瀬戸正人『Cecium Cs-137』

Seto Masato photography book”Cesium Cs-137”
福島第一原発の事故は東日本に多くの放射性物質をばらまいた。セシウムなら35キログラム、チェルノブイリの半分ほどの量になるという。セシウム137の半減期は30年だから、地表に降ったセシウムは今も放射線を発しつづけている。
放射性物質は目に見えない。写真は目に見えるものしか写らない。目に見えないものを、どうやって写真で表わすか。何人もの写真家が、この目に見えない恐怖を見えるものにするためにさまざまなことを試みている。分かりやすいのは、事故によって新しく生まれた風景──人々が避難して無人になった街並みや家屋、置き去りにされたペットの死骸、道路を闊歩する野生化した牛や豚──を撮ることだろう。新聞やテレビでそんな風景にずいぶんお目にかかった。
そうではなく、事故前と何ひとつ変わらない風景にあえてカメラを向ける写真家もいる。何ひとつ変わっていないものを撮りながら、そこに目に見えないセシウムが降り積もっている恐怖をどう表現するか。それは写真家の技量にかかる。
瀬戸正人もまた故郷・福島の、何も変わっていない風景に目を向けている。小川にかかる木の橋。川辺に茂る木々。雪の積もった草原。水面を泳ぐ水鳥。でも瀬戸の目は次第にそうした広く大きな風景から風景の細部へと向いてゆく。水面から突き出た石と、石を覆う細かな苔。あるいは光を反射する剣のような葉と、そこにからむ蜘蛛の巣。倒木の根。細部というより、正確には細部の、さらにその表面に焦点を合わせている。
写真家が表面に目を凝らしているのがわかるのは、プリントと印刷がそのようにつくられているからだ(『Cecium Cs137』<Place M刊> 先月開かれた同名の写真展では、見事なプリントでそのことがより強く感じられた)。写真をじっと見ていると、視線はおのずから写真のなかでいちばん目を引く部分、細部の表面に引きよせられる。
ぬめっと光った木の根の皺といぼが、動物の皮膚のように感じられてくる。枯れ葉を突き破って顔をだした土筆の穂もなにかの触覚に見えてくる。複雑に絡まった木の根が、まるで子供を抱いている母親のようにも、さらにはヒロシマの記録で見た記憶のある焼けただれた身体のようにも感じられてくる。
フクシマからヒロシマへと連想が流れるのは短絡的にすぎるかもしれない。写真家がそれを意図しているとも思えない。そのような社会的問題意識でなく、見えないセシウムの積もった場所をひたすら見つめることによって瀬戸正人に見えてきた福島。何も変わらない風景が、ここでは確かに何かが変わっていると感じられる。そんな力を持った写真集であり写真展だった。
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