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May 24, 2014

ミツバチのささやき

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a honeybee on clover

庭にクローバーの花が咲き、たくさんのミツバチがやってくる。かすかな羽音のささやきにしばらく耳を傾ける。


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May 23, 2014

レコード・プレイヤー復活

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playing record player after ten-odd years

居間の家具の配置を変えて、十数年ぶりに物置からレコード・プレイヤーを引っぱり出した。しまいこむまではCDとレコード両方聞いていたんだけど、大画面テレビを入れたため場所がなくなり、思い切ってCDだけにしてしまった。

ちゃんと音が出るかどうか心配だったけど、どうやら昔どおりの音色。ダイレクト・ドライブで、回転もきちんとしている。やはり物置に入れてしまった200枚ほどのレコード盤も異常なし。

久しぶりにレコード盤でしか持っていないものを一日中かけまくる。最初にかけたのはマイルスの「スケッチ・オブ・スペイン」。つづけてボブ・マーリイ「ライブ!」、「アーリー・ビートルズ」、高橋真梨子「ラベンダー」、ナベサダ「カリフォルニア・シャワー」、ビリー・ジョエル「52nd Street」……。70年代オールディーズだなあ。CDに慣れてしまったから、片面が終わるのが早くて引っくり返すのに忙しい。

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「桑原甲子雄の写真」展へ

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Kuwabara Kineo photo exhibition

朝から風も雨も激しかったけど、「桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチの60年」展(~6月8日)へ。この日を逃すとボランティアでお手伝いしている写真展の準備や仕事が忙しくなり、行きそこないそうな気がしたので。浦和から横浜美術館や川崎市民ミュージアムへは1日がかりだけど、世田谷美術館も千歳船橋からバスに乗るので半日がかりになる。

1970年前後、新米の雑誌編集者だった僕が桑原さんを知ったのは写真家としてでなく名編集長としてだった。写真をはじめてみたのは、『東京昭和十一年』『満洲昭和十五年』の2冊の写真集。戦前の東京の町に溶け込むようにして、こんな素敵な写真を撮っていたんだと驚いた。

会場はその戦前の東京、満洲だけでなく、1970年代に再びカメラを持ち東京を撮るようになってからの作品も含め、桑原さんの写真の全体が眺め渡せるようになっている。桑原さんは晩年「写真はホビーとして撮ってきた」という意味のことを語っているけれど、最後まで良きアマチュアリズムを貫いた。どの作品からも、プロフェッショナルの意思的な姿勢でなく、撮るのが好きで楽しくてという気配が匂ってくる。そののびやかな自由さが素敵だ。

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May 20, 2014

岡田美術館のびっくり

Photo
visiting Okada Museum, 岡田美術館の建物(ユニバーサル・エンタテインメントHPから)

先週、箱根の芦之湯に行ったとき、去年秋にオープンした岡田美術館を訪れた。歌麿の巨大な肉筆画「深川の雪」が展示されているというニュースを見たからだ。立派な美術館で、小涌谷のバス停を降り館内へ入ったところから、驚くことばかりだったなあ。

驚き、その1。入舘料に驚いた。2800円。箱根の美術館は観光地である上に私立美術館ばかりだから、全体的に入館料が高い。それにしても、この強気の設定はどういうこと? 高いなあと感ずるポーラ美術館でさえ1800円(シニア1600円)だ。シニア割引もない。金持ちの中国人観光客で稼ごうということか。

驚き、その2。厳重なセキュリティー・チェック。チケットを買うと、まずカメラ、スマホ、飲み物を無料ロッカーに入れ、空港と同じ金属探知機をくぐらなければならない。手荷物はこれも空港と同じX線検査を受けなければならない。こんな厳重な美術館ははじめて。展示室に入って、ああなるほどと思った。展示はすべて厚いガラス越し。たいていの美術館にいる案内兼監視の係員がまったくいない。入口を厳重にして人件費を抑えようということか。

驚き、その3。展示室に入ると、その広さと展示品の質と量はなかなかのもの。岡田美術館は日本・中国・韓国の東アジア美術、なかでも絵画と陶磁器が中心になっている。中国は古代の青銅器から唐三彩、景徳鎮をはじめとする各時代の焼き物。韓国は高麗青磁や李朝白磁。日本は縄文土器や埴輪に始まり、古九谷、鍋島、京焼の仁清や乾山など。絵画は日本の桃山・江戸以降。琳派や若沖ら「奇想の系譜」、大観ら近代日本画まで。まあ、これだけたっぷり見られれば入館料への怒りは多少柔らぐ。

後で調べたら、ここ十数年で集めたコレクションと知って改めてびっくり。中国・韓国の古陶磁の名品や仁清、乾山、若沖、大観、上村松園、平山郁夫など、億単位で購入した作品もあるらしい。重要美術品も数点あったから、こういう品を売買できる市場があるということか。それにしてもこれだけのものを十数年で集めるとは、どれだけ金がかかったんだろう。

ただ、全部を見てもコレクターの趣味を感ずることはできない。幅広く集められてはいるが、コレクターの愛がどこに向いているかがはっきりしない。ポーラ美術館ならコレクターの(いかにも日本人好みの)印象派への偏愛が明らかだし、ニューヨークのフリック・コレクションなんか成金らしからぬ(?)品の良さが強く感じられる。良くも悪くもコレクターの趣味が感じられるのが私立美術館。それがここには希薄だ。

驚き、その4。「パチンコ王」。コレクターが岡田という名前だと知ったとき、「箱根・美術館・岡田」というキーワードで思いついたのは箱根美術館・MOA美術館の創設者で世界救世教の岡田茂吉だった。宗教関係なら、これだけのコレクションを短時間で集めることは可能だろう、と。

でも、調べてびっくり、コレクターの岡田和生氏は「パチンコ王」と呼ばれるお金持ちだった。長者番付トップになったこともあり、米誌『フォーブス』によれば個人資産約1700億円。僕は20年以上パチンコをやったことがないので最近の事情に疎いけれど、パチスロの製造で財をなしたらしい。スロット・マシンだけでなく、パチンコやゲームも手がけるユニバーサル・エンタテインメントの創設者にして会長。海外でカジノも経営している。

そういえばユニバーサル・エンタテインメントという社名に覚えがある。自民党の選挙応援に社員を派遣したとか、フィリピンのカジノ開発に絡んで贈賄容疑でアメリカのFBIが調べているとかのニュースで出てきたなあ。ちょっとブラックな気配。

こういう人(会社)なら短期間でこれだけのコレクションを集め、箱根の一等地に土地を買い、豪華な美術館を建てる財力を持っているのもうなずける。現在の日本のお金持ちの一典型かもしれない。まあ、他のことに使うより、こんなふうに美術品を集めて公開するのはお金の使い方として悪くない。将来、会社が傾いたら美術館も閉鎖、なんてことにならないよう願いたい。

にしても、2800円ではもう一度行こうとは思わない。ま、向こうも2800円を高いと思う客を相手にしてないだろうけど。

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May 19, 2014

『滅亡へのカウントダウン』を読む

Metubou_alan
Countdown(book review)

「ブック・ナビ」にアラン・ワイズマン『滅亡へのカウントダウン』の感想をアップしました。

http://www.book-navi.com/

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May 18, 2014

デモ後ジャズ

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先日、集団的自衛権行使反対の国会前デモに行こうと思っていたが仕事で行けなかった。そこで翌日、金曜日の反原発デモに。金曜日の国会前デモは反原発の一点で集まっているけれど、この日の発言には集団的自衛権や安倍首相のやり口に触れたものも多かった。

それにしても安倍首相の記者会見は気持ち悪かったなあ。赤ん坊を抱く母親のパネルや、「お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん…」と語りかける口調に鳥肌が立った。このときのパネルの日本地図について、「なぜか沖縄だけが抜けおちていた」と琉球新報が指摘している。表面の猫撫で声や情緒的なパネルとは別に、無意識というのはこういうところに表れる(確信犯ならもっとタチが悪い)。琉球新報はつづけて「もし(集団的自衛権が)行使されれば、本土から遠く、米軍基地と米兵が集中する遠隔地の沖縄が攻撃対象になる危険が高まるだろう」と書く。

このブログのタイトル下には、秘密保護法のときから「安倍にNO!」と入れています。しばらくの間、もっと具体的に「解釈改憲にNO!」とすることにしました。

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この日は国会前から水道橋へ。ジャズ・ボーカリスト、カンナヒロコさんのライブ(東京倶楽部)。カンナさんはニューヨーク在住で、僕が7年前に1年間滞在したとき大変なお世話になった。一時帰国して、東京、大阪、故郷の広島などでライブをやっている。彼女の歌はもう20年近く聞いているけれど、今夜はセロニアス・モンクの「ルビー・マイ・ディア」やラテンの「ベサメ・ムーチョ」をバラードふうにと、初めての曲を聞かせてくれた。ピアノは嶋津健一さん。


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May 14, 2014

『プリズナーズ』 善人たちの犯罪

Prisoners
Prisoners(film review)

ハリウッド映画といってもVFXのアクションものばかりでなく、かつては主流だったサスペンス・ミステリーもたくさんつくられている。秀作も多い。アクションものは善悪のハッキリしたヒーローの物語だけれど、サスペンス・ミステリーは善悪のあいまいな大人の映画が多いし、アメリカが抱えるいろんな問題がエンタテインメントのかたちで取りこまれてもいる。毎年、これはすごいと思う作品に何本か出会う。『プリズナーズ(原題:Prisoners)』もそんな一本だった。

舞台がペンシルヴァニア州であることに意味がありそうだ。ペンシルヴァニアは17世紀に開拓されたアメリカ最古の植民地のひとつで、その中心になったのはクエーカー教徒だった。以来、宗教心の厚い土地柄で、エホバの証人はここで生まれたし、アーミッシュは今もこの地に暮らしている。ペンシルヴァニアは南部のバイブル・ベルトではなく北部に属する州だけれど、右派で原理主義的なエバンジェリカル(福音派)も根強い地域だ。

映画の冒頭は、主人公ケラー(ヒュー・ジャックマン)と息子が感謝祭のために森で鹿を撃つシーン。銃弾の音に重ねて、「天にまします我らの父よ」と主の祈りがかぶさる。神について語るナレーションが、その後何度か繰り返される。そして感謝祭当日に事件が起きる。一緒に鹿肉を食べていたケラー一家と友人でアフリカ系のフランクリン(テレンス・ハワード)一家の娘二人が行方不明になる。

容疑者として10歳程度の知能しかないアレックス(ポール・ダノ)が拘束される。が、証拠がなく釈放されてしまう。ケラーはアレックスが犯人だと確信し、釈放されたアレックスを誘拐して監禁、拷問し、娘たちの居場所を吐かせようとする。拷問をつづけながら、アレックスは「神よ、わが罪を許したまえ」とつぶやく。常に十字架のペンダントを下げている敬虔な信者なのだ。

事件を担当する刑事のロキ(ジェイク・ギレンホール)が捜査する過程でも、キリスト教の影がつきまとう。容疑者アレックスの母親代わりで一緒に住んでいる伯母ホリー(メリッサ・レオ)は、行方不明の夫とともにかつてキリスト教伝道に従事していた熱烈な信者だった。また、ロキがかつて少年愛の性犯罪を犯した神父の家を訪問すると、地下室でミイラ化した死体を発見する。

ついでに言うと刑事のロキという名前は北欧神話の神から来ていて、アメコミの主人公の名前でもある。アメコミのなかでロキは魔術を使い、悪役として扱われることもある(wikipedia)。拳や腕にタトゥーを入れたロキ刑事はそんなキャラクターを背景に、キリスト教共同体に侵入した異端者という役割を背負っているかもしれない。

僕は正直なところキリスト教がよく分からない。でも、かつて「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)」として先住民虐殺を正当化した過去からブッシュ前大統領がイラク派兵・対テロ戦争を強行した最近の歴史まで、その「正義」の背後にプロテスタント右派のマッチョで好戦的な体質や、善と悪の最終戦争という世界観が関係しているという指摘は何人もがしている(例えば河野博子『アメリカの原理主義』)。フィクションの世界でも、ふがいない警察に代わって「正義」を遂行するヒーローは、バットマンやスパイダーマンなどアメコミの王道だし、西部劇もそんなヒーローたちが活躍する映画だ。

釈放された容疑者を誘拐し、拷問するケラーのマッチョでひとりよがりの「正義」と、それを支える家族愛と敬虔な信仰は、アメコミや西部劇のヒーローたちとも通ずる一面を持つ。でもカナダ生まれのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(名前からしてフランス系だろう)は、ケラーをアメリカ人好みのヒーローとしてでなく「囚われた者(プリズナー)」として描く。原題がプリズナーズと複数形になっているのは、ケラーだけでなくこの映画の主要な登場人物がみな「囚われた者」ということだろうか。

彼らはみな、なにものかに囚われている。それがある種のキリスト教を指すのか、あるいは宗教のある側面を指すのか、よくは分からないけれど、キリスト教にせよイスラム教にせよ、仏教やヒンドゥー教にせよ、宗教が時に不寛容と強迫的思考に囚われることがあるのは確かだ。

この映画がペンシルヴァニアを選んだもうひとつの理由は、陰鬱な冬景色にあるのかもしれない。ペンシルヴァニアの冬は寒く、雪も多い。感謝祭のある11月末、どんよりした雲は厚く光をさえぎり、冷たい雨が降る。ケラーの運転する車のウインドーに強い雨が音を立てて落ち、雨はやがて雪に変わる。そんな暗鬱で人けの少ない田舎町で、「囚われた者たち」の事件が進行する。コーエン兄弟らと組む名カメラマン、ロジャー・ディーキンスの撮影する風景が素晴らしい。

映画の最後、ケラーの妻はロキ刑事に「夫は善人よ」と言う。この映画で犯罪を犯す者たちは、誰もが神に忠実な「善人」なのだ。たとえ悪魔(蛇)に魂を売ったとしても。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画を見るのははじめて。これから目が離せない。堪能しました。


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May 13, 2014

芦之湯につかる

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a trip to Ashinoyu Spa in Hakone

箱根の芦之湯へ出かけた。

芦之湯は江戸時代に箱根七湯と呼ばれた七つの温泉のひとつ。東海道の鎌倉古道沿い、現在の国道1号線小涌谷と元箱根の間、国道から100メートルほど山に入ったところにある。

江戸時代の湯船を再現した源泉風呂。左は白濁した硫黄泉、右は透明な重曹泉。

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もうひとつの源泉から引いた硫黄泉の大風呂。

芦之湯がいちばん栄えたのは江戸時代らしい。当時の「諸国温泉番付」で東の五番目、前頭筆頭に挙げられている。共同の湯を囲んで6軒の宿があり、湯治客でにぎわった。賀茂真淵、大田南畝ら文人墨客が集まる文化サロンもあったという。今回泊まったのは、当時から300年続いている宿の一軒。

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硫黄泉の風呂。

「箱根の山は天下の険」と歌われるけれど、車で簡単に走れる今となっては想像しにくい。でも江戸時代以前の鎌倉古道(湯坂道)がどんなルートだったかと言えば箱根湯本から湯坂山、浅間山、鷹巣山と、現在はハイキング・コースになっている尾根道をたどって芦之湯へ出る。山をいくつも越えてきた旅人にとって芦之湯につかるのは命の洗濯のように感じられたろう。鎌倉古道は芦之湯から、当時は硫黄の煙が立ち上り石仏群のある峠を越えて芦ノ湖にくだった。

江戸時代に入って須雲川沿いの東海道(旧道)が整備されてからは、畑宿から芦之湯へ急坂を登った。宮ノ下から元箱根へ抜ける現在の国道1号線が整備されたのは明治後期のことで、芦之湯集落の住民らが道路を開削したという。

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近くの湯の花温泉から引かれた重曹泉。

今、芦之湯を訪れる観光客は多くない。若い人が遊べる施設はないし、食事できる店もない。でも、だからこそかつての湯治場の雰囲気を味わえるのかもしれない。

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宿の古い棟は木造で、昭和モダン。

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部屋から見た新緑。


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May 09, 2014

『とらわれて夏』 重なる指と指

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Labor Day(film review)

『とらわれて夏(原題:Labor Day)』で素晴らしく官能的な場面がある。心を病んだシングルマザー、アデル(ケイト・ウィンスレット)と、彼女の家にかくまわれた脱獄囚フランク(ジョシュ・ブローリン)が、ピーチ・パイをつくるボウルのなかで初めて指と指を重ね、一緒に桃をこねるシーン。夫に去られたアデルはもう長いこと、他人と肌を肌を接触させた経験がないのだろう。殺人罪で服役していたフランクも、他人、ましてや女性と触れ合うことは皆無だったはずだ。

近所の主婦が持ってきたたくさんの桃を見て、料理上手のフランクがピーチ・パイをつくろうと言いだす。フランクが桃の皮をむき、小さく切ってボウルに入れる。砂糖とレモン汁とシナモンを入れ、かきまぜるようアデルに言う。おずおずと指を動かすアデルの背後からフランクが身を寄せ、アデルの指に自分の無骨な指をかさねてやさしく桃をこねる。蜜のにじんだ黄色い桃を介してからみあう二人の指。いかにもの演出とも言えるけど、これ以上ないエロチックなショット。当然のことながらこれ以後二人のラブシーンは一切ない。これで十分なのだ。

原題のレイバー・デイ(9月第1週の連休)という言葉でアメリカ人が感ずるのは「夏(子供にとっては夏休み)の終わり」。1980年代、ニューイングランドの田舎町。アデルの息子で13歳のヘンリー(ガトリン・グリフィス)の目を通して見た母と脱獄囚、孤独な人間たちの出会いと別れが語られる。二人と5日間を過ごしたヘンリーの「夏の終わり」は、子供時代の終わりでもある。

アデルとヘンリーの母子がふとしたことからスーパーで出会ったフランクを家につれていき、かくまうことになる。フランクは料理をつくり、傷んだ階段を直し、車のタイヤを交換する。ヘンリーに野球を教える。フランクの過去がフラッシュバックで回想される。フランクはベトナム帰還兵。妻の産んだ子の父が自分ではないことがわかって口論になり、妻を突き倒したところ死なせてしまい、殺人罪に問われたらしい。レイバーデイの3日間を過ごした後、3人は家族のようになっていたが、脱獄囚の捜索は続いている……。

物語そのものは予想どおりに展開するから驚きはない。見惚れたのは、先ほどのピーチパイをつくる指と指のように、人と人が触れ合うことの繊細な映像だ。家の前に他人の気配がしたとき、フランクは「人質に見せかける」と言ってアデルを椅子に縛りつける。フランクはアデルの素足をそっと手でつつんで椅子の脚に引き寄せ、優しく縄をかける。やがてフランクがアデルにとっては恋人、ヘンリーにとっては父親のような存在になることを予感させるショット。

マサチューセッツの風景も素敵だ。夏の日差しを受け逆光を通して輝く緑の木々。川にかかる古びた鉄橋。父が去ったために傷みの激しい家屋。田舎町のスーパーや銀行。ボストンの西にある町アクトンなどでロケしたらしいが、他の地域に比べると白人が多いこのあたり、しかも登場人物はみな田舎の下層、中流階級で、アメリカの原風景みたいな空気が漂っている。髪はほつれ、贅肉がはみ出る疲れきった中年女性のケイト・ウィンスレットがどんどん美しくなるのはお約束とはいえ、さすが。

ジェイソン・ライトマン監督。月並みな表現だけど、佳作ってこういう映画のことを言うんだろうな。


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May 02, 2014

『ある過去の行方』 心が揺らぐ

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Le Passe(film review)

アスガー・ファルハディ監督の映画はいつも家族をめぐる物語だ。『彼女が消えた浜辺』はイランの避暑地で行方不明になった女性と親しい数組のカップルの話だったし、『別離』は二組の家族がトラブルに巻き込まれる話だった。どちらも観客にとって謎があり、その謎が解けることで登場人物の別の顔が浮かび上がってくるミステリーの手法が取られている。といって謎解きのミステリーではなく、謎をめぐる人間関係と心理にこそ光が当てられている。その背景にはイスラム教国であるイランの、慣習も法も僕たちのとは少し違った社会がある。

新作『ある過去の行方(原題:Le Passe)』も家族をめぐるミステリアスな話であることは共通している。違うのは、フランス・イタリア資本でつくられているからだろう、映画の舞台がフランスであること。パリ郊外らしい町で、フランス人、イラン人、アラブ系といった多国籍の男と女が織りなす糸のもつれが描かれる。

空港でフランス人のマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)が夫のアーマド(アリ・モッサファ)を迎える。イラン人のアーマドはマリー=アンヌと別居し、何年もイランで仕事をしているらしい。2人は離婚に同意し、アーマドはそのために戻ってきた。アーマドがかつて暮らした家に戻ると、マリー=アンヌはアラブ系の若いサミール(タハール・ラヒム)と結婚しようとしている。マリー=アンヌの家にはブリュッセルに住む最初の夫との間にできた娘が2人いて、結婚しようとしているサミールの連れ子も同居している。マリー=アンヌはサミールの子を身籠っている。

マリー=アンヌの娘で高校生のリュシー(ポリーヌ・ビュルレ)はサミールを嫌って、家に寄りつかない。マリー=アンヌに頼まれたアーマドが娘の話を聞くと、サミールには自殺未遂して植物状態になった妻がいる、ママはそんな男と結婚しようとしている、とリュシーは訴える。アーマドは妻と娘の間をとりもつ役割を負わされるが、一方、アーマドが現れたことによって妻とサミールの間にも距離が生まれたようだ。マリー=アンヌを間に挟んで、元夫のアーマドと夫になろうとしているサミールの関係にも微妙なものがある。

そんなふうに男と女、親と娘の心の揺れがていねいに掬いとられる。やがて、サミールの妻が自殺未遂した原因が明らかになって……。

アラブ系のサミールはクリーニング店を経営している。店に雇われている女性は不法就労の移民で、彼女の訛りのあるフランス語もまた大きな鍵をにぎる。フランスは戦後、多くの移民労働者を受け入れてきた。ポルトガル人、かつての植民地アルジェリアやモロッコなど北アフリカのイスラム教徒、アーマドのように中東からの移民もいる。その多くは独身男性で、だからこの映画のような移民の男とフランス人女性のカップルも生まれるのだろう。そんはフランス社会のありようも映画の背景になっている。

サミールのフランス人の妻がなぜ自殺しようとしたかが映画の核になっているけれど、色んな事実が明かされ謎が解けたからといって、物語が大きく動くわけではない。むしろ物語は動かないし、なんらかの結末を迎えない。その代わり、明らかになったある事実に直面したことで、リュシーもマリー=アンヌもサミールも心が揺れる。その揺れが、やがてどういう結末を迎えるのかを描く前で映画は終わる。起承転結でいえば、「結」のない映画。物語の結末ではなく、登場人物の心が揺らぐ過程そのものが主題になっている。

僕たちの現実が、映画のようなくっきりした結末を迎えることはまずない。いろいろな出来事が重なり合い、もつれ合いながら今日も明日もつながってゆく。この映画は、そうした時間の流れのある部分を切り取ってみた、そんな印象をもつ。だからこそ、この映画がリアルなものとして迫ってくるのだと思う。

映画のなかに笑顔や笑い声がほとんどない。音楽もまったく入らず、その代わり雨の音、窓外の町の音、ガラスとガラスが触れ合うかすかな音が効果的。相手を問い詰め、あくまで自分を主張する重苦しい画面がつづくけれど、それだけに最後、娘のリュシーがかすかに微笑むのに救われる。

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