『罪の手ざわり』 上映禁止の理由
カンヌ映画祭で脚本賞を取ったジャ・ジャンクー監督『罪の手ざわり(原題:天注定)』は、中国国内では去年11月に公開されるはずだった。ところが国家広播電影電視総局の審査(つまり検閲)に引っかかり、上映禁止になったというニュースが中国のネットに流れた。さらに今年の3月、ジャ監督自身が、中国国内未公開のこの映画がネットに流出しダウンロードできる状態になっていたと中国版ツイッターで発言した。
流出の経緯は分かっていない。『罪の手ざわり』は今に至るまで中国では公開されていないが、一時はネットで見ようと思えば見られる状態になっていたということだ。出資した上海電影集団や山西影視集団(オフィス北野も)にとってみれば中国国内での資金回収の機会が失われたことになるが、一方、上映禁止という当局の決定を実質的に崩すことにもなっている。ジャ監督は流出したことを出資者に謝っているけれど、真相がどうなのかは分からない。
ジャ監督は当局の検閲について、ニューヨーク・タイムズのインタビューでこう語っている(「ツカウエイゴ」に部分訳がある)。かつて当局は映画をプロパガンダの道具としか考えていなかったので、検閲は「イエス」か「ノー」の有無を言わさぬものだった。でも2004年以降、映画を産業としてとらえる視点が入ってきたために、扱えるテーマの幅も広がり、当局と議論もできるようになった。検閲は少しずつ緩くなり、前向きに変化している。
ジャ監督は中国国内にとどまって映画製作をしてきたし、これからもそれに変わりはないだろうから、そのことを前提にした発言であることは言うまでもない。ちなみに『プラットホーム』など初期の3作は国内公開されず、公開されたのは『世界』以降の3作品だ(配給会社Bitters EndのHPによる)。最新作『罪の手ざわり』が公開禁止になったということは、一方で習近平体制の最近の検閲強化によるものかもしれないし、他方でこの映画がこれまでのジャ監督の映画に比べて社会的メッセージが明確であることによるかもしれない。
『罪の手ざわり』は、実際に中国で起き、ネットやツイッターで話題になった事件をもとに4つの犯罪と暴力を描いている。そのメッセージは明快で、この犯罪と暴力にはそれぞれ理由がある、というものだ。
村所有だった炭鉱の利益を独り占めした実業家と村長に怒り、彼らを猟銃で撃ち殺した同級生のダーハイ(チァン・ウー)。家族には出稼ぎと偽って旅に出、拳銃強盗を繰り返すチョウ(ワン・バオチャン)。風俗サウナの受付嬢シャオユー(チャオ・タオ)は、広東省の工場長ヨウリャン(チャン・ジャイー)と遠距離不倫の関係にある。シャオユーはサウナの客に札束で頭を張られて売春を強要され、思わずナイフで客を刺し殺してしまう。ヨウリャンの工場を辞めた若者シャオホイ(ルオ・ランシャン)は東莞の風俗店に雇われ、風俗嬢のリェンロン(リー・モン)に恋するが、リェンロンからある事情を聞かされ屋上から身を投げる。
僕は中国映画をそんなにたくさん見てるわけじゃないけど、犯罪と暴力を正面から取り上げた作品は少ないという印象がある(香港映画は犯罪と暴力大好きなのに)。たぶん当局がテーマを規制しているからだろうけれど、『罪の手ざわり』はそこに切り込んだ。
映画を撮るにあたって、むろん検閲のことも頭にあってだろう、ジャ監督はひとつの工夫をしている。中国の伝統的なエンタテインメントである武侠小説・映画の枠を借りたことだ。「暴力を、どうやって撮ろうかと考えているうちに、昔から僕らの国にある『武侠小説』を使って、中国の現代を表現してみようと思いました」と監督は語っている(「ハフィントン・ポスト」)。想像するに、事前検閲の段階で監督は、「これはほら、現代の武侠映画、娯楽作品なんですよ」と当局者と議論していたかもしれない。
ダーハイが村を歩くとき、広場で京劇の「水滸伝」が演じられていて、「梁山泊へ集う」というセリフがダーハイの歩く姿にかぶさる。彼の部屋には、吼える虎を刺繍した織物がかかっている。ダーハイが猟銃を手にするとき、その虎の織物を銃に巻いて村長たちを殺しに出かける。日本のやくざ映画の殴りこみシーンのようなタッチ。実業家を殺した後、工場を遠景に殺伐とした広場と血に染まった外車のショットは、埋立地のコンビナートで着流しの鶴田浩二がドスをかざす深作欣二の『解散式』を思い起こさせる。
サウナの客に、お前がサービスしろと札束で執拗に頭を張られて我慢できなくなったシャオユーは、不倫相手から預かった果物ナイフを取り出して一閃する。その動きはカンフー映画そのもので、このシーンだけシャオユーは女侠客に見えてくる。客を殺したシャオユーが外へ出てさまよい歩くとき、蛇が現れてくねくねと道を横切る。
虎や蛇だけではなく、馬や牛も印象的だ。重い荷車を引かされ坂道で立ち往生している馬を、男が容赦なく鞭打っている。ダーハイはその男をも撃ち殺す。強盗であるチョウがバイクで道を走るとき、前を走るトラックの荷台には賭場に連れていかれる牛が何頭もつながれている。鎖に繋がれ鞭打たれる馬や牛と、ダーハイの銃に巻かれた虎、不倫に悩みナイフで客を殺したシャオユーの心そのものであるような蛇。それを沈黙する民や罪を犯したダーハイやシャオユーの化身と言ってしまっては図式的すぎるけれど、伝統芸能や動物の変身譚を取り入れたノーベル賞作家・莫言の小説みたいな味もある。
映画の最後で、出所したらしいシャオユーが街をさまよい歩くとき、街頭ではまた京劇が演じられていて、「お前は罪を認めるか」という台詞とジャジャジャーンと鳴り物の音楽が彼女にかぶさる(音楽は台湾のリン・チャン。ホウ・シャオシェンの『戯夢人生』でも同じような音楽の使い方をしていた)。
そんなふうに武侠小説・映画の枠を取り入れたことで、特に暴力の場面はリアリズムでなく、動きがどこか様式化されている。その分、エンタテインメント映画ふうな味もある。それはジャ監督の検閲に対する戦略だったかもしれないが、そのことによる効果は他にもある。これまでのジャ監督の映画は、一言で言えば改革開放後の中国で変化のすさまじさにとまどい、さまよっている人々の、徹底して今日にこだわった記録だったと言えるだろう。でも、京劇や動物が取り込まれることによって、変わりゆく今日もまた歴史とつながっているという感覚が画面から滲みでてくる。
もうひとつ、今までのジャ監督の映画と違うのは、この映画が4つの物語を持つオムニバス形式になっていること。そのため、くっきりした起承転結というより男と女のあてどない会話や行動をゆったり、じっくり見つめたこれまでの作風と違って、明確な因果関係とストーリーが表に出ている。その分、ジャ監督らしい個性は薄れたけれど、それに代わるエンタテインメントふうな面白さも加わった。犯罪を犯した者に寄せる共感の眼差しと矛盾に対するメッセージはストレートだ。
雪の山西から、重慶、湖北、熱帯樹の茂る広東へと、舞台は北から南へ移動する。主人公たちもまた、北から南へ流れてゆく。高層マンション脇の農地とか、インターチェンジのコーヒーショップ、駅前の雑踏、観光客相手の風俗店、工事現場といった今の中国の風景が素晴らしい(撮影はユー・リクウァイ)。
ところで、天安門事件を描いた『天安門、恋人たち』が上映禁止となったロウ・イエ監督は、罰として5年間の映画製作禁止を言い渡された。それが現在の検閲制度の決まりだとしたら、ジャ・ジャンクーもまた今後5年間、映画をつくれなくなるのだろうか。監督はカンヌ映画祭で、次は香港のジョニー・トー監督のアクション映画を製作すると語っているが、この魅力的な組み合わせがどうなるのか。目が離せない。
Comments
やっと観てきました。もう少しで上映終わりそうだったので。行ってよかったです。
最近はアジア映画は食指が動かなくて、半信半疑でこれも観ましたけど、やっぱり現状をよしとしない製作人もいるんだなと、そのことを何故か安堵しました。
ジャ・ジャンクー監督にはこれからもたくさんご活躍いただきたいですね。
Posted by: rose_chocolat | July 20, 2014 10:05 AM
中国国内では上映禁止になったようですから、次が大変でしょうね。ジャ・ジャンクーはあくまで国内で映画を撮りつづける覚悟のようですから、ずっと見ていきたいと思ってます。
僕もアジア映画そんなに見ているわけではないので、いつかの「高地戦」のようなお勧め、どんどんアップしてください。
Posted by: 雄 | July 21, 2014 01:23 PM