『悪の法則』 暴力と性の夢幻劇
リドリー・スコットの新作『悪の法則(原題:The Counselor)』で僕が注目したのは、リドリー・スコットの映像や豪華な役者たち以上に、脚本が作家コーマック・マッカーシーの手になることだった。
コーマック・マッカーシーは荒廃した未来世界をさすらう親子を描いた『ザ・ロード』やコーエン兄弟の傑作『ノー・カントリー』の原作者だといえば、映画好きならははんと思うだろう。フォークナーのような本格小説からミステリーまで幅広い、現代アメリカ文学を代表する一人だ。僕が好きなのは『チャイルド・オブ・ゴッド』『ブラッド・メリディアン』などの初期作品で、西部開拓期の砂漠やアパラチア山脈の極貧地帯といった暴力が支配する過酷な世界に生きる人間たちの物語だった。
『悪の法則』の舞台はテキサスの砂漠都市エル・パソと、国境のリオ・グランデ河をはさんでメキシコ側にあるシウダー・フアレスだ。シウダー・フアレスは百人以上の若い女性が行方不明になったり、麻薬組織がはびこっていることで知られる危険地帯。ドン・ウィンズロウのミステリー『犬の力』なんかを読むと、南米コロンビアからメキシコ経由でアメリカに持ち込まれる麻薬ルートの主要なひとつであることがわかる。
名はなくただカウンセラーと呼ばれる弁護士(マイケル・ファスビンダー)が、クライアントである麻薬業者ライナー(ハビエル・バルデム)の手引きで、自らも麻薬取引に手を染めようとしている。カウンセラーは恋人のローラ(ペネロペ・クルス)に婚約指輪を贈り、ライナーは愛人のマルキナ(キャメロン・ディアス)にぞっこん惚れこんでいる。男たちの女への愛が、やがて彼らの破滅を招きよせることになる。カウンセラーはブローカーのウェストレー(ブラッド・ピット)に取引の仲介を頼んでいる。
ファスビンダー、バルデム、クルス、ディアス、ピットの登場人物が交わす会話が、いかにもマッカーシーらしい。彼らが「もう選択の余地はない」とか「お腹がすいた」と話すなにげない会話、あるいは目の前の具体的なセックスや死について語り合う会話が、表の意味だけでなくメタ・レベルの哲学問答としての意味も持たされているようなのだ。だからまるで「ハムレット」か「マクベス」のセリフのように感じられる。
しかもそんな隠喩に満ちた会話が交わされる場面には、金とセックスと暴力があふれている。白いシーツのなかでのファスビンダーとクルスのラブシーンは強烈だし、開脚したディアスがフェラーリのフロントグラスに腰を押しつけてバルデムに見せつけるシーンはショッキング(バルデム曰く「あいつは車とセックスしたんだ」)。殺し屋が砂漠の道に鋼鉄のワイアを張り、バイクで突っ走ってきた運び屋の首がヘルメットごと一瞬で吹っ飛ぶシーンには驚く。
国境を越えて麻薬を運ぶ汚水処理車のなかに隠されたドラム缶には、麻薬だけでなく腐敗した死体が意味もなく隠されている(「やつらのジョークだよ」)。バルデムは猛獣のチータを愛玩用に飼っていて、砂漠に放したチータがウサギを狩るのを愛人のディアスが双眼鏡で見ているシーンなんか、この映画全体の比喩でもあるみたいだ。
カウンセラーが金を出した麻薬取引の途中で、何者かによって麻薬が強奪される。麻薬組織はカウンセラーが仕組んだものと考え、カウンセラーばかりかライナーとウェストレーの命も狙いにかかる。実は仕組んだのは……。
マッカーシーの脚本は話の筋をていねいに説明しないから、どうなっているのかわからないところもある。並みのハリウッド映画のようにクライマックスに向けてサスペンスを盛り上げることもしない。でも見る者は多義的な会話と暴力とセックスが織りなすリズムに巻き込まれて最後まで一気に導かれてしまう。
砂漠の風景が、リアルでありながらリアルを越えた彼岸の風景のように感じられる。まるで金と暴力と性にまみれた夢幻劇を見ているような。久しぶりにリドリー・スコットらしさを堪能できた快作だった。チータのタトゥーを入れ、アルマーニに身をつつむキャメロン・ディアスがいいな。
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