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February 23, 2014

『家族の灯り』 映画史を体現する監督

Ogeboeasombra
O Gebo e a Sombra(film review)

『家族の灯り(原題:O Gebo e a Sombra)』の監督、マノエル・ド・オリヴェイラは105歳。現役最年長の映画監督だ。2003年に開かれた小津安二郎のシンポジウムに出席するため来日したことがある。会場で見たオリヴェイラ監督は95歳とは思えない若々しさだった。

オリヴェイラ監督の映画を初めて見たのは『アブラハム渓谷』(1993)。『ボヴァリー夫人』を現代ポルトガルに置きかえた女主人公の物語だった。このとき監督85歳。そこから最新作の『家族の灯り』まで、80歳代、90歳代、100歳代の19年間で短編も含め実に25本の映画をつくっている。信じがたいエネルギー。なかでも101歳でつくった『ブロンド少女は過激に美しく』の若々しいエロティシズムにびっくりした。

オリヴェイラが生まれたのは1908年。リュミエール兄弟が世界最初の映画を撮影したのが、そのほんの十数年前の1895年。オリヴェイラが最初の短篇映画をつくった1931年は、最初のトーキー映画が公開された2年後。だからオリヴェイラは映画の歴史とともに歩んできたといっても過言ではない。『家族の灯り』はそんなオリヴェイラ監督が若き日に出会った、映画という20世紀の新しい表現の原点に戻ったような、映画の青春期を彷彿させる作品だった。

冒頭、岸壁で船をバックに男のシルエットが写る。遠近感のない絵画のような平面性と、渋く深い色彩。波が光り、男が去る。光と影のコントラストが強烈な街路。男が歩いてくると、影のなかで何者かが襲いかかる。犯罪者の両手のアップ。逃げ去る影。まるで無声映画を見ているようだ。交錯する光と影は『カリガリ博士』みたい。

舞台は一転して屋内。ジェボ(マイケル・ロンズデール)とドロティア(クラウディア・カルディナーレ)の老夫婦が、失踪した息子の妻と3人家族でつましく暮らしている。ジェボは妻のドロティアに息子が家を出た事情を一切話していない。ドロティアは息子の帰りをひたすら待っている。隣人のカンディディナ(ジャンヌ・モロー)らが家を訪れ茶飲み話をするのがほっとするひととき。

ランプの灯ったテーブルを挟んでジェボとドロティア、息子の妻やカンディディナが会話をかわす。カメラはテーブルの両サイドの人物を切り返しながら正面から捉えている。カメラはそこからほとんど動かず、ドアから人物が出入りするときにポジションが切りかわるくらい。ドアから外へ屋外にも数えるほどしか出ない。カメラの動きは少なく、モンタージュも禁欲的に抑えられている。ランプと蠟燭とガス灯に浮かびあがる家や街路の雰囲気は過去でもあり現在でもあるようで、いつの時代の物語か、しかと分からない。

原作はポルトガルの作家ラウル・ブランダンの舞台劇。テーブル正面に据えっぱなしのカメラは、客席から舞台を撮っているような錯覚を起こさせる。これもまた、20世紀初頭の草創期に舞台をそのまま撮影した映画がたくさんあったことを思い起こさせる。

物語の展開も最小限に抑えられている。失踪した息子が帰ってきて、また去ってゆく。帰ってきた息子の行為をめぐって、父であるジェボの決断がある。単純といえば、ごく単純なお話。そんなストーリーが、カメラの動きとかモンタージュによって映画的興奮を呼び起こすことなく、映画が映画である最低限の要素だけでつくられている。これは、オリヴェイラ監督が若き日に見た20世紀初頭の映画の肌触りなのかもしれない。監督はこんなふうに言っている。

「(19)30年代の初めから、サイレント映画の全盛期に続いてサウンドが現れ、次いで言葉が現れることになりました。これは、それまでの映画の概念を根本的に変容させるもので、その変容は、カラー映像の出現によってさらに強められました。以前は、人の見る夢のように、無音で白黒であったわけですから。このような夢にも似た一面を失った反面、映画が別の種類の幻影を得る、すなわちリアルな外見を持ちうるものとなったことが認識されるまで、さほど時間はかかりませんでした」(『国際シンポジウム 小津安二郎』朝日選書)

『家族の灯り』には、オリヴェイラ監督が経験したサイレントからトーキーへ、夢のような幻影からリアルな幻影へと変化した時代の、まだサイレントや白黒が主流だった映画の感触がとどめられているように思うのは僕だけだろうか。

もっとも、今のハリウッド映画を見慣れた目からは、この映画はあまりに動きと興奮が少ないと感ずるかもしれない。僕も途中で一度、落ちそうになった。でもそれを救っているのは役者たちの魅力。ジャンヌ・モローにクラウディア・カルディナーレと、僕らが若いころ胸をときめかせた女優たちが素晴らしい。ジャンヌ・モローはかわいいお婆ちゃんになっていて素敵だ。クラウディア・カルディナーレは『フィッツカラルド』以来だから20年ぶり。

若い頃、お婆ちゃん役の老女が戦前の美しい女優だったと老映画ファンが興奮しているのを見て、ふうんと思ったものだけど、いまやこっちがそれをやってるわけだ。

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February 15, 2014

『アメリカン・ハッスル』 えっ、あのジェニファーが

American_hustle
American Hustle(film review)

『アメリカン・ハッスル(原題:American Hustle)』の面白さはどこから来るんだろう? 

『スティング』みたいな「コン・ゲーム」だから? FBIが詐欺師を使っておとり捜査するお話だから、その要素はある。詐欺師のアーヴィン(クリスチャン・ベイル)と相棒で愛人のシドニー(エイミー・アダムス)がFBI捜査官・リッチー(ブラッドリー・クーパー)に逮捕され、罪をまぬがれるためおとり捜査に協力することになる。2人はアラブの富豪が投資するでっちあげ話で地方政治家のカーマイン(ジェレミー・レナー)とマフィア(カメオ出演のロバート・デ・ニーロら)に詐欺(ハッスル)を仕掛けようとする。その結末やいかに?

「コン・ゲーム」というより、男と女のお話だからか? たしかにそうだ。アーヴィンは結婚して妻がいる。金髪美女の妻ロザリン(ジェニファー・ローレンス)は情緒不安定で、マフィアの男に近づき、おとり捜査をぶちこわしそうになる。アーヴィンはそんなロザリンに惚れてるのに、シドニーにも愛人という以上に真剣な感情を持っているらしい。捜査官のリッチーも、捜査の過程でシドニーといい雰囲気になってくる。この二組のもつれた関係がどういう結末を迎えるのか?

『アメリカン・ハッスル』は同時に男と男の話でもあって、友情の味もある。FBI捜査官と詐欺師という本来は敵同士がチームを組むことになる。敵であり味方でもある男たちの間に、女性のシドニーが入ってくることで、この男2人の関係はいよいよ複雑になってくる。一方、アーヴィンは騙す相手のカーマインにも友情に近いものを感じている。男も女も感情の糸がこんがらかって、どこに出口があるのか映画の最後まで分からない。

そんなふうに、詐欺の騙しと男と女の複雑に絡みあった感情と、2種類の糸がもつれあうところから滲み出る面白さとおかしさが、この映画の魅力。どちらかというとコン・ゲームというより、出てくる誰も彼もが自分に弱みを抱えた人間たちのこんがらかったラブ・ストーリー。

それに加えて役者の魅力、しかも従来の役を裏切るような新しい魅力が楽しい。映画の冒頭、頭の淋しいアーヴィンのクリスチャン・ベイルがつけ毛で増毛させながら一九分けしてスーツを着るファースト・シーン。一見して鬘ではないし、髪を剃ったのか? 『マニシスト』で30kg減量してみせたクリスチャン・ベイルは、今回は3段腹を見せる。バットマンから一転してぶざまな70年代ふう中年男。

ブラッドリー・クーパーは『ハングオーバー!』や『世界にひとつのプレイブック』とも似たエキセントリックなところのある役どころ。FBI捜査官といいながらパンチパーマにしたり、下層出身らしい家庭がちらっと描かれるのがいい。

エイミー・アダムスはどちらかというと知的な痩せ型だけど、胸を大きくえぐったドレスが悩ましい。いちばん驚いたのはジェニファー・ローレンス。『世界にひとつのプレイブック』のときも『あの日、欲望の大地で』や『ウィンターズ・ボーン』の少女がこうなったの? とびっくりしたけど、今回はさらに驚くエロティックな金髪美女。ピンナップ・ガールふうな外見に、蓮っ葉な言葉と雰囲気。『007 死ぬのは奴らだ』を歌いながら掃除するシーンにはやられました。

これだけの役者を使い、しかもみんな従来のイメージを裏切る魅力を引き出したデヴィッド・O・ラッセル監督は、やはり只者じゃない。昔見て面白かった『スリー・キングス』も彼の監督だったんですね。コメディに関して、やはりハリウッド映画はすごい。ついでに、衣装も髪型も70年代ふうで、今となってはダサく感じられるのが、その時代に青春を送った一人としてなんとも懐かしかった。デューク・エリントンや70年代ポップスが流れる音楽も。

 

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February 13, 2014

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 アメリカの(悪)夢

Wallstreet
The Wolf of Wall Street(film review)

『ウルフ・オブ・ウォールストリート(原題:The Wolf of Wall Street)』の情報を読んだときいかにもアメリカらしいなと思ったのは、詐欺やマネー・ロンダリングで実刑をくらった原作者ジョーダン・ベルフォートの名前が、そのままレオナルド・ディカプリオの役名になっていること。犯罪者の伝記を実名で映画化するのを許可する当人も、実名でつくるほうも、社会意識がこの国とはずいぶん違うなと思った。そういえば映画のなかで、「どんな宣伝でも悪い宣伝はない」と言ってたっけ。

何年か前、アメリカで貧富の激しい格差に対しウォール街占拠の運動が広がったとき、1%対99%というスローガンが生まれた。1%の富裕層には代々の富豪というケースも多いけれど、年収49億円を誇ったジョーダンは成り上がり。ニューヨークのブロンクスで、会計士という普通の中流家庭に生まれた。1980年代にウォール街の投資銀行に入り、ブローカーの資格を取ったとたんにブラック・マンデーで失職、クイーンズの小さな証券会社に再就職する。そこでジャンク株を詐欺的に売りつける商法で儲けたジョーダンは仲間とガレージの一室に会社をつくり、怪しげな商売でウォール街へとのし上がってゆく。

ジョーダン(ディカプリオ)の武器は言葉。映画の冒頭から、ジョーダン自身のナレーションで(時にカメラを見つめながら)自分の豪華な生活を解説し、その後も180分の上映時間を最後までしゃべりまくる。電話一本で会ったこともない相手を信用させ、何万ドルもの契約を取りつける。客だけでなく仲間のドニー(ジョナ・ヒル)や社員に向かっても、どんなふうにして客から金を引き出すか、まるで新興宗教の教祖のようにしゃべりまくって洗脳し、その気にさせる。かせぎがあれば、オフィスにストリッパーを呼んで乱痴気パーティの日々。

ウォール街に就職したときの最初のボス、マーク(マシュー・マコノヒー。この役も実名)はジョーダンに、この世界で生きぬくのに必要なのはセックスとドラッグだと教える。ジョーダンはその教えを守って朝からドラッグをやり、娼婦とセックスする。パーティに来たナオミ(マーゴット・ロビー)に惚れて、妻と離婚しナオミと再婚する。ロング・アイランドに豪邸を建て、自家用ヘリでニューヨークと行き来する。ロング・アイランドは、去年ディカプリオ主演で公開された『グレート・ギャツビー』の主人公の邸宅もここに設定されていた白人富裕層の住宅地だ。

だからこの映画には言葉と100ドル紙幣とセックスとドラッグが洪水のようにあふれてる。マーティン・スコセッシ監督は短いショット、早口の台詞、ジョーク、四文字語の乱発、セックス・シーン、絶えず流れるアメリカン・ポップスといった要素を総動員して異常なハイテンションの映画に仕立てた。その素材と手法のクレイジーぶりが、この映画の核になっている。

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はアメリカン・ドリームを巡る映画だ。それが、ポジでもありネガでもあるような。金も学歴もないところから身を起こし、年収49億円にまで登りつめた男。しかしその金は法に触れるやり方でかせいだものだった。スコセッシはそれを賞賛もしないし、断罪もしない。ただジョーダンの成り上がりと転落をふつうの映画からははみ出したハイテンションで見せてくれる。

僕はこの普通じゃないテンションを、アメリカン・ドリームを極端化することでバッド・ドリームとして見せるスコセッシ監督の批評的な目と受け取った。でもジョーダンを断罪する明らかなメッセージが映画にはないから、このテンションを逆に賞賛と受け取る人もいるかもしれない。事実wikipediaを読むと、アメリカでも保守的な観客から「無責任な賛美」「有罪だったことをどう考えるのか」といった声が上がったようだ。

もともとスコセッシ監督の映画には『グッドフェローズ』や『アビエイター』『ギャング・オブ・ニューヨーク』など、主人公に過剰に感情移入せず叙事的に物語るスタイルのものが多い。これもその流れの一本だけど、同時にディカプリオ主演で犯罪者を映画化するに当たって、観客に多様な受け取り方を許すこのスタイルがいいという判断もあったかもしれない。

スコセッシの叙事的なスタイルの映画は当たりはずれが大きいけど、これは当たりの一本。3時間近くをあっという間に駆け抜ける。ディカプリオはブラピと競って原作の映画化権を獲得しただけに、ドラッグでぶっ飛んだヘロヘロからお尻蠟燭セックスまで楽しそうに演じてる。ジョーダンの父役で出るロブ・ライナーは『スタンド・バイ・ミー』の監督。


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February 12, 2014

香港フラワー

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scene in my neighborhood

なんかおかしいなと思ってよく見たら香港フラワーと枯れ草(こっちは本物)だった。

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窓がふさがれたこの家には人が住んでいる。

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February 08, 2014

雪明り

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snow light

午後8時50分。外は25センチの積雪。街灯に雪が映える。風は止んできた。20年ぶりの大雪。明日の朝には30センチを越しているかも。


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February 07, 2014

我がブログの解析

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analysing this blog

「Days of Books, Films and Jazz」はniftyのブログを利用して書いている。記事を書いたり、コメントやトラックバックを張ったりする管理ページのなかに「アクセス解析」という項目があり、どの記事にどれだけのアクセスがあったか、どんな手がかりからその記事を訪れたか、などを分析してくれる。

その「アクセス解析」が今月から新しい方式に変更された。新しく加わった分析がある反面、なくなってしまう分析もある。リアルタイムの分析が強化された一方、過去のデータを積算するような項目がなくなってしまう。いまアクセスしている人の何%がパソコンからで何%がスマホからなんてリアルタイムのデータがさほど役に立つとも思えない。僕には今度の変更は、過去のデータの積算など金のかかることをやめるコスト削減策としか思えないが、それはさておき。

なくなってしまう項目のひとつに「訪問回数(リピート率)」というのがある。それを見ていると、当ブログがどんな性格なのかの手がかりになるので、見られなくなる前にメモしておきたい。

このブログは2004年7月に始めたので今年で10年目。途中、ニューヨークに滞在した1年間だけ中断して、「不良老年のNY独り暮らし」という別のブログを立ち上げた。「NY独り暮らし」は今も日に30前後のアクセスがある。1月31日まで、ふたつのブログのアクセス合計は717,750(この累計アクセス数も新方式では見られなくなる)。年平均78,000アクセス、1日平均210アクセスほどの、ささやかな発信だ。

「訪問回数(リピート率)」は当ブログを訪れた人が、ここを何回訪れているのかを表にしたもの。圧倒的に多いのは当然ながら1回だけの訪問で、94.2%。1回だけということは、googleをはじめとする検索サイトでキーワード検索し、それがヒットしたことで訪問してくれたんだろう。ちなみに、わがブログでキーワードによる訪問件数が多いのは、時々の新作映画の感想を別にすれば「浦和縄文地図」「ニューヨーク・トイレ地図」「山口百恵の『夜へ』」といったところ。

残りの5.8%の人が複数回このブログを訪れてくれている。複数回といっても数回なら、キーワード検索から偶然同じブログにたどりついたケースもあるだろうから、大雑把にいって10回以上訪れてくれている人が「Days of Books, Films and Jazz」を見ると認識した上で来てくれているのじゃないだろうか。10回以上訪問してくれているのは168人。そのうち20回以上は106人。50回以上になると63人。100回以上が37人。

いちばん多い訪問回数は788回だけど、これは過去のブログで何を書いたかを調べた自分自身の可能性が高い(年のせいで映画の題名や監督、役者名なんかを忘れてしまうので)。それを除くと最多訪問回数は506回。この方が仮に僕がブログを始めた当初からの訪問者とすると、週1回平均で訪れてくれていることになる。当ブログの更新は週1、2回の頻度だから、更新ごとに見てくれている熱心な訪問者ということになる。

10回や20回の訪問なら時々見ている程度だろうけど、50回以上訪問してくれている63人ほどが雑誌でいえば「定期読者」と考えていいかもしれない。「訪問回数」と同時に見られなくなる「訪問周期」によると、毎日訪問してくれる人が10人、2日に1回が17人、3日に1回が23人、4日に1回が19人で、合わせて69人。「定期読者」の数とほぼ重なる。「定期読者」は3、4日に1度は当ブログを訪問してくれていると考えてもいいかもしれない。それは当ブログが週に1、2回の更新頻度であることと見合っている。

僕自身はこのブログをミニコミと考え、「定期読者」を中心にした少数の方々に読んでいただきたいと思って書いている。「定期読者」のなかには、以前からの知り合いで顔も名前も知っている人がいる。ブログを通してはじめて知り合い、友人になった方も何人かいる。顔も名前も知らないけれど、ハンドル・ネーム(私なら「雄」)でコメントやトラックバックをやりとりし、映画の好みなんかを了解して旧知の感覚になっている人もいる。数年前からFecebookを始め、そちらを通してもこのブログを読めるようにしたから、Facebook経由で読んでくれている人もいる。

もっとも、94%というアクセスの圧倒的多数が1回だけの訪問ということは、ミニコミという角度からだけではこのブログの性格を考えられないということでもある。このミニコミ的極小ブログも、検索サイトを入口にして無数の情報が集積し世界大の百科事典(信頼度はともかく)になっているウェブ世界を構成する要素になっている。

そちらの側面はひとまず措いて、これからも少数の顔が思い浮かぶ読み手に向けて書いていきたいと思っている。もっとも、そんな発想そのものが活字世代である小生の限界であるかもしれない。


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February 04, 2014

雨が雪に

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snowing at the first time this winter

昼前から降りはじめた雨がやがてみぞれになり、気がついたら大粒の雪に変わって、あっという間に庭が白くなっている。風邪気味なので無精して部屋のなかからシャッターを。


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February 02, 2014

白梅咲く

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blooming of a Japanese apricot

庭の白梅が一輪、どんよりした曇り空に花をつけた。他の蕾はまだ固いので、満開になるのはまだ先だろう。日蔭の沈丁花もまだ咲く気配がない。

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