『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 アメリカの(悪)夢
The Wolf of Wall Street(film review)
『ウルフ・オブ・ウォールストリート(原題:The Wolf of Wall Street)』の情報を読んだときいかにもアメリカらしいなと思ったのは、詐欺やマネー・ロンダリングで実刑をくらった原作者ジョーダン・ベルフォートの名前が、そのままレオナルド・ディカプリオの役名になっていること。犯罪者の伝記を実名で映画化するのを許可する当人も、実名でつくるほうも、社会意識がこの国とはずいぶん違うなと思った。そういえば映画のなかで、「どんな宣伝でも悪い宣伝はない」と言ってたっけ。
何年か前、アメリカで貧富の激しい格差に対しウォール街占拠の運動が広がったとき、1%対99%というスローガンが生まれた。1%の富裕層には代々の富豪というケースも多いけれど、年収49億円を誇ったジョーダンは成り上がり。ニューヨークのブロンクスで、会計士という普通の中流家庭に生まれた。1980年代にウォール街の投資銀行に入り、ブローカーの資格を取ったとたんにブラック・マンデーで失職、クイーンズの小さな証券会社に再就職する。そこでジャンク株を詐欺的に売りつける商法で儲けたジョーダンは仲間とガレージの一室に会社をつくり、怪しげな商売でウォール街へとのし上がってゆく。
ジョーダン(ディカプリオ)の武器は言葉。映画の冒頭から、ジョーダン自身のナレーションで(時にカメラを見つめながら)自分の豪華な生活を解説し、その後も180分の上映時間を最後までしゃべりまくる。電話一本で会ったこともない相手を信用させ、何万ドルもの契約を取りつける。客だけでなく仲間のドニー(ジョナ・ヒル)や社員に向かっても、どんなふうにして客から金を引き出すか、まるで新興宗教の教祖のようにしゃべりまくって洗脳し、その気にさせる。かせぎがあれば、オフィスにストリッパーを呼んで乱痴気パーティの日々。
ウォール街に就職したときの最初のボス、マーク(マシュー・マコノヒー。この役も実名)はジョーダンに、この世界で生きぬくのに必要なのはセックスとドラッグだと教える。ジョーダンはその教えを守って朝からドラッグをやり、娼婦とセックスする。パーティに来たナオミ(マーゴット・ロビー)に惚れて、妻と離婚しナオミと再婚する。ロング・アイランドに豪邸を建て、自家用ヘリでニューヨークと行き来する。ロング・アイランドは、去年ディカプリオ主演で公開された『グレート・ギャツビー』の主人公の邸宅もここに設定されていた白人富裕層の住宅地だ。
だからこの映画には言葉と100ドル紙幣とセックスとドラッグが洪水のようにあふれてる。マーティン・スコセッシ監督は短いショット、早口の台詞、ジョーク、四文字語の乱発、セックス・シーン、絶えず流れるアメリカン・ポップスといった要素を総動員して異常なハイテンションの映画に仕立てた。その素材と手法のクレイジーぶりが、この映画の核になっている。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はアメリカン・ドリームを巡る映画だ。それが、ポジでもありネガでもあるような。金も学歴もないところから身を起こし、年収49億円にまで登りつめた男。しかしその金は法に触れるやり方でかせいだものだった。スコセッシはそれを賞賛もしないし、断罪もしない。ただジョーダンの成り上がりと転落をふつうの映画からははみ出したハイテンションで見せてくれる。
僕はこの普通じゃないテンションを、アメリカン・ドリームを極端化することでバッド・ドリームとして見せるスコセッシ監督の批評的な目と受け取った。でもジョーダンを断罪する明らかなメッセージが映画にはないから、このテンションを逆に賞賛と受け取る人もいるかもしれない。事実wikipediaを読むと、アメリカでも保守的な観客から「無責任な賛美」「有罪だったことをどう考えるのか」といった声が上がったようだ。
もともとスコセッシ監督の映画には『グッドフェローズ』や『アビエイター』『ギャング・オブ・ニューヨーク』など、主人公に過剰に感情移入せず叙事的に物語るスタイルのものが多い。これもその流れの一本だけど、同時にディカプリオ主演で犯罪者を映画化するに当たって、観客に多様な受け取り方を許すこのスタイルがいいという判断もあったかもしれない。
スコセッシの叙事的なスタイルの映画は当たりはずれが大きいけど、これは当たりの一本。3時間近くをあっという間に駆け抜ける。ディカプリオはブラピと競って原作の映画化権を獲得しただけに、ドラッグでぶっ飛んだヘロヘロからお尻蠟燭セックスまで楽しそうに演じてる。ジョーダンの父役で出るロブ・ライナーは『スタンド・バイ・ミー』の監督。
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