『収容病棟』 中国社会の陰画
'Til Madness Do Us Part(viewing film)
3階建ての病棟が殺風景な中庭を囲んでいる。各階には中庭を見下ろす回廊が巡り、回廊は全面が鉄格子で覆われている。鉄格子の反対側には病室の扉が並んでいる。病室だけでなく、便所や水道、テレビのある娯楽室もある。閉ざされた3階の男子病棟が、上映時間237分のこの映画のほとんどを占める舞台だ。
雪の日も晴れた日も、休むことなく回廊を巡っている患者がいる。一カ所に立ち止まって動かず、鉄格子越しにじっと庭を見つめている患者がいる。回廊に置かれたベンチに座って談笑したり、煙草を吸っている患者もいる。カメラはそんな患者たちのうち何人かに密着し、病室に入っていく。病室にはベッドが5、6台あるだけ。ベッド下にはポリバケツ。患者はそこに無造作に小便したり、私物のビニール袋を入れたりしている。
ある患者は、ひたすら家へ帰りたいとつぶやいている。ある患者は薄汚れた壁の染みが虫に見えるのか、靴底で壁をぺたんぺたん叩いている。ある患者はドアを蹴ったらしく、後ろ手に手錠をはめられる懲罰を受けている。ある患者は、なぜか他人のベッドにやたら入りたがる。といって、同性愛の気配はない。誰かと触れあいたい、人肌が恋しいといった感じ。ある患者は家族が差し入れたみかんを、欲しいとねだる患者に次々に与えている。ある患者は階下の女性患者と愛しあうようになり、階段室で鉄格子越しに抱擁している。
患者たちはカメラをほとんど意識していない。カメラはひとりの患者に寄り添って、その行動をじっと見続ける。237分の映画で映される主な患者は十人前後だから、ひとりにつき20分以上密着しているだろう。ほとんどの患者に、とりたてて大きな出来事が起こるわけではない。でもじっと見続けることで、観客は最初「異常」だと感じていた患者の内側が少しずつ見えてくるようになる。時に外の「正常」な世界と同じように、いや外よりももっと他人への優しさを見せる患者たち。そこまで来ると、「正常」も「異常」もわからなくなってしまう。それがこの映画の凄いところだ。
ドキュメンタリー映画には監督とカメラが対象に積極的に働きかけ、その反応によって変化する場を撮影する手法もあるけれど(最近では『アクト・オブ・キリング』という傑作があった)、ワン・ビン監督はその正反対。オーソドックスな手法で監督とカメラを場に溶け込ませ、透明人間のようにその存在を消そうとする。エンディング・クレジットで撮影を許してくれた患者と家族に感謝すると出るから、もちろん病院と患者の許可を得て撮影しているんだけど、空気のようになるまでには大変な苦労があり、時間がかかったに違いない。監督はこう言っている。
「ドキュメンタリーの撮影にとっては、信頼関係が一番重要です。なるべく撮る対象の生活を覗き見するようなことはしたくない。正常な関係を打ち立て、相手も分かってくれた上で撮影することが結局はいい関係に繋がって、信頼が成り立つ。その関係があるかないかによって、編集して作品となって観客に観てもらう時、そういう関係が打ち立てられていれば観る人に不愉快な感じを齎さない、そこがとても重要です」(OUTSIDE IN TOKYO、ワン・ビン・インタビュー)
この映画だけでなく、ワン・ビン監督のすべての作品に共通する姿勢だろう。だからこそ、長い時間見つめることが必要になってくる。長い時間をかけることによって、ワンショットの外見や行動からは見えないものがじわっと染みでてくる。長回しはスタイルとして採用されたのではなく、監督のそのような姿勢から自然に選ばれたものだとわかる。僕はまだ見る機会がないけれど、『鉄西区』の9時間もそのようなものとしてあるのだろう。
先の監督インタビューによると、雲南省で前作『三姉妹』を撮ったとき、この精神病院の医者と知り合った。そこで撮影を申し出たところ許可が出たという。ふつうこういう撮影はいやがられるが、病院が許可を出した動機は監督にもよくわからない。監督とカメラマン2人だけで病棟に入り、最初はカメラを回さず患者としゃべったり遊んだりしながら、興味の湧く患者にカメラを回していった。どの映画でもごく自然に対象に寄り添うカメラは「ワン・ビンの距離」などと呼ばれるが、そこに特別な秘密があるわけではなく、監督が相手を尊重し、信頼関係をつくりあげるというまっとうな姿勢から生まれたものだ。
この精神病院には「異常」と判定され医者や警察、あるいは家族によって送り込まれた200人以上が収容されている。暴力、精神異常、薬物・アルコール中毒、また政治的陳情行為を行って目をつけられた者、一人っ子政策に違反した者もいる。10年、20年と長期間収容されている者もいる。
監督は、患者が収容された理由をあえて「深く突っ込んでは聞かなかった」から、誰がどういう理由で送り込まれたのかはわからない。でも、ある患者が「ここに長くいると精神病になる」と新入りに教えたり、また別の患者がつぶやく「ここじゃ考えることしかやることがない」といった言葉から、病気とは別の理由で収容されてしまったらしいことがほの見える。
監督は、収容病棟にいるのは「グレー・ゾーンの人たち」だと語っている。患者たちと4時間、見る者も鉄格子のなかの一員になったような気分で接していると──自然にそんな気分になってくる。それがこの映画の力だ──監督の言葉どおり収容病棟という存在が、激しく軋んでいる中国社会が何を排除したがっているかの陰画であることが見えてくる。社会が排除した者が集まった場に、排除した「外」になくなりつつある人間的な優しさが感じられるのは皮肉なことだ。これはなにも中国に限ったことでなく、われわれが何を「異常」として排除したがっているか、そのことによって何を失っているのかという自問にもつながる。
この映画が中国で公開されたのかどうか、情報がない(前々作『無言歌』は公開禁止)。原題の「瘋愛」で画像検索しても中国でのポスターは見つからないから、検閲を通らなかったのか。ちなみに「瘋愛」は「精神が狂った人同士の愛」(監督の言葉)、英題の「'Til Madness Do Us Part」は「狂気がわれらを分かつまで」といった意味だろう。
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