『トゥ・ザ・ワンダー』 スタイルの極北
映画というのは巨額の金がかかるアートでありエンタテインメントでもある産業だから、特権的な立場にあるごく少数の例外を除けば、映画監督は常に自分のつくりたいものと市場性のバランスを考えなければ長期にわたって映画をつくりつづけることはむずかしい。でも確固とした自分のスタイルをもった映画監督は、時に市場性よりも自分のスタイルを極北までつきつめた映画をつくってみたいと欲望するのかもしれない。
例えば台湾のホウ・シャオシェンの『珈琲時光』から『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』にいたる映画は、それ以前から持っていたスタイルを過激に推し進めて、映画的時間と現実の時間を限りなく近ずけることにリアリティーを求めたようにも見える。2本とも興業的に失敗し作品としての評価も高くないけれど、僕はどちらも好きな映画だ。
『トゥ・ザ・ワンダー(原題:To the Wonder)』も、それと似た種類の映画に見える。1980~90年代の『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』で自分のスタイルをつくったマリックの最近作は、『ツリー・オブ・ライフ』から『トゥ・ザ・ワンダー』へと、彼の初期の映画が持っていたスタイルを一層徹底させている。
『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』でも、それぞれの物語の傍ら主人公たちをつつむ草木や小動物や風や太陽の光といった自然描写が強調されていた。時にはそうした自然描写こそ映画の主役ではないかと感じたりした。その自然描写が『ツリー・オブ・ライフ』や『トゥ・ザ・ワンダー』では、明らかにこちらが主人公というところまで徹底されている。もちろんその分、物語が希薄になった。物語らしい物語も、人と人が対話するセリフもごく少なく、主人公の独白が映画の推進力になる。しかも『ツリー・オブ・ライフ』では神との哲学的な対話が繰り返される。
『トゥー・ザ・ワンダー』は男と女の出会いと別れ。フランスへ旅行したアメリカ人ニール(ベン・アフレック)がフランス女性マリーナ(オルガ・キュリレンコ)と恋におちる。マリーナはニールが住むアメリカの田舎町に移り住むが、やがて二人の心は冷え、マリーナはとフランスに帰り、でももう一度心を寄り添わせた二人は結婚するのだが……。田舎町には神父(ハビエル・バルデム)がいて、彼もまた心が揺らいでいる。
一応、そういうストーリーらしきものはあるけれど、ふつうドラマにあるべき最低限の説明もされない。説明的なセリフが過剰な映画(日本映画の悪癖)も興ざめだけど、これはまた極端。wikipediaによると、きちんとしたシナリオもなかったらしい。だから物語のおおよその流れしか観客には分からない。
その代わり、ニールとマリーナが寄り添い、離れるといった心の揺れを、草がそよぐ草原や、潮が満ちてくる砂浜や、たわむれるマリーナに降り注ぐ陽光や、打ち寄せる波、水中の泡や光などによって語っているように見える。そこから受ける印象は、男と女は出会いと別れを繰り返しながら生きてゆき、自然はそれを黙って見つめている、といった感慨。
もっともこれに神父の独白や神への問いかけが加わるから、自然と人間といった単純な二分法ではなく、キリスト教に縁がない僕のような人間には分かりにくい。
主人公たちの恋と別れは、ヨーロッパで妻と出会い、後に別れたマリック監督自身の体験をベースにしているらしい。ということは、一人の男の脳髄に宿った地球創世期の記憶みたいな壮大な構えだった『ツリー・オブ・ライフ』こ比べ、これはほとんどマリック監督が自分のためにつくった、観客を必要としない映画? 美しい映像を堪能した『ツリー・オブ・ライフ』のようには酔うことができなかった。やはり自分は物語がしっかりして人間をきちんと描いた映画が好きな古い人間なんだなあと、再認識。オルガ・キュリレンコは魅力的だけど。
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