« March 2014 | Main | May 2014 »

April 25, 2014

吉田修一『怒り』を読む

Ikari

サイト「ブック・ナビ」に吉田修一『怒り(上下)』(中央公論新社)の感想をアップしました。

http://www.book-navi.com/

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 19, 2014

『アクト・オブ・キリング』 グロテスクな傑作

The_act_of_killing
The Act of Killing(film review)

30年前のことだけど『危険な年』(ピーター・ウェアー監督)というオーストラリア映画を見たことがある。メル・ギブソン演ずるジャーナリストが、派遣されたスカルノ政権末期のジャカルタでクーデタに巻き込まれる。よくできた政治サスペンス映画だった。ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング(原題:The Act of Killing)』を見るまで、「9.30事件」についてはそれ以外ほとんど知らなかった。

「9.30事件」は1965年9月30日、国軍の親共産党とされた将校団がクーデターを試み、後にスカルノを追い落として大統領になったスハルト少将がこれを鎮圧、それをきっかけに共産党系の100万とも200万人とも言われる市民を虐殺した事件をいう。殺されたのは共産党関係者だけでなく、多くの普通の市民、小作農、華僑、知識人が犠牲になった。この映画を見るまで知らなかったけど、さすがに国軍が市民を殺すわけにいかず、殺害を実行したのはフリマンと呼ばれるやくざ・民兵組織だった。

この映画の主役は、北スマトラで1000人以上の市民を殺したフリマンのアンワル・コンゴ。アンワルだけでなく、虐殺を実行したフリマンたちは、後に罪を問われないとのお触れが出て、その体制が今も続いているから「国民的英雄」なんだそうだ。いかにもやくざファッションに身を固めたアンワルは、今も顔役然としている。国営テレビにも出るし、政治家にも顔が利くらしい。

アメリカ人のジョシュア・オッペンハイマー監督はそのアンワルに、虐殺を自分たちで再現した映画をつくることを提案し、アンワルはそれを受け入れる。「俺たちの歴史を知らしめるチャンスだ」と語るアンワルにとって、虐殺は「正義」として認識されている。映画の冒頭はアンワルと民兵組織パンチャシラ青年団のリーダーで役者経験のあるヘルマン・コトの2人が、殺される市民役を町で募集しているシーンから始まる。

アンワルは古い建物の屋上に出て、どうやって市民を殺したかを再現して見せる。ナイフで殺すと多くの血が流れて臭いがひどいので、一方の端を固定した針金を犠牲者の首に巻きつけ、もう一方の端を強く引っぱって殺すとあまり血が出ないのだ、と嬉々として説明する。殺した後はこんなふうに皆で踊ったんだよ、といって踊ってみせる。昔の仲間も駆けつけ、パンチャシラ青年団の集会にも参加する。ハリウッド映画大好きのアンワルは、自分が映画の主役になることで機嫌がいい。

最初は楽しげなアンワルの様子が変わってくるのは、農村で女性や子供を虐殺した場面を再現するあたりからだ。火に追われ、逃げまどう女子供をアンワルは黙って見ている。次に、アンワルが犠牲者役になり殺人者役のヘルマンによって首に針金を巻かれ殺される場面を撮影することになる。首を絞められ、苦悶の表情を浮かべるアンワルの右手が痙攣する。「カット」の声がかかって、アンワルは「限界だ」と語る。その恐怖の表情と右手の震えは、果たしてアンワルの演技なのか分からない。

さらに、アンワルの悪夢を再現するシーンも撮影される。アンワルは、殺した犠牲者の目を自分で閉じてこなかった些細な出来事がトラウマになり、閉じてこなかった目を持つ悪魔に襲われる悪夢にうなされているらしい。やがて、すっかり無口になったアンワルがつぶやく。「殺される女や子供の気持ちになっていた」「俺は後悔してるよ」「まるで世界の終わりに生きてるようだ」。

アンワルは過去の自分を演ずることによって、当時の記憶を呼び出し、追体験することになった。しかし呼び出されたのは「正義」の行動だけでなく、殺された者たちの記憶もまた闇から呼び出された。犠牲者役を演じたとき、アンワルは自ら殺した者に憑依されてしまったように見える。

アンワルたちがつくろうとしている「映画」は、第三者から見ればそのチープさと意味するものの恐ろしさの落差に笑いも凍りつくブラック・コメディであり、そのなかには幻想的なシーンも挿入されている。魚型のはりぼてから女性たちが出てきて、ゆったりした音楽に合わせて踊る。黒スーツのアンワルと女装のヘルマンがそれを眺めている。別の幻想場面では、大きな滝をバックに司祭のような服装のアンワルと女たちが「ボーン・フリー」の曲に合わせて神を讃えるような仕草をしている。アンワルたちはこのシーンが気に入っているらしいが、殺人を再現した場面のなかに挿入されることで、非現実的な悪夢のようにも見えてくる。

一方、アンワルの日常を追うシーンもある。過去の栄光に酔い、ときに悪夢にさいなまれるアンワルも、普段は人なつこい男だ。家庭では2人の孫のおじいちゃんでもある。孫に自分が演じた殺されるシーンを見せるあたり、どういう神経か理解しがたいけど、、、。でも日常のこういう顔はアンワルだけでなく、中国大陸や南京で非戦闘員を虐殺した日本兵も、国に帰ってからはこういう顔で、なにごともなかったように戦後を暮らしたんだろう。

この映画はいわゆるドキュメンタリーとは少し違う。ジョシュア・オッペンハイマー監督はアンワルを記録するだけでなく、アンワルの過去の行為を再現してもう一本の「劇映画」をつくり、その過程を記録した。いわゆる「メイキング」の手法を借りている。そしてアンワルに「演ずる(act)」という行為(act)をうながしたことで、結果的に普通のドキュメンタリーでは絶対に表に出てこないものを呼び出してしまった。それがこの映画のすごいところだ。

人間の二面性と言ってしまってはあまりに単純すぎるけれど、善でもあり悪でもあり、そういう二面性を一人ひとりが抱えている人間存在の不可思議さあるいはおぞましさを、あからさまに見せてくれた。ラストシーン、かつての虐殺現場で嘔吐したアンワルは、黙って町に消えてゆく。

エンドロールで共同監督、撮影、録音など多くのスタッフが「アノニマス(匿名)」としてクレジットされる。インドネシア人である彼らは、名前を出せば今も危険があるということだろう。ウェルナー・ヘルツォークが製作者として名を連ねている。ヘルツォークばりのアイディアやシーンのいささかの胡散臭さも含めて、グロテスクな傑作だった。

| | Comments (2) | TrackBack (2)

April 15, 2014

『アデル、ブルーは熱い色』 饒舌と満腹

Laviedadele
La Vie d'Adele(film review)

見終わって、近頃こんなに満腹感のある映画もなかったなあ。なにに満腹したかといえば、愛とセックス、食べ物、それに言葉と映像。同性に惹かれてゆく若い女性の心、女性同士のセックス・シーン、文学や絵画の話題がちりばめられたスノビッシュな会話、主人公たちの顔や肌に肉薄する映像。上映時間180分の間、目からも耳からもフランス的饒舌を絶え間なく注ぎこまれた感じがする。

『アデル、ブルーは熱い色(原題:La Vie d'Adele)』のストーリーはごくシンプル。高校生のアデル(アデル・エグザルコプロス)が美大生のエマ(レア・セドゥ)に出会い、恋に落ち、別れるラブ・ストーリーだ。主人公のアデルとエマが女性でレズビアンであることが、普通のラブ・ストーリーとちがうところ。

映画はまず、アデルの学校での日常を追う。彼女は普通の女の子らしく上級生の男子学生とデートするようになる。が、仲間の女子高生にキスされたことから女性に惹かれることに気づき、街ですれちがった、髪を青く染めたエマに目を奪われる。ボーイフレンドと別れ、やがて深夜のバーでエマに再会する。ここまでたっぷり1時間。

アデルとエマはすぐに恋に落ち、互いを求めあう。こんな濃厚なラブ・シーンはあんまり記憶にない。男と女だけど、『ラスト・コーション』のラブ・シーンもこれに比べればおとなしいものだった。映画で女性同士のラブシーンがこんなにリアルに描写されたのは初めてじゃないかな。密着したカメラが頬や肌がほのかに紅く染まるディテールまで写しだす。

レア・セドゥはフランスの若手No.1女優。美少女の印象があったけど、長髪を切って染め、少年みたいな笑顔が素敵だ。アデル・エグザルコプロスはギリシャの血が入った女優。髪を無造作にアップにし、開きかげんの唇が魅力的だ。二人とも、その役者魂は見上げたもの。この二人がいなければ成り立たなかった映画で、アブデラティク・ケシシュ監督だけでなく二人にもカンヌ映画祭のパルムドールが与えられたのは当然だろう。

性と食は人間の生きる根源だけど、セックス・シーンだけでなく二人が食べるシーンも繰り返し出てくる。生牡蠣をするりと飲み込み(生牡蠣が何かに似ている、といった会話もある)、トマトソースのパスタを頬張って食べる。アデルの少し品のない食べ方が彼女のなにごとかを物語っている。

そして登場人物の誰もがよくしゃべる。エマは画家志望で、知的。アデルは普通の中産階級の女の子。エマがアデルをリードして、「愛は性の垣根を越える」とか、アデルをモデルに絵を描きながら「あんたは創造の女神で美の源泉」なんてセリフがぽんぽん出てくる。『クレーヴの奥方』や『マリアンヌの生涯』といったフランスの古典恋愛小説が朗読され(こんなのを高校の授業で読んでいるのか)、クリムトやエゴン・シーレ、ピカソといった画家、キューブリックやスコセッシといった映画監督の名前がちりばめられた会話がつづく。サルトルの『実存主義とは何か』も話題になる。180分間、とにかく言葉が詰まってる。

詰まっているのは言葉ばかりじゃなく、画面には青が氾濫している。アデルが最初にエマを見かけたとき、エマは髪を青く染め、ブルーのジャケットとジーンズを着ている。アデルがエマと恋人同士になると、エマの色に染まるようにアデルも青い服を身にまとうようになる。2人が出会うクラブも別れのレストランも青。青が二人の色なのだ(英語題名はBlue is the warmest colour)。とくにエマは青がよく似合う。映画のなかで名前が出るピカソの「青の時代」とも響きあっているかもしれない。

撮影のソフィアン・エル=ファニは手持ちカメラでふたりの顔や上半身に密着している。180分間、二人のクローズアップやバストショットが多く、さらにレインボー・フラッグを掲げたゲイやレズビアンのデモでも激しくカメラが動く。密接した距離感に圧倒されると同時に、いささか疲れもした。

これはフランス映画だけど、今のフランスの現実を映すようにアフリカの匂いがする。監督のアブデラティフ・ケシシュはチュニジア生まれ。撮影のソフィアンもチュニジア出身だし、共同脚本のガリア・ラクロワもチュニジア映画に出演する女優から脚本家に転向した人。だから脇役でアフリカ系やアラブ系の顔がたくさん登場するし、映画のテイストもフランス的なエレガンスとはちょっと違っていた。それも満腹感と関係しているかもしれない。


| | Comments (2) | TrackBack (6)

April 04, 2014

雨中の夕焼け

1404041w
the evening glow in rain

時折大きな雨粒が降るなか、いきなり西の方が明るくなり強い日差しが数分だけ町を照らした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 02, 2014

『新しき世界』 中国朝鮮族の貌

Photo
New World(film review)

『仁義なき戦い 代理戦争』はやくざ組織内部の跡目相続に端を発した血みどろの派閥抗争の映画だった。『インファナル・アフェア』はマフィア組織に潜入した警察官と、警察内部に潜入したマフィアの二人が主人公の映画だった。『新しき世界(原題:新世界)』はその両方、跡目相続の派閥抗争と潜入捜査が二つながら絡んだ韓国ノワール。『仁義なき戦い』と『インファナル・アフェア』を引き合いに出したのは、ノワールの傑作であるこの2本と比べてみたくなるような出来だったからだ。

韓国最大のマフィア組織ゴールドムーンの会長が事故死する(謀殺?)。跡目を狙うのはNo.2のチョン・チョン(ファン・ジンミン)とNo.3のジュング。潜入捜査官ジャソン(イ・ジョンジェ)はチョン・チョンの右腕となっている。ジャソンを送り込んだソウル警察のカン課長(チェ・ミンシク)は両派の抗争に乗じ、ジャソンを通じて組織を操る「新世界プロジェクト」を発動させる──。

興味深いのは組織のNo.2、チョン・チョンと潜入捜査官のジャソンがともに中国朝鮮族(字幕は「華僑」)に設定されていることだ。中国から韓国へ渡った朝鮮族であるチョン・チョンは、中国マフィア相手の取引を一手に仕切ってのしあがってきた。ジャソンもまた中国から来た朝鮮族(あるいはその子供?)であることを知ったカン課長は、ジャソンを潜入捜査官としてチャン・チャンのもとへ送り込む。

こうした設定の背景には、いま韓国には中国東北地方から出稼ぎにきた中国朝鮮族がたくさんいるという事実がある。彼らはなんとかして永住権や韓国籍を獲得しようとし、成功すれば中国から家族を呼び寄せて定住する。ソウル南郊の工場地帯にはそんな中国系朝鮮族が多く住む地域があり、町ではハングルではなく漢字が幅をきかせている。中国朝鮮族のマフィアも跋扈している(宮家邦彦)。

そんな現実があるからこそ、チョン・チョンがNo.2にのしあがったという設定にリアリティがあるんだろう。もうひとつ面白かったのは、チョン・チョンはヒットマンとして朝鮮族自治州のある吉林省延辺からごろつきを呼び寄せる。彼らの服装はいかにも貧しく、韓国のことを「南朝鮮」と呼ぶから、北朝鮮からの脱北者だろう。

だからこの映画では韓国人と中国朝鮮族、脱北者が入り乱れ、韓国語と中国語(北京語かどうか判別つかないが)が飛びかう。そしてネタバレしてしまえば、最後に中国朝鮮族が生き残るという皮肉な結末になる。

韓国映画らしく、なんとも濃い人間描写をこれでもかと見せてくれる。潜入捜査官ジャソンは、上司であるカン課長の指令と、兄貴分チョン・チョンとの友情に引き裂かれ、苦悩の表情を浮かべている。カン課長とジャソンの連絡係で囲碁の教師を装った女性警察官の正体がばれ、拷問された彼女を、ジャソンは無言で射殺する。ジャソンの妻もまた、カン課長の指令で送り込まれた監視員であることを、ジャソンは知らない。チョン・チョンは、中国マフィアのハッカーが入手した情報からジャソンが潜入捜査官であることを知るが、そのことを誰にも漏らさず死んでゆく。カン課長は、潜入を終わりにしてくれと願うジャソンの心を知りながら非情な命令をくだす。

ダークスーツでクールなイ・ジョンジェと、サングラスにパンチパーマで跳ね回るファン・ジンミン、それに無精髭のチェ・ミンシクが、それぞれたっぷりと見せてくれる。シネマート六本木は女性客ばかりだったけど、ジョンジェとジンミン、どっちのファンなんだろう。

もうひとつ見惚れたのは、チョン・ジョンフンのカメラ。死体詰めドラム缶を投下する仁川(?)の海、雨の港、エレベーター内部の殺し合いを上から俯瞰するショット、車内のイ・ジョンジェを見上げる背後でウィンドーを流れる雨滴、、、。記憶に残るショットがたくさんある。パク・チャヌクと組んで『オールドボーイ』や『イノセント・ガーデン』で見せた映像感覚が冴えてる。

パク・フンジョン監督の長編2作目(1作目は日本未公開)。この映画の前と後のエピソードで3部作になる予定だそうだ。ラストシーンはその前編につながるエピソード(不要に思えたが)。『仁義なき戦い』や『インファナル・アフェア』に並ぶ傑作ノワールになりそうで楽しみだ。


| | Comments (0) | TrackBack (6)

« March 2014 | Main | May 2014 »