『郊遊<ピクニック>』 スタイルの純化
1本の映画はどのくらいのカット数でできてるんだろう。はっきりした資料はないけど、映画館でカット数を数える入江悠という人のブログから孫引きすると、「1カット6~7秒が世界の平均」だそうだ。とすると、100分の映画なら860~1000カットということになる。
もっとも5、6台のカメラを同時に回す近ごろのハリウッドの長尺ものでは2000~3000カットを超すことも珍しくなく、一方、1台のカメラで撮る邦画なら600~700カットくらいしかないという話もある。ところが台湾映画『郊遊<ピクニック>(原題:郊遊)』のカット数は数えたわけじゃないけど、138分でたぶん200カット以内、ひょっとしたら100カットそこそこかもしれない。徹底した長回し。1シーン1カットや据えっぱなしのカメラといった手法も多用される。ラストショット、主人公たち2人を捉えたカットは10分を超す。
亡くなったテオ・アンゲロプロスやアッバス・キアロスタミ、ホウ・シャオシエンと長回しを好む監督は多いけれど、ここまで徹底した監督、作品はないのではないか。『郊遊』は長回しスタイルの極北といえる映画かもしれない。ツァイ・ミンリャン監督は『郊遊』を最後に商業的な映画製作システムのなかでの作品づくりから引退するという。ここまで来てしまったら、そうだろうなと思う。
細かいカットを重ね、カットとカットをつないで「意味」をつくりだすモンタージュは劇映画の基本だけど、長回しはその対極にある。モンタージュはエイゼンシュテインによって理論が確立されて以来、ハリウッドはじめ世界中の映画でさまざまに開発され発展し、やがて複雑な物語を語れるようになった。でもそれだけに、モンタージュの技巧をこらした映画は時につくりものじみて見える(実際つくりものなんだけど)。
それに対して、長回しはつくりものであるにもかかわらずドキュメンタリーを見ているような自然な感じをもつ。長回しを見ている観客は、自身がカメラの目そのものになって対象を凝視している錯覚を起こす。カメラの時間と人間の時間が同調し、フィクションとして演じられている時間と、スクリーンを見ている観客自身の時間がひとつのものになる。それによって得られるのは、自分自身がその場にいてその光景を目撃しているといった感覚、「場のリアリティ」だろう。
一方、長回しによって犠牲にされる最大のものは物語だ。言葉や音楽と映像のモンタージュを組み合わせることで、映画は複雑な物語を語れるようになった。その映画の基本的な要素のひとつを捨てることで、長回しは否応なく映画の物語性を稀薄にする。『郊遊』も例外ではない。映画に起承転結はなく、さらに意図的に物語があいまいにされてもいる。
台北の町の片隅で暮らすホームレスのシャオカン(リー・カンション)と小学生ほどの息子と娘。彼らは建設途中で放棄されたビルのような建物を住まいにしている。床に敷かれたマットレスで三人で寝る。公衆トイレで顔を洗い、体をふく。コンビニで買った弁当を食べる。子供たちがスーパーマーケットで試食したり遊んだりしている。海辺や森を歩く。シャオカンは看板を持って街頭に立ち、ささやかな金を稼いでいる。そんなシーンが始めも終わりもなくつづいてゆく。
女性が三人出てくる。一人は、子供たちが寝ているかたわらで髪を梳いている。一人は、スーパーで働き子供に賞味期限切れの食べ物を与えたりして面倒を見る。一人は、シャオカンとふたりで空きビルの一室で佇み、涙を流す。髪をくしけずる女は行きずりの女、スーパーの女は保護者、涙を流す女はシャオカンが愛した女とも見えるが、しかとわからない。あるいは三人で一人の女なのか。
出来事らしい出来事は一度だけ。嵐の夜、シャオカンは子供たちを水辺に連れてゆきボートに乗せようとする。彼らを捨てようとするのか。それもきちんとは説明されない。そこへスーパーの女が現れて子供たちを連れ出し、自分の部屋へ連れてゆく。シャオカンも同じ部屋でソファーに寝ている。家族団らんのようにも見えるが、他人同士がいっとき身を寄せているといったふうにも見える。
そして最後の長回しがやってくる。放棄されたビルの一室にシャオカンと女が壁に向かって立ち尽くしている。壁には石ころだらけの河原の壁画が描かれている。女は涙を流し、放尿し、去ってゆく。シャオカンも絵の前に佇み、やがて去ってゆく。その間10分以上、カメラはそれを黙って見つめている。
ツァイ・ミンリャンの映画で、リー・カンションは一貫してシャオカンという名の主人公を演じてきた。『愛情万歳』や『河』で少年だったシャオカンは、いま中年男になり息子と娘を連れている。シャオカンはどの映画でも家族にも仲間にも、社会のどこにも居場所を見つけられない存在として描かれてきた。子供連れになった『郊遊』もそうだ。空き部屋の一室で、シャオカンは娘の顔に見立てて目鼻を書いたキャベツをまるごとむさぼり食う。漂いつづける孤独な男の肖像。
ツァイ監督はそんなシャオカンを、モンタージュを捨て物語性を捨てスタイルを純化しながら、闇や蛍光灯の灯りや雨のなかにシャオカンを立たせる映像の力だけで描いてきた。それは一方では映画のもつ猥雑さや見世物性、豊かな物語を切り捨てる道でもあったから、ツァイ監督が商業映画から撤退するのは当然と言えば当然かもしれない。シャオカンは紛れもなくツァイ・ミンリャン監督の自画像だった。
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