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October 30, 2013

中本の閉店

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a going out of Ramen restaurant

久しぶりに有楽町の中本へ行ったら、「11月21日をもって閉店します」と貼紙があった。そうか、中本のラーメンも食べられなくなるのか。

この店に行きはじめたのは1970年代。会社がすぐ近くにあったので週に一度は通った。あっさりした醤油味のスープ、あまりコシのない太目の麺と最近のはやりとはかけ離れてるけど、昔ふうの東京ラーメン好きにはこれがよかった。2枚の厚いチャーシュー、たっぷりのメンマも若い時分にはありがたく、これだけでお腹いっぱいになった。いかにもラーメン屋らしい、店内の素っ気なさは当時と変わらない。

いつもはスープを残すようにしてるけど、今日は最後になるかもと思って最後の一滴まで飲み干した。

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October 28, 2013

アロニア・アルブティフォリアの実

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Aronia arbutifolia in my garden

朝晩が寒くなるとアロニア・アルブティフォリアの実が色づく。もう少し寒くなると葉も紅葉してくる。一枝折って一輪挿しに生けると、なかなかの風情。

この木は北アメリカの原産で、カナダからミシガン、フロリダにかけて自生している。実は固くてとても食べられないが、ジャムにすればいいらしい。やってみようかな。

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October 20, 2013

『そして父になる』 微妙に動くカメラ

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Like Father, Like Son(film review)

映画監督が自分ひとりで脚本を書き演出もやった日本映画を立てつづけに3本見た。『地獄でなぜ悪い』(園子温監督)、『許されざる者』(李相日監督)、『そして父になる』(是枝裕和監督)。『地獄でなぜ悪い』と『許されざる者』は期待して見にいき、面白くないわけじゃなかったけど、それぞれに不満が残った。それがどこから来ているのかと考え、2本とも脚本に欠陥があるんじゃないか、というのがとりあえずの結論だった。

『地獄でなぜ悪い』は上映時間が長すぎ(126分)、準主役級の星野源はじめ登場人物と人間関係をもっと整理するほうがコメディに大切なスピード感が出たのではないか。『許されざる者』は、予想されたことだけどアメリカの西部劇を日本の物語に翻案したための無理がある。渡辺謙の殺人の動機が金だけでなくアイヌ民族の憤怒も背負い、敗者の怨念に貫かれながら主人公と同じ敗者である元幕軍の農民を殺すあたり、見ていて納得できなかった。

今は脚本と演出をひとりでやる監督が多いけど、監督の思いやこだわりを冷静に見る第三者の目はやはり必要だ。小津だって黒沢だって、ひとりで脚本を書くことはしなかった。いま日本映画に求められるのは、いい脚本家じゃないか。……なんてことを考えながら『そして父になる』を見て、うなりましたね。ここでは脚本と演出と、もうひとつ是枝が自ら手がけた編集が渾然一体となって素晴らしい出来栄えの映画になってる。

実際にあった赤ん坊取り違え事件がベース。東京に住むエリート会社員の野々宮良多(福山雅治)とみどり(尾野真千子)。地方都市に住む電気屋さんの斎木雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)。映画の冒頭、2組の夫婦の6歳になる息子が産院で取り違えられていたことが発覚する。

心優しい是枝監督のことだから最後にはほっとさせてくれるだろうと思いつつ、でも2組の男と女に何が起こり、どんな選択を強いられるのか。広義のサスペンス映画といってもいいかも。そんな2組の親子をハリウッド映画なら次々に試練が襲うに違いないけど(ドリームワークスのリメークはどうなるか)、是枝監督はそういうことをしない。

取り違えがわかったとき、良多はふと「やっぱりそうか」とつぶやく。「やっぱり」とはどういうことか。妻のみどりには、その言葉がトゲのように心に刺さる。そんな日常の小さな出来事を積み重ねて、さざ波のように家族に不安と動揺が広がってゆく。良多は大企業でチームリーダーを任される男らしく積極的で、今まで息子として育ててきた慶多(二宮慶多)は手元に置いたまま、雄大の家で育った琉晴(黄升炫)も引き取ると提案したりする。

あえて類型化するなら、良多はこの国の高度成長を引っぱり、今また再びの成長を夢見る男であり、雄大は過疎化する地方で半ば自覚的にそのシステムから降り、なんとかしのいで生きてきた男である。週末に子供を互いの家に泊まりに行かせる交流をつづけながら、仕事で多忙な良多は雄大からこう言われてしまう。「俺はこの間、君よりもたくさんの時間を慶多と過ごしてきたよ」。良多の家に引き取られた琉晴が家出して育て親の雄大の家に戻ってしまったときも、逆に雄大から「うちが2人引き取ってもいいんだよ」と言われてしまう。

良多は別に悪い父であるわけではない。子供の自主性を重んじ、いい学校に行ってほしいとも願う、この国の普通の父親像だろう。お金に余裕があり、いい環境を準備して……、でもそれは仕事と同じくコスト・パフォーマンスを最大にする子育てかもしれない。それに対して雄大は、子供と接する時間のゆるやかな流れそれ自体を楽しんでいるように見える。映画の最後近く、良多は子供と接するのにいちばん大切な「時間」の意味を知る。そこでようやく、見る者は『そして父になる』というタイトルの意味が分かってくる。

福山雅治と尾野真千子、リリー・フランキーと真木よう子が、対照的な家庭の味を実によく出してるな。是枝監督の映画はいつもそうだけど、子供たちも実に自然。

同時にうなったのが、カメラ(瀧本幹也)と編集。会話の場面では、人を捉えるカメラは固定され動かない。会話が終わってストーリーが動くとき、カメラも時に微妙に、時に車とともに動いている。特に小さな動き、カメラ自体がかすかに移動していたり、固定されていてもかすかにズーミングされていたり、注意して見ないと分からないような動きが採用されている。

例えば手持ちカメラを動かすと臨場感や不安が強調されるけれど、そうではなくかすかに動いているカメラ。それは、この映画が波乱万丈の出来事で物語を語るのでなく、父親や母親、子供たちの微妙な心の動きにフォーカスを合わせているのに対応している。固定されたカメラと微妙に動くカメラの組み合わせが、この映画のゆったりと繊細なリズムをつくっている。だからラストシーン、雄大が営む電気屋の店舗からカメラが引いて地方都市の姿を映してゆく移動撮影が心に染みる。


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October 18, 2013

10.18 Rainbow Bridge

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a car being destroyed by fire on Rainbow Bridge in Tokyo

お台場にいてふと目を上げると、レインボー・ブリッジから炎と黒煙が上がっているではないか。車が炎上しているらしい。10分ほどして消防庁らしきヘリがやってきたが、消防車はなかなか来ない。車は30分以上燃えつづけた。

すぐそばに偽自由の女神があり、煙の向こうにはツインタワーの高層マンションがあって、深刻な事故かもしれないのにキッチュな光景。

後でニュースを見ると、トラックがエンジントラブルで炎上、怪我人はなかった。

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その直前に撮った、こちらはお台場の浜辺。


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鬼子母神の御会式

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Oesiki Festival at Zoshigaya community in Tokyo

目白で友人と飲んでいたら、外からにぎやかな太鼓の音が聞こえてくる。なにかと思ったら、雑司が谷鬼子母神の御会式(おえしき)の行列だった。

竿の先に掲げた提灯を先頭に、纏が振られ、法被の老若男女が団扇太鼓を叩いて行進する。太鼓のリズムが独特で、心を浮き立たせる。白い和紙を枝垂桜のように飾りつけた、高さ4メートルほどの「万灯」が夜目に鮮やかだ。

話を聞くと、御会式は江戸後期からこの地域で催されている伝統行事らしい。毎年10月、日蓮上人の忌日の前後3日間に行われる。町内ごとに万灯講があり、講ごとに万灯をつくって鬼子母神まで練り歩く。

鬼子母神はインドの女神。子供を取って食うので人々に恐れられたが釈迦に帰依し、安産・子育ての神として崇められるようになった。多聞天などの四天王と同じように、もともと仏教以前からある古代神だったのが仏教に取り入れられたらしい。日本でも平安朝から鬼子母神信仰があり、雑司が谷鬼子母神(法明寺)は室町時代に開山された。雑司が谷は江戸の町域からはずれた村だったから、こういう地域の行事が残っているんだろう。


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October 17, 2013

シソの実の塩漬け

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pickles of perilla's seeds

今年はシソの実が大量に採れたので塩漬けに。温かい白米にのせて食べると最高。


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October 11, 2013

瀬戸正人『Cecium Cs-137』

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Seto Masato photography book”Cesium Cs-137”

福島第一原発の事故は東日本に多くの放射性物質をばらまいた。セシウムなら35キログラム、チェルノブイリの半分ほどの量になるという。セシウム137の半減期は30年だから、地表に降ったセシウムは今も放射線を発しつづけている。

放射性物質は目に見えない。写真は目に見えるものしか写らない。目に見えないものを、どうやって写真で表わすか。何人もの写真家が、この目に見えない恐怖を見えるものにするためにさまざまなことを試みている。分かりやすいのは、事故によって新しく生まれた風景──人々が避難して無人になった街並みや家屋、置き去りにされたペットの死骸、道路を闊歩する野生化した牛や豚──を撮ることだろう。新聞やテレビでそんな風景にずいぶんお目にかかった。

そうではなく、事故前と何ひとつ変わらない風景にあえてカメラを向ける写真家もいる。何ひとつ変わっていないものを撮りながら、そこに目に見えないセシウムが降り積もっている恐怖をどう表現するか。それは写真家の技量にかかる。

瀬戸正人もまた故郷・福島の、何も変わっていない風景に目を向けている。小川にかかる木の橋。川辺に茂る木々。雪の積もった草原。水面を泳ぐ水鳥。でも瀬戸の目は次第にそうした広く大きな風景から風景の細部へと向いてゆく。水面から突き出た石と、石を覆う細かな苔。あるいは光を反射する剣のような葉と、そこにからむ蜘蛛の巣。倒木の根。細部というより、正確には細部の、さらにその表面に焦点を合わせている。

写真家が表面に目を凝らしているのがわかるのは、プリントと印刷がそのようにつくられているからだ(『Cecium Cs137』<Place M刊> 先月開かれた同名の写真展では、見事なプリントでそのことがより強く感じられた)。写真をじっと見ていると、視線はおのずから写真のなかでいちばん目を引く部分、細部の表面に引きよせられる。

ぬめっと光った木の根の皺といぼが、動物の皮膚のように感じられてくる。枯れ葉を突き破って顔をだした土筆の穂もなにかの触覚に見えてくる。複雑に絡まった木の根が、まるで子供を抱いている母親のようにも、さらにはヒロシマの記録で見た記憶のある焼けただれた身体のようにも感じられてくる。

フクシマからヒロシマへと連想が流れるのは短絡的にすぎるかもしれない。写真家がそれを意図しているとも思えない。そのような社会的問題意識でなく、見えないセシウムの積もった場所をひたすら見つめることによって瀬戸正人に見えてきた福島。何も変わらない風景が、ここでは確かに何かが変わっていると感じられる。そんな力を持った写真集であり写真展だった。

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ぶどうの収穫

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harvest of grape

庭のぶどうを収穫。種ありのデラウェア。以前は大きな籠にいっぱい獲れたけれど、最近は熟す前に実が落ちたり鳥に食べられたりで、ぐんと収穫が少なくなった。年に一度、肥料を入れるだけで放りっぱなしだから無理ないかも。甘くて味はいい。


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October 10, 2013

『世界一美しい本を作る男』 編集者として経営者として

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How to Make a Book with Steidl(film review)

映画が始まってすぐ、知ってる顔が出てきたので顔がほころんでしまった。写真家のマーティン・パー。9年前、彼がアルル・フォト・フェスティバルのキュレーターとして「木村伊兵衛のパリ」展を企画し来日したとき、写真雑誌の編集をやっていた関係から作品の選定やプリント、搬送をお手伝いしたことがある。『世界一美しい本を作る男(原題:How to Make a Book with Steidl)』のなかで、マーティン・パーはこの映画の主役ゲルハルト・シュタイデルが経営するシュタイデル社のことを、「この10年でもっとも重要な出版社」と言っている。

パーだけではない。このドキュメンタリーにはロバート・フランク、ジョエル・スタンフェルド、ウィリアム・エグルストン、ロバート・アダムス、ジェフ・ウォールといった写真家が次々に出てきて、自宅やスタジオでシュタイデルと企画の打ち合わせをする姿が映る。それだけでも写真好きにはたまらない。

なかでも、スタンフェルドがドバイのショッピングモールでiフォンで撮った写真を『iDubai』という写真集にまとめる過程が、最初の打ち合わせから写真選び、判型や頁数、紙の選定、表紙の素材の相談、デザイン、校正刷り、印刷といった工程がすべて追いかけられて、編集者のはしくれとして実に興味深く見た。iフォンの縦長の画像を1ページに3点収めて横長の小さめな判型にするとか、表紙にあえて悪趣味な色の素材を使い、裏表紙にはバーコードを巨大にして金で箔押しするとか、そう決めるまでのシュタイデル(編集者)とスタンフェルド(著者)のやりとりは本づくりの醍醐味を伝えている。

シュタイデルは「本は作品の分身だ」と言う。iフォンで画像を見る感じをそのまま判型やデザインに生かし、表紙に悪趣味な色を使ったり金色のバーコードをデザイン的に処理したのは、金持ち国のショッピングモールでiフォンで撮影したこの作品に対するある種の自己批評になっている。それが「作品の分身」ということだろう。表紙にどぎつい色を5種類使って数百部づつ5つの異なるバージョンをつくったのは、デザイン的な遊びであると同時にコレクターズ・アイテムとしての商品価値を高める販売戦略でもあろう。

贅沢だなあと思ったのは、ポップアーチスト、エド・ルシェの写真を入れてつくるケルアック『オン・ザ・ロード』の豪華本だ。シュタイデルはこの長編小説を活版で印刷するという。ドイツやアメリカでどうなのか知らないが、日本では鉛の活字を組む活版印刷は今ではほとんど残っていない。1970年代に写植になり、さらにデジタル化されて、活版印刷はもはや伝統工芸に近い技術。

活版は鉛版で紙をプレスして印刷するので、できあがった本をよーくみるとかすかな凹凸がある。その手触りがたまらなくいい。フォントも活版には独特のものがある。写真や映画でもフィルムとデジタルでは質感の差があるけれど、活版印刷の本はデジタル印刷の本にはない手作り感がある。そこに作品が書かれた1950年代のアメリカ車を撮った写真ページが挿入される。

ロンドンのガゴシアン・ギャラリーで開かれたこの本の展覧会のシーンがあって、本を見開きページごとにばらして額装し、展示されていた。本というより美術品の扱い。制作部数も350部で、それも大部分がルシェの分というから、市場に出回るのは100部程度。これはもう出来栄えも値段も美術工芸品そのものだ。

もうひとつ驚いたのはシュタイデル社が印刷機を備えていること。日本ではふつう出版社が印刷機を持つことはないから、シュタイデルは出版社+印刷所ということになる。最新鋭の印刷機を備えるにはかなりの設備投資がいる。社員45人、映画を撮影していた2年間での出版点数は二百数十点というから、日本でいえば中規模の出版社。シュタイデルはそこにワンマンとして君臨している。企画から編集、デザイン、印刷、そして販売まで本づくりの全工程をひとりでコントロールしてるんだから、これはやりがいがあるし気持ちいいだろうなあ。

シュタイデルの写真集は貧乏フリーランサーの身には高価すぎていつも眺めるだけ、買ったことはない。そのように少部数高定価の工芸品のような本をつくることで、シュタイデルは独特のビジネス・モデルをつくりあげた。今は日本でも既存の出版社ではない会社がそれをモデルに、ハイクオリティの印刷で数万円あるいはもっと高価な写真集を出すところも出てきた。シュタイデルの影響だろう。

これだけの世界的写真家やギュンター・グラスのような作家の本をつくりつづけられるのは、編集者としてのシュタイデル個人の力。にしても編集者として満足のいく仕事をやりながら経営者としてもうまくやるのは至難の業だ。シュタイデルはそれを当たり前のような顔でやっている。仕事場ではいつも白衣、世界中を飛び歩いての打ち合わせも普段着だし、パーティでも着飾らない。そんな男の仕事漬けの日々のあれやこれやが面白く、勉強にもなったドキュメンタリーだった。

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October 06, 2013

『ポルトガル、ここに誕生す』 古都の時間

Centrohistorico
Centro Historico(film review)

『ポルトガル、ここに誕生す(原題:Centro Historico)』はポルトガル王国の古都ギマランイスが世界遺産に登録されたのを機につくられたオムニバス映画。ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ、先鋭な映画をつくるペドロ・コスタ、フィンランド出身でポルトガルに住むアキ・カウリスマキ、隣国スペインのビクトル・エリセの4人が、ギマランイスをテーマに短編を競っている。

誰のを見たいかって? もちろん、ビクトル・エリセ。100歳をこえてつくったオリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』は色っぽかったし、コスタの『ヴァンダの部屋』はとんがっていた。カウリスマキの映画はいつも見るのが楽しみ。でも『マルメロの陽光』(1993)以来20年も長編を撮っていないエリセは、今でもいちばん作品を見たい映画監督のひとりだ。『ミツバチのささやき』と『エル・スール』は、僕がこれまで見たすべての映画から100本挙げるとすれば2本とも上位に入ってくる。

エリセのパートは第3話「割れたガラス」。窓ガラスが割れ、廃墟になった工場と水びたしの床を正面から捉えたショットに、ぴたりぴたりと水が滴る音が聞こえてくる。この最初のショットと音の一発で、まぎれもなくエリセだなと分かる。

工場は20世紀前半、ヨーロッパ第2の規模を誇る紡績工場だったが、今は廃墟になっている。大食堂に数百人の従業員が集まった、かつての繁栄をしのばせる写真が壁に大きく引き伸ばされている。その集合写真を前に、何人もの元従業員が記憶を語る。確か、「ギマランイスの映画のためのテスト」といったタイトルが出たと思う。映画のために元従業員をカメラ・テストしているという趣向。

雄弁に過去を語る壁のモノクロ写真と、淡々と記憶を語る老年の男と女の現在が重なって、ギマランイスとそこに生きた人々の時間を感じ取ることができる。劇的なものはないけど、ひとりひとりの重みを受け取る。これがテストという名の短編でなく、本当に20年ぶりの長編映画が撮られるといいのに。そんな夢想をしたくなる。

カウリスマキは、旧市街のバーテンダーが来ぬ女を待つ、いかにも彼らしいお話。階級と革命にこだわるコスタは、アフリカのかつての植民地カーボ・ヴェルデから来た移民労働者が夢の中で交わす兵士との対話。オリヴェイラは、ギマランイスを案内するガイドと古都を占領した観光客。もっとストーリーが展開するのかと思ったところでエンド・ロールになり不意をうたれた。

オムニバスとしての統一感はないけど逆にそこがいい。それぞれに楽しめたな。

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October 04, 2013

『地獄でなぜ悪い』 アクション×コメディ=?

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Why Don't You Play in Hell?(film review)

園子温監督がどんな映画をつくりたかったかは、とてもよく分かる。思いきり笑えて、アクションが堪能でき、その果てに映画への愛に涙する。僕も頭のなかで、その映画を思い浮かべることができる。でも実際に出来上がった映画は、このところの園監督の作品がどれもそうであるように、面白いんだけどどこか出来損ない感がつきまとう。正直、途中でちょっと眠くなった。傑作『冷たい熱帯魚』と比べてしまうのがいけないのか。

『地獄でなぜ悪い』は二つの集団が映画をつくろうとするお話。ひとつ目の集団は、アクション映画大好きの映画少年たち。監督になりたい平田(長谷川博己)を中心に、カメラ志望の男の子と女の子、ブルース・リーみたいなアクション・スターを夢見る男の子の4人が自主映画製作集団「ファック・ボンバーズ」をつくっている。平田は「いつか永遠に残る1本の映画をつくる」と言いつづけているが、みなそろそろ30代になろうとしている。この設定、園監督の青春の記憶でもあるんだろうな。

もうひとつの映画をつくろうとしているのは、やくざ。やくざの組長・武藤(國村隼)が獄中の妻・しずえ(友近)の出所祝いに娘のミツコ(二階堂ふみ)を主演に映画をつくっている。しずえの夢は娘をスターにすることだが、対立する組の池上(堤真一)たちが殴りこみをかけてきたとき、池上の子分を殺してしまった罪で獄中にいるのだ。ところが、撮影現場から主演のミツコが逃げ出してしまう。

いろんなどたばたの末に二つの集団が出会い、「ファック・ボンバーズ」が、武藤の組が池上の組に殴りこむ現場をそのまま実録で映画に撮ることになる。

ラストの殴りこみは深作欣二の映画さながら迫力満点(冒頭、『仁義なき戦い』のテーマが流れたり、警察署が「深作警察」だったり)。國村隼は(おかしさも含めて)はまり役だし、堤真一も着流しの殺陣が決まってる。二階堂ふみはタランティーノ『キル・ビル』ふうに頑張る。國村隼の首も宙を飛ぶ。園映画らしく、血の海のなかで「ファック・ボンバーズ」の面々もカメラを回しながら死んでゆく。

ただ、そこに行くまでがしんどい。二階堂ふみの臨時の恋人として星野源が登場し、彼が二つの集団をつなぐんだけど、この準主役級の人物の役割がはっきりしないため物語が停滞し、まだるっこしい。あるいは星野源ありきで役をつくったのか。どうせリアリズムじゃないんだから二階堂と長谷川を恋人同士にするとか、テンポよく処理してほしかった。

それだけじゃなく、笑いがいまひとつ決まらない。堤真一は、床の間の絵の後ろに惚れた二階堂ふみの大きな写真を密かに貼っている。それがばれて、やくざの親分らしい表情が一転、でれでれになる。そんな笑いが、びしっと決まらない。ここで笑わせたいんだろうなと思うけど、気持ちよく笑えない。長谷川博己の熱狂的な映画青年も空回りした感じ。どうも園監督はコメディが得手じゃないみたいだな。

園子温監督の映画はよくも悪くも過剰さが命。それはこの映画でも変わらない。また次に期待しよう。

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October 02, 2013

43年ぶりの帰国

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wellcome back after 43years from US

中学・高校以来の友人T君が43年ぶりにアメリカから帰ってきて東京で暮らすことになった。仲間が夫妻を囲んで歓迎のランチ。

高校3年のとき、クラスには音楽を志す生徒が3人もいた。3人ともプロの音楽家になって、T君はそのひとり。大学を出た後、アメリカへ渡ってニューヨークでヴァイオリニストとして活躍していた。その後、T君はロサンゼルスへ移って俳優としても活動し、いい味の役者になった。TVシリーズ「ヒーローズ」や裕木奈江と共演したインディペンデント映画『ホワイト・オン・ライス』は日本でも公開されている。

その後T君は大病を患い、心腎同時移植という大手術を受けた。今はすっかり元気になっている。

僕はロスで会っているので5年ぶり、仲間は十数年ぶりの再会。話しはじめればあっという間に50年前のガキの時代に戻る。日本橋小網町のポーランド料理店、ポルスカで。


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