『アクト・オブ・キリング』 グロテスクな傑作
The Act of Killing(film review)
30年前のことだけど『危険な年』(ピーター・ウェアー監督)というオーストラリア映画を見たことがある。メル・ギブソン演ずるジャーナリストが、派遣されたスカルノ政権末期のジャカルタでクーデタに巻き込まれる。よくできた政治サスペンス映画だった。ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング(原題:The Act of Killing)』を見るまで、「9.30事件」についてはそれ以外ほとんど知らなかった。
「9.30事件」は1965年9月30日、国軍の親共産党とされた将校団がクーデターを試み、後にスカルノを追い落として大統領になったスハルト少将がこれを鎮圧、それをきっかけに共産党系の100万とも200万人とも言われる市民を虐殺した事件をいう。殺されたのは共産党関係者だけでなく、多くの普通の市民、小作農、華僑、知識人が犠牲になった。この映画を見るまで知らなかったけど、さすがに国軍が市民を殺すわけにいかず、殺害を実行したのはフリマンと呼ばれるやくざ・民兵組織だった。
この映画の主役は、北スマトラで1000人以上の市民を殺したフリマンのアンワル・コンゴ。アンワルだけでなく、虐殺を実行したフリマンたちは、後に罪を問われないとのお触れが出て、その体制が今も続いているから「国民的英雄」なんだそうだ。いかにもやくざファッションに身を固めたアンワルは、今も顔役然としている。国営テレビにも出るし、政治家にも顔が利くらしい。
アメリカ人のジョシュア・オッペンハイマー監督はそのアンワルに、虐殺を自分たちで再現した映画をつくることを提案し、アンワルはそれを受け入れる。「俺たちの歴史を知らしめるチャンスだ」と語るアンワルにとって、虐殺は「正義」として認識されている。映画の冒頭はアンワルと民兵組織パンチャシラ青年団のリーダーで役者経験のあるヘルマン・コトの2人が、殺される市民役を町で募集しているシーンから始まる。
アンワルは古い建物の屋上に出て、どうやって市民を殺したかを再現して見せる。ナイフで殺すと多くの血が流れて臭いがひどいので、一方の端を固定した針金を犠牲者の首に巻きつけ、もう一方の端を強く引っぱって殺すとあまり血が出ないのだ、と嬉々として説明する。殺した後はこんなふうに皆で踊ったんだよ、といって踊ってみせる。昔の仲間も駆けつけ、パンチャシラ青年団の集会にも参加する。ハリウッド映画大好きのアンワルは、自分が映画の主役になることで機嫌がいい。
最初は楽しげなアンワルの様子が変わってくるのは、農村で女性や子供を虐殺した場面を再現するあたりからだ。火に追われ、逃げまどう女子供をアンワルは黙って見ている。次に、アンワルが犠牲者役になり殺人者役のヘルマンによって首に針金を巻かれ殺される場面を撮影することになる。首を絞められ、苦悶の表情を浮かべるアンワルの右手が痙攣する。「カット」の声がかかって、アンワルは「限界だ」と語る。その恐怖の表情と右手の震えは、果たしてアンワルの演技なのか分からない。
さらに、アンワルの悪夢を再現するシーンも撮影される。アンワルは、殺した犠牲者の目を自分で閉じてこなかった些細な出来事がトラウマになり、閉じてこなかった目を持つ悪魔に襲われる悪夢にうなされているらしい。やがて、すっかり無口になったアンワルがつぶやく。「殺される女や子供の気持ちになっていた」「俺は後悔してるよ」「まるで世界の終わりに生きてるようだ」。
アンワルは過去の自分を演ずることによって、当時の記憶を呼び出し、追体験することになった。しかし呼び出されたのは「正義」の行動だけでなく、殺された者たちの記憶もまた闇から呼び出された。犠牲者役を演じたとき、アンワルは自ら殺した者に憑依されてしまったように見える。
アンワルたちがつくろうとしている「映画」は、第三者から見ればそのチープさと意味するものの恐ろしさの落差に笑いも凍りつくブラック・コメディであり、そのなかには幻想的なシーンも挿入されている。魚型のはりぼてから女性たちが出てきて、ゆったりした音楽に合わせて踊る。黒スーツのアンワルと女装のヘルマンがそれを眺めている。別の幻想場面では、大きな滝をバックに司祭のような服装のアンワルと女たちが「ボーン・フリー」の曲に合わせて神を讃えるような仕草をしている。アンワルたちはこのシーンが気に入っているらしいが、殺人を再現した場面のなかに挿入されることで、非現実的な悪夢のようにも見えてくる。
一方、アンワルの日常を追うシーンもある。過去の栄光に酔い、ときに悪夢にさいなまれるアンワルも、普段は人なつこい男だ。家庭では2人の孫のおじいちゃんでもある。孫に自分が演じた殺されるシーンを見せるあたり、どういう神経か理解しがたいけど、、、。でも日常のこういう顔はアンワルだけでなく、中国大陸や南京で非戦闘員を虐殺した日本兵も、国に帰ってからはこういう顔で、なにごともなかったように戦後を暮らしたんだろう。
この映画はいわゆるドキュメンタリーとは少し違う。ジョシュア・オッペンハイマー監督はアンワルを記録するだけでなく、アンワルの過去の行為を再現してもう一本の「劇映画」をつくり、その過程を記録した。いわゆる「メイキング」の手法を借りている。そしてアンワルに「演ずる(act)」という行為(act)をうながしたことで、結果的に普通のドキュメンタリーでは絶対に表に出てこないものを呼び出してしまった。それがこの映画のすごいところだ。
人間の二面性と言ってしまってはあまりに単純すぎるけれど、善でもあり悪でもあり、そういう二面性を一人ひとりが抱えている人間存在の不可思議さあるいはおぞましさを、あからさまに見せてくれた。ラストシーン、かつての虐殺現場で嘔吐したアンワルは、黙って町に消えてゆく。
エンドロールで共同監督、撮影、録音など多くのスタッフが「アノニマス(匿名)」としてクレジットされる。インドネシア人である彼らは、名前を出せば今も危険があるということだろう。ウェルナー・ヘルツォークが製作者として名を連ねている。ヘルツォークばりのアイディアやシーンのいささかの胡散臭さも含めて、グロテスクな傑作だった。
Comments
1つの映画から、またどこへ行くとも知れない別のものが引き出されてきたという、
めったに作れないような映画が結果としてできたことになりますね。
彼らは今後、どのように生きていくのか。それも気になります。
生き方を変えることは難しいかもしれないでしょうね。
Posted by: rose_chocolat | April 22, 2014 09:21 AM
今の体制が変わらない限り、彼らは相変わらず「国民的英雄」だし、虐殺の真相も明らかにされないのでしょう。日本では権力とやくざ(闇組織)の腐れ縁にようやく多少のメスが入るようになりましたが、かの国ではまだその結びつきは強いようですね。
たとえアンワルの個人的な、またいっときのものであれ、映画がその裂け目を白日の下にさらしたのを評価したいと思います。
Posted by: 雄 | April 22, 2014 12:08 PM