『コーヒーをめぐる冒険』 水晶の夜の記憶
もちろんドイツ映画にもコメディやハートウォーミングな作品はあるんだろうけど、日本で公開されるのはファスビンダーやヘルツォークのニュー・ジャーマン・シネマ以来、なぜか重くシリアスな映画が多い。若い世代でハリウッドへ行ったトム・ティクヴァなんかも、笑いの要素はあまりない。だからドイツ映画というと、つい身構えてしまう。でも『コーヒーをめぐる冒険(原題:Oh Boy)』は軽い気分で心地よく見られる映画だった。
35歳になるヤン・オーレ・ゲルスター監督のドイツ映画テレビ・アカデミー卒業作品。処女作でドイツ内外の賞をずいぶん獲っている。同じ卒業制作の『パーマネント・バケーション』で注目され、2作目の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でカンヌの賞を獲ったジム・ジャームッシュのデビュー時と比較する声が多いみたいだ。確かにモノクロームの映像といい、奇妙な味のユーモアといい、共通するところは多い。でもこの映画にはジャームッシュのひりひりと乾いた感じはなく、そのかわりクールではあるが穏やかに世の中を見つめる眼差しを感ずる。
たとえば画面に流れる音楽。『パーマネント・バケーション』は鋭いサックスに合わせて主人公が踊るし、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』はジョン・ルーリーの音楽だった。それに対して『コーヒーをめぐる冒険』はオーソドックスなフォービートのジャズ。それがベルリンの街角にかぶさると空気が温かくなる。
モノクロの画面も、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』はコントラストの強い、粗い画面だった記憶があるけれど、こちらはコントラストの高くない中間調。レンズもジャームッシュが広角系を多用しているのに対し、ゲルスターは標準や望遠系も使っている。だからジャームッシュが出てきたときみたいな新しさは感じないけど、その穏やかさこそ今のこの世代の空気なのかもしれない。
教科書どおりという感じもある。例えば2人の会話。切り返しで2人の上半身が映されるけれど、必ず手前に相手や小道具をぼかして入れる。よくある撮り方。例えば小津は2人の会話で切り返すとき手前になにも映さないし、視線が噛み合わない。それが小津独特のリズムを醸しだす。ゲルスターは当然ながらまだそういう個性を出すところまでいっていない。
朝、ガールフレンドと気まずい別れでコーヒーを飲みそこねたニコ(トム・シリング)が、次々にいろんな人間と出会う。翌朝、やっとコーヒーにありつくまでの24時間。自分のアパートへ戻ると階上の男から愚痴を聞かされる。友人のマッシュ(マルク・ホーゼマン)とカフェにいると、小学校の同級生で太目だったユリカ(フリデリーケ・ケンプター)と出会い、ダンスのパフォーマンスに誘われる。不良グループに因縁をつけられる。ユリカといい具合になりそうなところで、ユリカがエキセントリックに昔自分をからかったことを責めはじめる。深夜のバーで老人から戦時中の話を聞かされる。
老人が話すのが、子供時代の水晶の夜の記憶であることに、おっ、と思った。水晶の夜は1938年、ベルリンでナチスを支持する市民がユダヤ人街を襲った暴動。多数の死傷者が出て、砕けたガラスの破片が月光できらきら輝いていたことからこう呼ばれる。子供だった老人は父とともにユダヤ人に石を投げた記憶を語って、倒れる。老人が最後に語るのが加害の記憶であることに、戦後ドイツの精神風景が垣間見えると思ったのは大げさだろうか。
でも先週、ドイツ当局が元ナチでユダヤ人収容所の看守だった94歳のドイツ人を追跡し逮捕したというニュースを読んだりすると、敗戦から70年近く、あの戦争への対処の仕方がわれわれとあまりにかけ離れているのに改めて驚く。今も戦犯の追及がつづくドイツで、老人が倒れる前に語る水晶の夜の記憶は苦い悔恨をともなうものだったろう。一方、日本でこの映画をつくるなら、老人は例えば東京大空襲で逃げまどった記憶、どんなひどい目に会ったかという被害の記憶をセンチメンタルに語るような気がする。
もっとも、そういうことが突き詰められてる映画じゃない。老人を病院に運び、朝、街に出たニコがやっとありついたコーヒーにほっと一息つき、心地よいジャズが流れて映画は終わる。あてどない、宙吊りになったニコの日常も父親から仕送りを断たれ、この日から自立の日々が始まる。いかにも卒業制作らしい、勉強しましたというところの見える映画だけど、楽しめる作品にはなっていた。
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