『オン・ザ・ロード』のビ・バップ
ジャック・ケルアックの『路上』はビートニクの聖典と言われるけれど、ビートニクが詩や小説だけでなく、当時の新しいジャズ、ビ・バップとも深く関係していたことはよく知られている。実際、『路上』のなかでもビ・バップを象徴するプレイヤー、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンを聞いた、という描写が何度も出てくる。ビートニクもビ・バップも、戦争(第二次世界大戦)をくぐって伝統的な小説や音楽に飽き足らなくなった世代が新しい体験、未知の熱狂と速度感を求めたことに共通するものがあったんだろう。
映画『オン・ザ・ロード(原題:On the Road)』にはスリム・ゲイラードというアフリカ系のジャズメンが出てくる。スリムが演奏するシーンが2度ほど出てくるし、画面の背後でもスリムの曲が何曲も流れている。ニューヨークのクラブのシーンでは、スリムの5、6人編成のコンボが熱狂的な演奏を繰り広げ、スピード感ある音に合わせて客が痙攣的なダンスを踊っている。音の感じはビ・バップというより、ビ・バップの匂いのする古いジャズ。小説ではこんなふうに描写されている。
「スリムが『Cジャムブルース』を弾こうとしているのに気がつくと、彼の大きな人差し指を弦にかけて、とどろくように大きなビートがはじまり、誰も彼もみんなが体をゆり動かしてロッキングをはじめる。……やがて、スリムは気が狂ったようにボンゴをひっつかんで、おそろしく速いキューバナ・ビートを鳴らし、スペイン語、アラビア語、ペルーの方言、エジプト語と彼の知っている言葉をみんな使っての気狂いじみたことをわめくのだ」
スリム・ゲイラードはピアノとギターを演奏するジャズメンで、ベーシストと組んで1930年代後半に人気者になった。指の爪側でピアノを弾いておどけたり、ジョークで客を笑わせるのは、この時代のアフリカ系ジャズメンの悲しい性。でもすごい早弾きで、笑いとスピードで観客を興奮状態にさせたという。その片鱗はYouTubeで見ることができる。1945年にはチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとアルバムを録音しているから、ビ・バップの連中とも近かったんだろう。
『路上』に登場する何人ものジャズメンのなかから、映画化するに当たってチャーリー・パーカーのような生粋のビ・バップでなく、スリムのような一時代前の大衆的ミュージシャンを選んだのが興味深い。新しいジャズであるビ・バップは、昼間はビッグ・バンドに属するミュージシャンが深夜、自分たちだけでやりたい音楽を演奏するジャム・セッションのなかから生まれた。だから音楽として純化され、結果、パーカーらのモダン・ジャズはダンス音楽から鑑賞音楽に変わったとされる。
そういう純化された音楽が出てくる裾野には、スリムのような古さと新しさを併せ持ったミュージシャンがたくさんいたはず。スリムの音楽では、ビックバンドのジャズで男女が組んでダンスを踊るようには踊れないけど、興奮した観客は身体を痙攣させるようにして踊っている。いまクラブで踊られているダンスの元祖みたいなもんですかね。今の僕たちは完成された音楽としてのビ・バップを聞いているけれど、その周辺にはスリムのような古いジャズと新しいジャズが入り交じった音楽がたくさんあって、客たちはそんな音にも身体を合わせて踊っていた。そういうビ・バップが生まれる背後の混沌が分かって面白い。
ビ・バップだけでなく、映画はビートニクの背後にあるいろんなものを再現して、なるほどこうだったんだと分からせてくれる。僕が『路上』を読んだのは30年近く前で、そのときは小説(映画)に出てくるオールド・ブル・リー(ヴィゴ・モーテンセン)のモデルがウィリアム・バロウズで、カーロ(トム・スターンリッジ)のモデルがアレン・ギンズバーグということすら知らなかった。だから小説の背後にある事実や人間関係が分からないまま、自由を求めて路上へと向かう主人公たちの、なにものかに衝き動かされる心情ばかりが印象に残った。
映画を見ると、既製の社会システムからはみ出すことを選んだビートニクの精神を体現する本当の「路上」の人は、表現者として何の作品も後世に残さなかったディーン(ギャレット・ヘドランド)であり、彼を巡って酒とクスリとジャズと同性愛的な関係が背後にあったことがよく分かる。カーロ(ギンズバーグ)はディーンへの愛を隠さないし、ディーンは妻も子もありながらゆきずりの男(カメオ出演のスティーヴ・ブシェミ)とよろしくやっている。クスリはアンフェタミン、ベンゼドリン、マリファナ、モルヒネ、睡眠薬など手当たりしだい。
もうひとつなるほどと思ったのは、ディーンの父が大陸全土を放浪するホーボー(『北国の帝王』のリー・マーヴィン、よかったなあ)で、ディーンの放浪は行方知らずの父を探し、また父と同じ生き方を自ら引き受けることでもあったこと。小説にも出ていたのかもしれないけれど、まったく記憶になかった。ビートニクはホーボーの息子たちなんだ。
そんなディーンに対して、ケルアック自身を投影した主人公サル(サム・ライリー)はディーンの同伴者というか観察者みたいな立ち位置。ディーンが家や家族を捨てて路上に出ていくのに、サルはニューヨークに帰るべき家を持ち、そこから路上に出かけ、また帰ってくる。だからこそ、青春が終わったとき家という拠点に帰って戻って小説を書くことができたんだろうけど。だから『路上』はディーンへに捧げられた鎮魂歌のようなものだろう。
『路上』の映画化は製作のフランシス・フォード・コッポラが長いこと温めてきた企画で、ブラジルのウォルター・サレスを監督に起用した。『モーターサイクル・ダイアリーズ』でもそうだったけど、旅がもつ独特の浮遊と空虚が画面から滲みでてくる。西部の砂漠や中西部の農村風景、サンフランシスコの都市風景、どれも素晴らしい。その一方、家庭を捨てるディーンの妻の目から男たちを見る視線も持ちあわせている。だから単純なビートニク賛歌にはなっていない。
そんな複眼的な奥行きがあるからこそ、最後、一つの時代が終わりニューヨークの路上に消えてゆくディーンの姿が悲しく迫ってくる。
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