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January 31, 2014

『鉄くず拾いの物語』 暖かな夜

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An Episode in the Life of an Iron Picker(film review)

映画はいろんな見方、楽しみ方ができるけど、そのひとつに生涯訪れることのないような地域に生きる人たちの生に触れられることがある。『鉄くず拾いの物語(英題:An Episode in the Life of an Iron Picker)』はボスニア・ヘルツェゴビナのロマの山村が舞台になっている。この映画は実際にあった出来事を映画化したもので、そのうえ演じているのが体験した本人たちときている。ドキュ・ドラマという言い方があるけれど、それに近い作品だ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ中央部、山間にあるロマの村。ナジフとセナダの夫婦には2人の子供がいて、ナジフは鉄くず拾いでその日その日の生計を立てている。冬のロマの村は雪が積もり、車の窓が凍りつく寒さ。ナジフは近くの森へ行って木を切り、暖房のための薪を割る。セナダは小麦粉を練り、チーズをまぜてパイを焼く。貧しいけれど穏やかな一家の生活を手持ちカメラが追いかける。

ある日、身ごもっていたセナダが死産し、すぐに手術しないと母親の生命も危ないと告げられる。が、保険に入っていない一家には6万円の手術代が払えない。追い打ちをかけるように車が壊れ、電気代が払えず電気を切られてしまう。ナジフは壊れた車をスクラップにして売り、くず鉄を拾って手術代をかせごうとする。

映画ではボスニア語とロマ語が話されていることから、ボスニア語を話すボシュニャク(ムスリム)人地域の物語であることがわかる。ロマはボシュニャク人地域の少数民族としてこの国で暮らしている。人口は他の少数民族と合わせて国の全人口の2%ほど(wikipedia)。

ナジフは「戦争に行ったけど、何の恩給ももらえなかった」と言う。ナジフの言う戦争とはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のことだろう。ボスニア・ヘルツェゴビナには主にボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人が混住していた。ユーゴスラビア崩壊後、各民族が独立を求めて武装し、ボスニア・ヘルツェゴビナは1990年代に長期の内戦に突入した。少数民族であるロマのナジフはおそらくボシュニャク人の軍隊に駆りだされ、兵士として戦ったあげくなんの報酬もなく放り出されたのだろう。

そういえば先日、大島渚の『忘れられた皇軍』がテレビ放映された。大日本帝国の兵士として徴集され負傷した在日韓国人(当時は「日本人」)が戦後、補償を求めたが日本政府も韓国政府も応じようとしなかった。国家が異分子と考える者に対する無慈悲なふるまいはどこも変わらない。

『鉄くず拾いの物語』はドキュメンタリーでなくフィクションとしてつくられている。純然たるフィクションなら次から次へ悲劇が一家を襲うんだろうけど、あくまで実際の出来事を当事者が演じているわけだから「映画みたいに」展開するわけではない。ロマ差別や貧困について社会派的な視点から批判するわけでもない。

セナダは妹の保険を借り、妹の名を名乗ってなんとか手術を受けることができた。切られてしまった電気も元に戻って、子供たちはテレビを楽しめるようになった。セナダは痛みもなく、容態は落ち着いている。ナジフは森に薪を切りにいく。少なくとも今夜ひと晩、一家は暖かく、幸せな夜を過ごせるだろう。

映画を見終わって、社会主義政権下のソ連で収容所(ラーゲリ)の実態をはじめて小説にしたソルジェニツィン『イワン・デニソヴィッチの一日』の最後の一文を思い出した。極寒の収容所で厳しい労働の一日を過ごした主人公は、寝る前にこう思う。「今日は、いろんなことがうまくいった。営倉には入れられなかったし、…昼めしの雑炊を一杯チョロまかしたし、班長は有利なノルマ査定を決めてきたし、…晩方シーザーのおこぼれにあずかったし…。一日が過ぎ去った。どこといって陰気なところのない、ほとんど幸せな一日が」。

想像を絶する厳しい収容所の一日を「ほとんど幸せな」という文章で締めくくるソルジェニツィンの思いは深い。同様に、今夜は暖かく幸せな夜を過ごせるだろうと観客に感じさせて終わるこの映画の余韻も深い。今夜は暖かくても、明日は、明後日はどうなるのか。見る者にそのことを想像させる。セナダを救うためナジフが村とサラエボを車で往復する道路脇には、2人を脅かすものを象徴するように、白い煙を上げる巨大な原子力発電所がそびえている。

監督はボスニア・ヘルツェゴビナ生まれのダニス・タノヴィッチ。新聞でこの夫婦のことを読み、200万円ほどの予算、10日間の撮影で完成させた。主演のナジフはベルリン映画祭で主演男優賞を受賞。定職と保険証も手に入れたそうだ。

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January 29, 2014

映画のセットみたいな

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a scene in my neighborhood

北浦和駅西口周辺は古い街並みが少なくなり歩いても面白味がないけれど、この一角だけは昭和の風情が残っている。なんだか昔の日活映画のセットみたいな、、、


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January 24, 2014

『ドラッグ・ウォー 毒戦』 中国大陸ノワール

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Drug War(film review)

『ドラッグ・ウォー 毒戦(原題:毒戦)』は香港ノワールの巨匠ジョニー・トーが香港を離れ中国大陸を舞台にした警察アクションものだ。トーの制作会社・銀河映像と中国資本との合作映画。そのことで、これまでのトーの映画とは別のテイストをもった作品になっている。

テイストの違いのひとつは、大陸で撮影しているために当然のことながら町や風景がちがうこと。香港は狭い土地に人間と建物が密集している街だから、見ていてすぐに香港映画とわかる。路上にはみだした看板が何重にも重なり、たくさんの人が肩をふれるように歩く雑踏。緑が少なく、坂と海があり、豪華な高層マンションとスラムが隣りあう。トーの映画にしても他のノワールにしても、そんな風景のなかで犯罪が起こり、追跡劇が展開される。その密度が独特の熱気を生み出している。

『ドラッグ・ウォー』は津海という都市と粤江という港町(どちらも架空)が舞台で、実際には天津(津海)と珠海(粤江)でロケされているようだ。冒頭、家が散在する郊外風景のなかで麻薬製造工場が爆発し煙を上げている光景がロングショットで示される。あるいは大陸風の並木が立ち並ぶ広い道路でカーチェイスや銃撃がある。そんな、一見のんびりした大陸の風景のなかで派手なドンパチの銃撃戦が繰りひろげられるのが意外にも新鮮。

いまひとつのテイストの違いは、中国との合作映画であることから来る。中国で映画製作に事前検閲など厳しい制約があるのは周知の事実。チェン・カイコーの『さらば、わが愛 覇王別姫』を筆頭に第5世代が花開いた1980年代には文革批判などぎりぎりの政治性をもった映画がつくられたけど、その後、映画に対する統制は強まり、ここ数年はいよいよ強化されている。「憲法に対する破壊・反抗を扇動する映画」は禁じられ、無許可で外国映画祭への出品も許されない。違反すると5年間の映画製作禁止の罰則がある。

当局に届け出ずに撮影されヴェネツィア映画祭に出品されたワン・ビン監督の『無言歌』(傑作!)は反右派闘争時代の収容所と飢餓を扱った映画で、中国では上映されていないし、新作『三姉妹 雲南の子』も無許可のままフランス資本で撮影されている。天安門事件を扱った『天安門、恋人たち』で5年間の製作禁止処分を受けたロウ・イエ監督は国外に出て、新作『パリ、ただよう花』をパリで撮影した。

ジョニー・トーはエンタテインメントに徹しているから、作品に政治性があるわけではない。国家に正面から対立・対抗するような映画ではなく、国が課す制約をするりとすり抜けて面白い映画をつくるタイプ。もっともトーが得意とするノワールは、法に反する行為である犯罪を主題にしている。殊にこの映画は、犯罪のなかでも国が敏感になる麻薬がテーマ。中国資本が入り、大陸での公開を前提としている作品だから、当然ながら当局が課す制約をクリアする必要がある。

そのためには、麻薬犯罪に関わる者は厳しく罰されるという教訓が映画に含まれていなければならない。中国の刑法では麻薬製造は死刑。一方、ノワール映画は犯罪者に華がなければつまらない。悪が生き生きしてこそノワールは輝く。そこをどう両立させるか。

香港出身のテンミン(ルイス・クー)の覚せい剤製造工場が爆発し、傷ついたテンミンは公安警察のジャン警部(スン・ホンレイ)らに捕らえられる。死刑を免れることを条件にテンミンは進行中の取引を続け、警察はそれを監視下において密売ルートを摘発しようとする。架空取引をする過程でテンミンと警部は時に対立し、覚せい剤を吸入することを強いられた警部をテンミンが助け、やがて2人の間に友情に近い感情が流れる。このあたりノワールの定番だけど、やっぱり楽しめる。

(以下、ネタバレです)『ドラッグ・ウォー 毒戦』は最後の1分で、当局の課す条件をすり抜けた。主役のテンミンが死刑になってしまうのだ。しかも、薬物注射による死刑執行をこと細かに描写するおまけつき。最後の1分だけ「麻薬製造は死刑」という法に従い、残りの104分はいつもどおりのジョニー・トーの犯罪映画。好き勝手にやってる。特にスン・ホンレイの警部は架空取引で悪党に扮して怪演。警官が犯罪者のふりをして金儲けを企むなんて設定は、汚職にまみれた現在の中国への皮肉と取れなくもない。トー監督のお遊びと逞しさ、あっぱれ。


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January 18, 2014

満身創痍

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a scene in my neighborhood

耐震補強して満身創痍の埼玉県庁庁舎。こうなるとデザインに凝ったつもりの雨樋も工事の足場に見えてきて、、、。


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January 17, 2014

無人の気配

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a scene in my neighborhood

散歩道にあるスナックの前。犬はもちろん動かないけど、猫も近寄っていっても微動だにしない。

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住民が立ち退いて無人の市営住宅。

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その近くにも空き家が。

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January 15, 2014

ご近所のパパママ・ストア

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papamama-store in my neighborhood

7年前にニューヨークで暮らしはじめたとき驚いたことのひとつは、コンビニエンス・ストアが少ないことだった。僕が住んでいたのはブルックリンのダウンタウンに近いアパートだったが、近所にはコンビニが一軒もなかった。全国チェーンのコンビニエンス・ストアはアメリカ発祥だから、ニューヨークみたいな大都会ならそこらじゅうにあると思っていたので意外だった。

その代わりたくさんあったのは、デリと呼ばれる個人商店。デリとはデリカテッセンの略だろうけど、ヨーロッパのデリカテッセンのような立派な店構えと品揃えでなく、街角のごく小さな店舗に普段用の食品や酒、煙草なんかが所狭しと並べられている。

こういうデリはパパママ・ストアとも呼ばれる。家族経営で、パパとママがやってる店というわけだ。僕のアパートからいちばん近いデリは、歩いて2分ほどのところにあるアラブ系経営者の店だった。自炊するための食材は歩いて10分ほどのスーパーやマンハッタンの日本食材店で買っていたから、ここへはビールや牛乳を買いによく行った。

デリを経営しているのはたいてい移民で、ヒスパニック、アラブ系、東欧系、インド系、韓国系などの店が多い。アメリカの都市は人種や民族がかたまって住んでいるから、地域のコミュニティが維持されている。パパママ・ストアはそうしたコミュニティに根ざして営業している。たとえ同民族ではなくても、経営者も客も互いに顔なじみの地元商店なのだ。日本で個人商店が少なくなりスーパーやコンビニばかりになったのにはいくつか理由があるだろうけど、かつてあったコミュニティが崩れかけていることも関係していよう。浦和も例外ではない。

でも北浦和駅に近いこの店は、いつも繁盛している。もともと野菜・果物の店だったが、種類は少ないながら魚や豆腐・納豆、冷凍食品、菓子、パンなど普段の食事に必要なものはだいたい置いてある。ここが繁盛しているいちばんの理由は、いい仕入れルートを持っているらしく品が良くてスーパーに比べて値段が安いことだ。例えば魚なら今の季節、生食用のかきとか冷凍タラバガニが置いてある。定番商品のマグロぶつはいつも旨い。野菜も、地元産の不揃いきゅうりなどを安く売っている。どんな品もほかと比べて値段が2割方安い。

経営しているのは30代の兄弟とその家族。兄のほうはうちの娘と小学校の同級生だから、文字通りのパパママ・ストア。こういう商売熱心な店はなくなってほしくない。買い物はできるだけこの店へ行くことにしている。

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January 14, 2014

『永続敗戦論』を読む

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30代の若い書き手として評判になっている白井聡の『永続敗戦論』(太田出版)を読んでみた。

この本が論じているのは、「戦後」とは何だったかということ。といっても歴史的出来事や事実を問題にしているのではなく、「戦後」をどのようなものとして認識するかという問題だ。

白井は「朝鮮半島がすべて共産化したと仮定した場合には、日本の戦後民主主義が生きつづけられたかどうかも疑わしい」という政治史研究者ブルーズ・カミングスの言葉を引きつつ、戦後日本で民主主義が可能だったのは日本が冷戦の最前線ではなかったという地政学的理由によるという。戦後のある時期まで、東アジアの冷戦の最前線は北朝鮮と対峙する韓国、中華人民共和国と対峙する台湾であり、有事のとき介入する米軍の基地が集中する沖縄だった。

この時期、韓国と台湾には軍事独裁政権があり、沖縄は米国の管理下におかれた。逆に言えばこうした抑圧的体制があることが「日本で『デモクラシーごっこ』が成り立つための条件であった」。独立後の日本本土から見ると沖縄の「米軍による占領」は特殊に見えるが、東アジアの「親米諸国一般」という観点からすれば沖縄にこそ一般性があり本土こそ特殊だった。

韓国や台湾、沖縄に比べればゆるい「戦後」体制のなかで、どういうことが起こったか。白井は「敗戦」を「終戦」と呼びかえる欺瞞(それを許される「自由」があった)の上に戦後の枠組みが成り立っていたと考える。「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、日本人は戦争に負けたという事実を忘れたがった。「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造」ができあがった。

敗戦を認めたくないという精神のありようは突き詰めれば米国による対日処理と衝突せざるを得ないが、米国に面と向かって歯向かうことはできない。だから国内やアジアでは敗戦を否認してみせることで、敗北したのではないという自分の「信念」を満足させながら、そのような態度を取る自分たちを容認する米国に対しては「卑屈な臣従」をつづける。その構造を白井は「永続敗戦」と呼んでいる。

白井の言っていることは一見、戦後左翼の言辞に似ている。でも違っているのは、白井が戦後の平和と民主主義を信じていないこと、、また国家や戦争を倫理的に批判する態度を取らないことだろう。

彼はこんな実も蓋もないことを言う。「(米国が帝国主義的に振舞うのは)国家がその本性上含んでいる悪の現れである以上、それのみを道徳的に批判したところでほとんど無意味である」「結局のところ、国家の領土を決する最終審級は暴力である。すなわち、歴史上の直近の暴力(=戦争)の帰趨が、領土的支配の境界線を原則的に規定する」。

そこから白井は尖閣・竹島・北方領土の問題も論じている。領土問題は戦争の後始末であり、敗戦の結果として帝国日本が獲得した海外領土をどこま手放すかという問題だった。だから領土問題を考えるときはポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約が基本にならざるを得ない。それ以前の歴史的経緯は、この宣言と条約で解釈しきれない限りで問題となるにすぎない。そうした目で見ていくと、日本の言い分が必ずしも国際的に全面的に理解を得られるものでなく(特に尖閣と北方領土)、中韓露の言い分にもそれなりの理があることも見えてくる。

ときどき荒っぽい言葉遣いがあったり、後半では納得しにくい議論もあるけれど、大本のところは共感できる。白井も言っているようにこの本は格別新しいことを主張しているわけではない。「対内的にも対外的にも戦争責任をきわめて不十分にしか問うていないという戦後日本の問題をあらためて指摘したにすぎない」。「戦後」という時間と空間を考えるとき、それらを根っ子のところで規定している事実、日本は第二次世界大戦に敗北したという歴史から目をそむけることはできない。

「戦後レジームからの脱却」を言う人々の、この間の尖閣や靖国をめぐる対中韓、対米の言動は、「脱却」を叫ぶ当の人々の間に「永続敗戦」という戦後的なねじれがいまだに生きていることを明らかにした。戦後は終わったといわれるけれど、まだまだ戦後は生きている。

刺激的な本だった。


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January 06, 2014

『鑑定士と顔のない依頼人』 老人の恋の行方

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The Best Offer(film review)

いやあ、見事に騙されました。しかもその騙され方が意外なかたちなのに驚いた。もちろんどんでん返しのあるミステリーと知っていたから何があるのかと構えてはいたけど、こう来たか。もっとも、その意外さが映画として良かったかどうかは別問題。

僕が騙された理由のひとつは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の過去の作品にある。見ているのは、名作の誉れ高い『ニュー・シネマ・パラダイス』と『マレーナ』『シチリア!シチリア!』くらい。どれも子供の目を通したヒューマンな人間ドラマだった。だから『鑑定士と顔のない依頼人(原題:La Migliore Offerta)』も、ミステリーとはいえ同じテイストだろうと思っていた。

高名な鑑定士ヴァージル(ジェフリー・ラッシュ)が、クレア(シルヴィア・ホークス)と名乗る女から両親が遺した美術品・家具の鑑定を依頼される。ヴァージルは無人の舘で鑑定を始めるが、依頼人のクレアは姿を現わさない。広場恐怖症で人前に出られないクレアをヴァージルは盗み見し、やがて彼を信頼して姿を現わしたクレアはヴァージルと心を通わせるようになる。

人間嫌いで潔癖症の老鑑定士は女性肖像画のコレクターで自宅の隠し部屋に名画(ルノワールの「ジャンヌ・サマリーの肖像」もある)を飾り、描かれた女性にひとり囲まれるのが愉悦。金も名声もある孤独な老人が、精神を病んだ若い女に心を寄せる。二人の愛の行方はどうなるのか。これまでの監督の作品から、どんでん返しは二人の愛をめぐってだろうと予想した。ところが違ったんですね。(このブログはネタバレありです。ネタバレしないと先を語れないので、映画を見る予定の方は読まないほうがよろしいかと)

この映画、愛をめぐるサスペンスでなく、実は泥棒映画だった。泥棒ものはジャンルとして確立していて、古くは『トプカピ』『ピンクパンサー』から最近の『オーシャンズ』シリーズまで、たくさんの映画がある。ほとんどの映画に共通するのは盗む側が主役で、盗むことの痛快さが映画の核になっていること。

ところがこの映画は、最後まで盗まれる鑑定士の側から描かれる。だから盗まれたという結果が提示されるだけで、盗むことの痛快さはまったく描かれない。その代わり見る者に迫ってくるのは、女に騙されたうえコレクションを盗まれた無残な老人の姿。かといってヴァージルとクレアの愛の行方がていねいに描かれているわけではないから(もともとクレアは騙していたわけだし)、すべてを失った鑑定士の心情が見る者に迫ってくることもない。どんでん返しは見事だったけど、やられた! という爽快感は薄いし、一方、人間ドラマとしても深みに欠けたような気がする。

それらしい仕掛けはいろいろある。北イタリアのトリエステでロケされたらしい古びた舘。見たものすべてを記憶する小人の女。舘から発見される機械仕掛け人形の部品と、それを組み立てようとする修理屋。最初はなぜこの役にドナルド・サザーランドなのかと疑うヴァージルの怪しげな相棒。別のものを期待したこちらが悪いんで、そんなミステリアスな雰囲気を楽しめばいい映画なんでしょうね。アメリカ資本が入り、英語圏の役者をそろえたせいか、登場人物が英語を話すのが気になった。

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January 03, 2014

明けましておめでとうございます

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Happy New Year!(浦和・調神社の絵馬と神矢)

明けましておめでとうございます。

今年も好きな映画や音楽や本についてぼちぼち書いていきます。よろしくおつきあいください。

ところで昨年11月から題字下に「特定秘密保護法案に反対です」の文字を入れてきました。法案は成立してしまいましたが、反対の意思は変わりません。その上、年末には安倍首相がA級戦犯が合祀される靖国神社に参拝し、中韓ばかりかアメリカ、ロシア、ECからもイエローカードを突きつけられました。今年は解釈改憲で集団的自衛権を認める動きも現実のものになりそうです。安倍首相は国のリーダーとしての責任より個人的信念を優先させることで、この国の平和と安全を損なおうとしているように見えます。

この国はいま重大な曲がり角を曲がろうとしている。そのことに対して、できる範囲で自分の意思を明らかにしておきたい。そう考えて題字下に「安倍にNO!」の文字を入れることにしました。

この趣味のブログは映画や音楽や本について書いていますが、それらは作り手ひとりひとりの顔が見えます。「中国(人)は」とか「韓国(人)は」といった観念的な認識でなく、ひとりひとりの顔をもった中国人や韓国人やアメリカ人やいろいろな国の人たち、そしてこの国の人たちとつきあっていきたいと思います。


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