『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』 強くない男
アレクサンダー・ペイン監督の映画にはいつも共通項がある。ひとつは、たいていの映画がロード・ムーヴィーになっていること。『アバウト・シュミット』でジャック・ニコルソンはキャンピング・カーでデンバーに旅するし、『サイドウェイ』でポール・ジアマッティたちはカリフォルニアのワイナリーを次々に訪れる。『ファミリー・ツリー』でハワイのオアフ島に住むジョージ・クルーニーはカウアイ島へ行く。そうした旅の途中で、あるいは旅先で起きる出来事が物語の中心になっている。同時に旅する主人公たちを取り囲む風景が彼らの心象に重なってくる。
もうひとつの共通項は、ペイン監督が描くのがアメリカ人好みの「強い男」とは正反対の男たちであること。ジョン・ウェインに象徴されるように、アメリカ映画は「強い男」を繰り返し描いてきた。「強い男」が成功して勝者になればアメリカン・ドリームの物語になるし、一匹狼を貫いて組織や国家に対抗すれば、たとえ敗者となっても「敗れざる者(undefeated)」として尊敬される。勝っても負けてもアメリカ映画は「強い男」が大好きなのだ。
でもペイン監督は、いつもそんな典型的アメリカ人像からはみだした男たちを主人公に据えてきた。挫折した作家志望の高校教師と、元テレビ映画のスターで過去の栄光にしがみつく役者2人組の切ない旅を描いた『サイドウェイ』なんか、その典型だろう。
『ネブラスカ(原題:Nebraska)』も同じ共通項をもっている。冒頭、老人のウディ(ブルース・ダーン)がモンタナから1200キロ離れたネブラスカへ行こうとフリーウェイをとぼとぼ歩いているショットで、いきなりロード・ムーヴィーが始まる。若い頃から他人をたやすく信じ、ボケも始まっているらしいウディは、「100万ドル差し上げます(もし当選すれば)」という詐欺的な勧誘広告を信じて、ネブラスカまで歩いていこうとしている。
息子のデイビッド(ウィル・フォーテ)は父を家に連れ戻すが、父はまた家を出て彼の故郷であるネブラスカを目指し歩きはじめる。結局デイビッドは父を車に乗せ、父の故郷まで旅することを決める。ウディの妻で口うるさいケイト(ジューン・スキッブ)は、あんたまでそんなたわごとを信じるのかと息子をなじる。
旅のルート、モンタナから中西部のサウスダコタ、ネブラスカ一帯はグレートプレーンズと呼ばれ、一大穀倉地帯になっている。映画は、小麦畑だろうか低い台地がうねるようにどこまでも続く大平原の風景をモノクロームで映し出す。モンタナの町には雪があり、小麦畑は収穫後の風景。親子は冬用のジャケットを着ているから、季節は晩秋だろう。
グレートプレーンズの見事なモノクロームの映像が、過去でもあり現在でもあるような不思議な感触を見る者に伝えてくる。アメリカの原風景。旅の途中で立ち寄るダイナーやバー、またネブラスカの故郷の町ホーソーン(架空の町)も時間が止まったようなたたずまい。ウディとデイビッドが目にする懐かしくも寂しい白黒の映像が、この映画の大きな魅力だ。
ウディとデイビッドはホーソーンに着き、ウディの兄弟の家に滞在することになる。この家の2人の息子は太目で田舎男まるだし。デイビッドとは話が合わない。両方の家族が憮然として居間に座り無言でテレビをながめている(カメラを見詰める)ショットがおかしい。
妻のケイトも2人を追っかけてやってくる。ウディとケイトはこの町の出身で、ここで恋人同士になり、結婚し、工場を経営していた。でも何らかの事情で工場を手放したらしい。ウディに100万ドルが当たったと聞いて、親類縁者は昔の貸しを言い立て分け前をよこせとウディに迫る。そこにケイトが現れて、四文字言葉を使って人でなしと彼らに啖呵をきるのが、なんとも格好いい。
それまでなにかとウディに小言ばかり言っていたケイトが、かつて故郷で人のいいウディをそんなふうにして庇っていたんだと、見る者にわかってくる。おまけに墓地へ行ったケイトは、昔彼女の「パンツに手を突っ込もうとした男」の墓石に向かってスカートをたくしあげて見せるお茶目ぶり。そのあたりから、老夫婦の関係に息子にもうかがい知れない親密さが流れているのが見えてくる。そんなふたりにとって、故郷は懐かしいというより苦い。
ところで父親思いのデイビッドも風采の上がらない中年男だ。オーディオ店をやっているらしいが、繁盛しているようには見えない。独り者で、ガールフレンドと別れたばかり。そんなデイビッドも最後に格好いいところを見せる。父親を侮辱したかつての共同経営者にパンチをくらわせる。ウディの夢だったピックアップ・トラックを買ってやり、故郷の町を父親に運転させる。かつてウディに思いを寄せていた老婦人が、トラックを運転するウディを感慨深くながめるのを尻目に、ウディは気持ちよく車を運転する。
そんなどこにでもいる普通の男たちの心の揺れと思いやりを、アレクサンダー・ペイン監督はていねいに描いている。彼の一貫した姿勢は、アメリカ映画を支配する「強い男」への穏やかな異議申し立てとも見える。
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