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September 24, 2014

『フランシス・ハ』 モノクロームのNY

Frances_ha
Frances Ha(viewing film)

モダン・ダンサー目指して修業中のフランシス(グレタ・ガーウィグ)がルームメイトのソフィー(ミッキー・サムナー)とニューヨークの地下鉄でおしゃべりしてる。フランシスが「これ、デカルブに停まる?」と聞く。あれ、と思ってしまった。ブルックリンのデカルブ・アヴェニュー駅は僕がニューヨークにいたとき、1年間毎日のように乗り降りした駅だったから。マンハッタンとブルックリンを結ぶマンハッタン橋から歩いて10分ほどのところにある。取りたてて特徴のある駅ではまったくないけど。

フランシスとソフィーはFラインに乗ってるらしいが、実はFトレインはデカルブに停まらない。マンハッタンからイーストリバーを越えブルックリンのダウンタウンに入ったこのあたり、10ライン以上の地下鉄が錯綜しているのだ。デカルブが最寄り駅の2人は、ふだん使ってないFラインでマンハッタンから帰ってきたんだろう。

彼女たちは、ヴァンダーヴィルト・アヴェニューに部屋を借りている。デカルブ駅からフォート・グリーン公園の脇を歩いて10分くらい。100年以上前につくられた褐色砂岩のタウンハウスが立ち並ぶ閑静な住宅街だ。窓の外には街路樹の緑。フランシスは「シェアする家賃は950ドル」とか言ってたから、2人で1フロア借りてるんだろう。マンハッタンの家賃は高いので、彼女たちみたいにブルックリンのタウンハウスをシェアしている若者が実際にたくさんいる。

『フランシス・ハ(原題:Frances Ha)』はモノクロームの映像で、そんなふうにニューヨークのディテールが生き生きと映し出されるのが素敵だ。

フランシスはモダンダンス・スタジオの研修生なのだが芽が出ず、正式の団員になれそうにない。恋人とは別れたばかり。一方、「私たち、セックスのないレズビアンみたい」と言い合う親友のソフィーは、出版界での成功を目指している。そのソフィーがルームシェアを止めると言い出す。親友同士に溝ができる。ソフィーは恋人の仕事に従って東京へ行ってしまう。ソフィーから電話があると、つい見栄を張って団員になったと小さな嘘をつく。

フランシスはイケメンの男の子2人とルームシェアするが、色気なし。男の子が彼女のベッドに寝転んでいてもお構いなしだし、「洋服が散らかってる」なんて言われてしまう。週末にパリへ旅行すれば友達は不在で連絡つかず。母校のカレッジで学生がするようなバイトで金をかせぐ。なにをしてもうまくいかず、中途半端。

よくある青春映画といえばそれまでだけど、いつの時代にも青春映画はつくられる。この映画を見て「フランシスは私」と感ずる女の子がたくさんいるだろう。いちばん印象的なのは、フランシスがニューヨークの街角を走る姿。歩き方を「のしのし歩き」とからかわれるように、走るフランシスも手が長すぎてまったく恰好よくない。でもデビッド・ボウイの音楽にあわせ、デートの途中にATMを探して走りまわるフランシスから、「生きてる!」という躍動が伝わってくる。

モノクロームのニューヨークといえば思い出すのはウッディ・アレンの『マンハッタン』かジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』だ。モノクロームのニューヨークは、色がないというだけで時代感覚が消える。しかも『フランシス・ハ』は新しいニューヨークをまったく映さないから、今の映画でありながらウッディやジムと同じ70年代80年代映画のような懐かしさもある。

ノア・バームバック監督は『イカとクジラ』がビターな家族映画でとてもよかった。あの映画もブルックリンが舞台。調べたら監督はやっぱりブルックリン育ちだった。ブルックリン育ちには、マンハッタンのニューヨーカーとは一味ちがうブルックリン愛がある。

不思議なタイトル『フランシス・ハ』が何かは最後に明らかになる。それは見てのお楽しみ。そんな「途中の感覚」が映画全体にみなぎっていた。主演のグレタ・ガーウィグが監督と一緒に脚本にも参加している。

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September 21, 2014

『郊遊<ピクニック>』 スタイルの純化

Photo
Stray Dogs(viewing film)

1本の映画はどのくらいのカット数でできてるんだろう。はっきりした資料はないけど、映画館でカット数を数える入江悠という人のブログから孫引きすると、「1カット6~7秒が世界の平均」だそうだ。とすると、100分の映画なら860~1000カットということになる。

もっとも5、6台のカメラを同時に回す近ごろのハリウッドの長尺ものでは2000~3000カットを超すことも珍しくなく、一方、1台のカメラで撮る邦画なら600~700カットくらいしかないという話もある。ところが台湾映画『郊遊<ピクニック>(原題:郊遊)』のカット数は数えたわけじゃないけど、138分でたぶん200カット以内、ひょっとしたら100カットそこそこかもしれない。徹底した長回し。1シーン1カットや据えっぱなしのカメラといった手法も多用される。ラストショット、主人公たち2人を捉えたカットは10分を超す。

亡くなったテオ・アンゲロプロスやアッバス・キアロスタミ、ホウ・シャオシエンと長回しを好む監督は多いけれど、ここまで徹底した監督、作品はないのではないか。『郊遊』は長回しスタイルの極北といえる映画かもしれない。ツァイ・ミンリャン監督は『郊遊』を最後に商業的な映画製作システムのなかでの作品づくりから引退するという。ここまで来てしまったら、そうだろうなと思う。

細かいカットを重ね、カットとカットをつないで「意味」をつくりだすモンタージュは劇映画の基本だけど、長回しはその対極にある。モンタージュはエイゼンシュテインによって理論が確立されて以来、ハリウッドはじめ世界中の映画でさまざまに開発され発展し、やがて複雑な物語を語れるようになった。でもそれだけに、モンタージュの技巧をこらした映画は時につくりものじみて見える(実際つくりものなんだけど)。

それに対して、長回しはつくりものであるにもかかわらずドキュメンタリーを見ているような自然な感じをもつ。長回しを見ている観客は、自身がカメラの目そのものになって対象を凝視している錯覚を起こす。カメラの時間と人間の時間が同調し、フィクションとして演じられている時間と、スクリーンを見ている観客自身の時間がひとつのものになる。それによって得られるのは、自分自身がその場にいてその光景を目撃しているといった感覚、「場のリアリティ」だろう。

一方、長回しによって犠牲にされる最大のものは物語だ。言葉や音楽と映像のモンタージュを組み合わせることで、映画は複雑な物語を語れるようになった。その映画の基本的な要素のひとつを捨てることで、長回しは否応なく映画の物語性を稀薄にする。『郊遊』も例外ではない。映画に起承転結はなく、さらに意図的に物語があいまいにされてもいる。

台北の町の片隅で暮らすホームレスのシャオカン(リー・カンション)と小学生ほどの息子と娘。彼らは建設途中で放棄されたビルのような建物を住まいにしている。床に敷かれたマットレスで三人で寝る。公衆トイレで顔を洗い、体をふく。コンビニで買った弁当を食べる。子供たちがスーパーマーケットで試食したり遊んだりしている。海辺や森を歩く。シャオカンは看板を持って街頭に立ち、ささやかな金を稼いでいる。そんなシーンが始めも終わりもなくつづいてゆく。

女性が三人出てくる。一人は、子供たちが寝ているかたわらで髪を梳いている。一人は、スーパーで働き子供に賞味期限切れの食べ物を与えたりして面倒を見る。一人は、シャオカンとふたりで空きビルの一室で佇み、涙を流す。髪をくしけずる女は行きずりの女、スーパーの女は保護者、涙を流す女はシャオカンが愛した女とも見えるが、しかとわからない。あるいは三人で一人の女なのか。

出来事らしい出来事は一度だけ。嵐の夜、シャオカンは子供たちを水辺に連れてゆきボートに乗せようとする。彼らを捨てようとするのか。それもきちんとは説明されない。そこへスーパーの女が現れて子供たちを連れ出し、自分の部屋へ連れてゆく。シャオカンも同じ部屋でソファーに寝ている。家族団らんのようにも見えるが、他人同士がいっとき身を寄せているといったふうにも見える。

そして最後の長回しがやってくる。放棄されたビルの一室にシャオカンと女が壁に向かって立ち尽くしている。壁には石ころだらけの河原の壁画が描かれている。女は涙を流し、放尿し、去ってゆく。シャオカンも絵の前に佇み、やがて去ってゆく。その間10分以上、カメラはそれを黙って見つめている。

ツァイ・ミンリャンの映画で、リー・カンションは一貫してシャオカンという名の主人公を演じてきた。『愛情万歳』や『河』で少年だったシャオカンは、いま中年男になり息子と娘を連れている。シャオカンはどの映画でも家族にも仲間にも、社会のどこにも居場所を見つけられない存在として描かれてきた。子供連れになった『郊遊』もそうだ。空き部屋の一室で、シャオカンは娘の顔に見立てて目鼻を書いたキャベツをまるごとむさぼり食う。漂いつづける孤独な男の肖像。

ツァイ監督はそんなシャオカンを、モンタージュを捨て物語性を捨てスタイルを純化しながら、闇や蛍光灯の灯りや雨のなかにシャオカンを立たせる映像の力だけで描いてきた。それは一方では映画のもつ猥雑さや見世物性、豊かな物語を切り捨てる道でもあったから、ツァイ監督が商業映画から撤退するのは当然と言えば当然かもしれない。シャオカンは紛れもなくツァイ・ミンリャン監督の自画像だった。

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September 14, 2014

『琉球独立論』を読む

Ryuukyuu_matusima
Matsushima Yasukatsu"A View of Independent Ryukyu"(reading)

松島泰勝『琉球独立論』の感想を「ブック・ナビ」にアップしました。

http://www.book-navi.com/


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September 11, 2014

『ケープタウン』 なぜ英語なのか?

Zulu
Zulu(viewing film)

ケープタウン警察の刑事アリ(フォレスト・ウィテカー)が黒人地区のスラムにある娼婦の家に入ってゆく。アリはベッドに横たわる娼婦のそばに座り、彼女の体に触れる。が、それ以上のことをしない。モノクロームで過去がフラッシュバックされる。アパルトヘイトの時代、少年のアリは警察犬に追われ、性器に噛みつかれた。別の場面では、火をつけられころげ回る黒人をスラムの家のなかから見ているアリ少年のフラッシュバックもある。

アリが刑事仲間のブライアン(オーランド・ブルーム)、ダン(コンラッド・ケンプ)夫婦と、ダン家の庭でパーティをしている。白人のブライアンとダンは、同じ白人の警察署長を「人種差別主義者」と悪口を言う。でも黒人のアリだけは、「署長はズールー族の俺を刑事に取り立ててくれた」としか言わない。

『大統領の執事の涙』もそうだったけど、こういうときのフォレスト・ウィテカーは黙っているだけでその身体から抑えつけた怒りと、怒りを抑圧する自分に対する悲しみが噴きだす。そんな屈折した感情をアリだけでなく、酒びたりの相棒ブライアンもまた抱えていることで、『ケープタウン(原題:Zulu)』は陰影濃い犯罪アクション映画になった。

元ラグビーのスター選手の娘が暴行され死体で発見される。娘は麻薬をやっていたが、そこには未知の成分が含まれていた。アリとブライアンが捜査していくと、スラムで頻発する黒人少年失踪事件にも同じ麻薬がからんでいることがわかる。その麻薬を飲むとはじめ快感が得られるが、やがて他人に攻撃的になり、共食いをはじめる。2人が麻薬組織を追っていくと、極秘にされた国家犯罪の影が見えてくる……。

原作の『ズールー』はフランスでベストセラーになったミステリー。翻訳や紹介がないのでよくわからないけど、アパルトヘイト時代の南アフリカで実際にあった「プロジェクト・コースト」事件が素材になっているようだ。「プロジェクト・コースト」は、アパルトヘイト撤回を求める世界の声に頑強に抵抗したボタ首相の下で開発が進められた生物化学兵器製造計画(wikipedia)。ある種のワクチンによって黒人の大量虐殺・抹殺を狙ったものらしい。

フランス資本、フランス人の監督(ジェローム・サル)、主演(オーランド・ブルーム)のフランス映画ながら、全編南アフリカ共和国で撮影されている。フォレスト・ウィテカーはアメリカの役者だし、言葉も英語だから、多国籍(無国籍)映画のような匂いもある。もっとも出演者が英語をしゃべるのは商売優先のハリウッド風が理由でなく、南アでは英語が公用語だから。

かつての支配者アフリカーナー(オランダ系白人)が使うアフリカーナ語、多くの部族からなる黒人が使うズールー語など多様な民族語が入り混じって南アには11もの公用語がある。が、実際には英語がその役を果たしているらしい。映画でも出演者がぎこちない英語をしゃべったり、時々英語ではない言葉をしゃべってる。南アの現実をきちんと反映してるんだろう。

映画が描く貧富の差もすさまじい。ブライアンの別れた妻は、エリートの歯科医と同居して大きな邸宅に住んでいる。一方、娼婦や少年たちが暮らすのは一面にバラックの広がるスラム。このスラムにカメラを持ち込んで撮影したのは初めてだそうだ。ヘリからの映像が印象的。

映画はどこまでも映画であってそれ自体を楽しめばよく、例えば映画を通して南アの現実を知るのはあくまで副次的な要素でしかない。でも、フィクションであれ行ったことのない場所、会ったことのない人々を知り、彼らが抱えている問題を理解するのは映画のもつ大切な役割だ。

最後、アリは刑事としての職務を超えてナミビアの砂漠まで黒幕の科学者を追いかける。無秩序な都市から白い砂漠へ。サービス精神満点で、よくできたエンタテインメントでした。


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September 10, 2014

ザ・カルテット・レジェンドを聞く

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Kenny Barron,Ron Carter,Benny Golson & Lenny White Quartet

ケニー・バロン(p)、ロン・カーター(b)、ベニー・ゴルソン(ts)、レニー・ホワイト(ds)の御大4人、確かにレジェンドと呼びたくなるようなカルテットを聞いた(東京・コットンクラブ、9月9日)。

最年長のベニー85歳、いちばん若いレニー65歳。リターン・トゥ・フォーエバーにいたレニーを除けば、オーソドックスなフォービート一筋。4人をつなぐ糸はやはりマイルスだろう。1955年、コルトレーンを擁した黄金のマイルス・クインテットが最初の録音に選んだのがベニーの「ステイブルメイツ」だった。ロンは言うまでもなく60年代マイルス・バンド。ケニーはそのロンのバンドにいたことがあるし、レニーは電化マイルスの『ビッチェズ・ブリュー』に参加している。今日のステージでもベニーが曲を紹介する際、三度もマイルスの名を口にした。

オープニングはその「ステイブルメイツ」。つづいてロン、ケニー、レニーの曲も一曲ずつ。ベニーが抜けケニー・バロン・トリオになって「いつか王子様が」。ケニーのころがるようなピアノが素晴らしい。つづけてロンのベース・ソロで「ユゥ・ア・マイ・サンシャイン」。年を感じさせない若々しい演奏だった。最後はまたベニーの曲に戻り、名曲「ウィスパー・ノット」。ベニーのソロは涙が出そうに美しい。アンコールもベニーの「ブルース・マーチ」。ブレイキー・バンドで聞きなれた耳には、なんとも上品な仕上がり。たぶんこの4人がもう一度組むことはないだろう名人上手が集まって、リラクゼーションの極みみたいな一夜の夢を見させてくれたのでした。


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September 05, 2014

『プロミスト・ランド』 アクチュアルな映画

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Promised Land(viewing film)

『プロミスト・ランド(原題:Promised Land=約束の地)』というのはもともとユダヤ教に由来する言葉で、神に選ばれた遊牧民アブラハムが子孫に与えると約束されたカナンの地(パレスチナ)を指す。といって、この映画はユダヤ教やキリスト教が出てくるわけじゃあない。この映画のタイトルはたぶん宗教というより歴史、英国国教会の迫害を受けた清教徒たちが新大陸にやってきて築き上げた自分たちの土地を指して「約束の地」と言っているんだろう。言ってみればアメリカの原風景。

低い丘陵がうねる田園地帯に広大な農場と、林のなかに点在する小さな町がある。開拓以来つづくそんなアメリカの原型のような町が、グローバル化によって農産物価格が下落したせいだろう、不況にあえいでいる。そこへ天然ガス会社のエリート社員スティーブ(マット・デイモン)がやってくる。このあたりにシェール・ガスが埋蔵されていることがわかり、同僚のスー(フランシス・マクドーマンド)とその採掘権を農場主からいち早く買い集め、一帯の採掘権を押さえてしまおうとする。町は住民投票で賛否を決めることになったが、シェールガス採掘に反対する環境NGOのダスティン(ジョン・クラシンスキー)も町へやってきて反対運動をはじめる。

舞台はマッキンリーという架空の町。実際のロケはペンシルバニアで行われたが、これには背景がある。現実にペンシルバニアのダイモックという地域でシェールガス採掘が行われ、飲料水や水源が汚染される事故が起こったのだ。この映画を見るアメリカの観客は、当然そのことを思い浮かべる。映画がそんな微妙な問題に触れている証拠に、ペンシルバニアの住民(おそらく開発賛成派)が、大金をほのめかされ契約書にサインしてしまうこの映画の農民の描き方に怒ってfacebookでグループをつくっているという(wikipedia)。

だからこの映画、日本ではヒューマンな社会派ドラマという認識だろうけど、現在進行形のホットな問題を扱ったなかなかに政治的な映画でもある。映画の最後、ある事実が露見してスティーブは住民に謝罪し、会社をクビになって反対派の教師アリス(ローズマリー・デヴィット)のもとを訪れ、2人で緑豊かな「約束の地」を眺める。

マット・デイモンはこの映画に主演しているだけでなく、プロデューサーであり脚本家でもある。最初は監督も自分でやるつもりだったが、予定が詰まっていてできず、ガス・ヴァン・サント監督に依頼したという。マットはハリウッドのリベラル派として有名だけど、この映画でもラストを見れば彼がどちらに肩入れしているかは明らかだ。ハリウッドのスターがこんなふうに生々しい社会問題をテーマにして映画をつくり、自らの立場もはっきりさせる。地味な映画だからまだ製作費の半分ほどしか回収できていないようだけど(wikipedia)、ハリウッド映画もやるなあ。

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