞台と映画がどう違うのかよくわからない。wikipediaによると、舞台はフォー・シーズンズという名前に引っかけて、春夏秋冬の4パートがメンバー4人それぞれの視点で語られるらしい。その4人それぞれの視点が、形を変えて映画でも取り込まれている(映画の脚本は舞台の脚本家2人に、イーストウッド映画の常連、ティム・ムーアらが加わっている)。
冒頭、グループ結成のリーダーだったトミー(ヴィンセント・ピアッツァ)が路上を歩きながらいきなりカメラを見て、リード・ボーカルのフランキー(ジョン・ロイド・ヤング。舞台と同じ)を見出したのは俺だ、みたいなことをしゃべりだす。映画の最初の台詞がカメラを見ながらなんて驚きだ。その後も、フランキーやボブ(エリック・バーゲン)、ニック(マイケル・ロメンダ)のメンバー4人が時折カメラを見てしゃべり、このとき俺はこう思ってたみたいなことを語る。ふつうならナレーションで処理するところを、舞台の構成を引き継いでいるわけだ。
映画のなかで役者がカメラを見るという手法は、ときどき使われる。僕がこの手を最初に見たのは黒沢明の『素晴らしき日曜日』だった。女優がカメラ(観客)に向かって、「皆さん、拍手してください」と呼びかける。僕が1960年代に見たときは拍手は起こらず、なんだか身のおきどころに困るような空気が漂った。もっとも公開時(1947年)は戦争直後の熱気のなかにあったから、映画館は拍手に包まれたのだろうか。
そんなふうに役者がカメラを見ることは、映画にのめりこみ登場人物と一体化している観客に、カメラとスクリーンを意識させ、いま自分は映画を見ているんだと感じさせる異化効果をもっている。でも『ジャージー・ボーイズ』のカメラ目線はそんな不自然さを少しも感じさせない。
それ以上に映画が映画である強みを発揮しているのは1960年代のニュージャージーを再現していることだろう。ニュージャージーはハドソン川をはさんでニューヨークの向かいにありながら、どこか垢抜けないところもある地域といったイメージがある。フランキーの実家である床屋、地元のクラブ、劇場、ダイナー、アパート、公園、車、ファッションまで。ちなみに彼らは国際空港のあるニューアークの北にある町、ヴェルヴィルの出身。映画にも写真や名前が出てくるフランク・シナトラはすぐ近くのホーボーケン、ブルース・スプリングスティーンはロングブランチの出身。ブルースの曲と歌詞はフォー・シーズンズ以上に生粋の「ジャージー・ボーイ」だね。
映画に常に流れているフォーシーズンズの数々のヒット曲が懐かしい。僕は特に彼らのファンではなかったけど、「シェリー」やフランキーがソロで歌った「君の瞳に恋してる」はテレビやラジオ、町にあふれていていやでも耳に入った。ベトナム戦争以前の60年代風景とファッションと音楽。アメリカ人にとっても、海の彼方でテレビや映画や雑誌を通してそれを受け入れていた僕らにも心地よい。
もっとも、4人はスターになったグループにつきものの金をめぐる内輪もめで解散してしまう。グループが稼いだ大金を使い込んだリーダーのトミーが追放され、リード・ボーカルのフランキーと作詞・作曲担当のボブが残る。音楽映画であるとともに、4人の若者たちの友情と裏切りのどっしりした物語になっているところが、これがミュージカルでなく音楽映画だと感ずるもうひとつの理由だ。
フランキーは追放したトミーの莫大な借金を自分が働いて返すと言う。そのときフランキーが言う、それが契約書でなく握手で物事を決める「ジャージー流契約(Jersey contract)だ」という台詞に、このドラマのエッセンスが凝縮されていると感じた。
アマチュア時代から解散まで彼らに目をかける町のギャング、ジップ(クリストファー・ウォーケン)が4人を優しく見つめ、それが第5の視点として映画の重しになっている。あれやこれや、カーテンコールで全員登場のエンドロールを含めて、クリント・イーストウッドの職人技の冴えを堪能した。老いてなおこんな映画をつくれるイーストウッドには次を次をと期待してしまう。
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Comments
何かにつけ、契約だコンプライアンスだとやかましい現在からしたら、
この握手で全てオーライという時代の大らかさが懐かしい。
そんな絆も清々しかったです。
Posted by: rose_chocolat | October 24, 2014 08:23 AM
それがニューヨーカーと違うニュージャージーの人間関係の濃さだよということでしょうね。
このエピソードがなかったら、どんなふうに着地させるのかと思ってしましました。
Posted by: 雄 | October 24, 2014 01:02 PM