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September 29, 2013

地下鉄巡礼団の1日

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A Subway Pilgrim Brothers

50年来の友人Iは多才多芸な男で、ちゃんとした企業に勤めながら組織のなかで面白がる術を知っており、仕事だか遊びだか分からないようなことをやったり、リモージュ・コレクションの趣味が高じてサイドビジネスを始めたりしてきた。退職した今も自分の会社を切り盛りして忙しく飛び回っている。

その趣味のひとつが「地下鉄巡礼団」というもので、東京じゅうの地下鉄駅を巡り、駅の階段を参道に見立ててエスカレーターなど使わずにそこを登って近所の神社へお参りする。何のためにとか、どこが面白いの? とか思う方も多かろう。たとえば定年後の散歩趣味ならその後の宴会がつきものだけど、Iは酒を飲まない(この日もお茶とケーキで打ち上げ)。純粋な好奇心と面白がりが彼を駆り立てている。僕はその臨時団員で、なにかあるときだけ声がかかる。

今日は韓国のテレビ局が取材に来るとかでお呼びがかかった。まずは銀座駅の階段を登って銀座の路地裏にある神社をいくつか巡る。ビルの谷間に幅1mほどの公道があり、その途中にビルが建っていて、通行人はほとんどいないけど公道だから通り抜け自由にしなければならず、ドアを開けるとなんと喫茶店のなか、そこを通り抜けてまた公道に出ると稲荷がある。稲荷は商売繁盛の神さんだから夜のお姉さんたちがよく通うそうで、油揚げが供えられていた。かつてのオフィスが近かったので銀座はずいぶん歩いたつもりだけど、ここは知らなかった。広い通りに出たら蕎麦屋のよし田の前だった。銀座の路地裏は面白い。

そこから飯田橋駅へ移動し、大江戸線の地下鉄最長の階段を上がって牛天神へ。取材はロンドン・ニューヨーク・東京・ソウルという4都の地下鉄を特集する番組のためらしいが、Iの数寄者の面白がりがうまく伝わったろうか。


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September 28, 2013

秩父宮のナイター

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going to watch a rugby football game

友人のAに誘われて何年ぶりかの秩父宮ラグビー場へ。ナイターが気持ちいい、というより寒いくらい。

ゲームはトップリーグの東芝ブレイブルーパス対リコー・ブラックラムズ。Aのかみさんがリコーの株主なので、今日はリコー目線で。

前半しばらくは攻め続けたけれどゴールラインを割れない。そのうちにこれが実力差なのか東芝のリズムになり2トライ取られてしまった。2つ目のトライは東芝得意のゴール前ラインアウトからモール。あとワンプレーで終了のホーンの後、東芝スタンド・オフのヒルが何を考えたかボールを蹴り出さず(蹴り出せば終了)、フィールド内へキック。そこからリコーが攻め、たなぼたのペナルティー3点をもらって後半に興味をつなぐ。

後半、リコーは外国人のでかいFWが再三突破を試みるも東芝の守りは固くて、ラインブレイクできない。終了10分前、やっとウィングが余ってトライしたが時すでに遅し。東芝26-11リコー。

目の前で東芝のベテラン大野がきれいなトライを決めたのが嬉しい(って、やっぱりなじみのある東芝目線か)。

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September 26, 2013

藤田嗣治の戦争画2点

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battle-pieces of Fujita Tsuguji

藤田嗣治の戦争画が見たくて「戦争/美術 1940-1950」展に行ってきた(~10月14日、神奈川県立近代美術館葉山)。展示されているのは2点で、「ブキテマの夜戦」と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」。第二次大戦中、藤田は画壇の戦争協力に積極的にかかわり、陸海軍に委嘱された「作戦記録画」を14点描いている。そのうちの2点。

7年前、国立近代美術館の「藤田嗣治展」で藤田の戦争画5点を見て、その異様な迫力にうたれた。ヨーロッパの歴史画や殉教者を鎮魂する宗教画を下敷きにそれを日本絵画として実現しようとする、パリから帰国した藤田の野心満々の試み。描かれた素材のイデオロギーを脇におけば、完成度は素晴らしく高いと思う。

洲之内徹はこれらの絵について「フジタ自身としても最高のもの」と言っている。特に、暗い画面のなかで敵も味方も分からない兵士たちが殺しあう「アッツ島玉砕」は、絵画を見て心をこんなに揺さぶられたのははじめての体験だった。それ以来、藤田の戦争画が気になっている。

「ブキテマの夜戦」はなぜか額がはずされ(戦争画は戦後、GHQが集めて米国へ運び、後に国立近代美術館に「無期限貸与」された)、傷ついたような姿で展示されている。ブキテマはシンガポールを目指す日本軍と抵抗する連合軍が激戦をくりひろげた高地。夜戦の後の戦場、林のなかに打ち捨てられた銃や弾薬箱や飯ごうや水筒が散乱している。兵士の死体はひとつも描かれない。画面を支配しているのは静寂。

高地の彼方には、朝の光が一条、リアリズムでいえば不自然に(こんな光があれば、あたりは明るくなっている)暗い空を切り裂くように赤く染まっている。シンガポール陥落は山下・パーシバル会見が有名な緒戦の勝ち戦だけど、藤田の絵のどこにも勝利の高揚はない。もし、この絵のどこに勝利の喜びがあるのかと問われたら、藤田は「この赤光こそそれだ」とやや強引に答えたかもしれない。

「ソロモン海域に於ける米兵の末路」は2×2.6メートルの大作。ソロモン海戦で沈没した米国艦船からボートに乗り移って漂流する瀕死の兵士たち。僕は絵画に詳しくないけど、むかし教科書で見たジェリコー「メデューズ号の筏」を彷彿させる絵だ。でもこの作品、見ていて微妙な違和感に襲われる。ボートに横たわる死にかけた兵士たちのなかで、ひとりの米兵がすっくと立っている。その姿や表情はきりりとして、うちひしがれた様子はない。負けたにもかかわらず、米国兵士としての誇りを失っていないように感じられる。

この作品、仮にアメリカ側で描かれた戦争画のなかに置かれても、負け戦のなかの「敗れざる者」としてすんなり収まってしまいそうだ。そんな画面を辛うじて「聖戦の大義」という文脈に押し込めているのが「末路」という絵の題名。この言葉によって、藤田は当時の日本人(と軍部)にこの絵は「米兵の末路」として見るんだと解釈を誘導している。軍もこの絵を受け入れたわけだから、パリ帰りの大家としての名声も有利に作用したかもしれない。

「ブキテマの夜戦」と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」は、以前に見た5点の戦争画もそうだったけど戦意高揚を狙って企画した陸海軍の意図とはずれている。事実、当時も藤田の絵は戦意高揚に役立たないのではという意見もあった。今回この2点を見て感じたことをさらに飛躍させると、こんな想像もできるかもしれない。藤田は「聖戦の大義」など、これっぽっちも信じてはいなかった。ただ軍の後ろ盾と金(当時は画材の入手も困難だった)を利用して、後世に残る戦争画を描ければそれでよかった。

100年、200年たてば、ある限られた時代を支配する「大義」やイデオロギーはどうでもよくなって、ただ命をかけて戦う人間の生と死を描いた絵画だけが残る。藤田自身、「いい戦争画を後世に残してみたまへ。何億、何十億といふ人がこれを観るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一所懸命に、真面目に仕事をしなけりやならないんだ」と言っている(新潮とんぼの本『画家たちの「戦争」』)。

ところで、「戦争/美術」展に藤田の戦争画が出品されていることを僕は朝日新聞の記事で知った。藤田の2点の戦争画は間違いなくこの展覧会の柱のひとつだけど、神奈川県近美がつくったチラシにもHPにもそのことは告知されてない。貸し出した国立近代美術館のHPにもなんの告知もない。こそっと貸し出している。

国立近美にはアメリカから無期限貸与された約150点の「作戦記録画」が収蔵されているけれど、全体が公開されたことはない。数点ずつ、「戦争」という言葉を使わず、目立たないよう小出しに公開している。どんな事情があるにせよ(昨今の中国・韓国との関係悪化のなかでその種の「配慮」はいよいよ強化されそうだが)、やはりきちんとした形で公開し、きちんと議論すべきだと思う。

藤田以外にも、松本俊介、山口蓬春、丸木位里・俊が心に残った展覧会だった。

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会場は葉山の海を望む丘の上に建つ。展覧会を見た後、海をながめながらゆっくりお茶を飲めるのが快い。

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September 20, 2013

『恋の渦』 豹柄大好き

Photo
Koi no uzu(film review)

この映画、エグいけど面白い。好みではないけど、思わず引き込まれる辛らつなコメディ。僕は邦画をそんなに見てないけど、『恋の渦』には今の日本映画とは異質ななにかがありそうな気もする。『モテキ』の大根仁監督がわずか4日でつくったインディペンデント映画だ。

登場人物は20代の男と女9人で、みんな渋谷センター街を歩いていそうなファッション。男は風俗系アルバイトとか、フリーター。女はショップ店員や風俗嬢。男も女も豹柄の服を好み、部屋にも豹柄が目立つ。豹柄の服が吊るしてあったり、ベッドカバーが豹柄だったりし、その上で豹柄の男と女が絡みあう。

コウジ(新倉健太)とトモコ(若井尚子)が同棲する部屋で男5人女4人の合コンが開かれる。恋人のいないナオキに、ユウコを紹介しようという名目。ところが現れたユウコがケバい化粧の女の子で……(見終わると、この子がいちばん可愛く感じられる)。この合コンをきっかけに、別れ話がもちあがり、新しいカップルが生まれ、さらには浮気があったり、若いオスとメスが群れて恋とセックスに振り回される。

9人の会話には打算と嘘と、あけすけな本音が入り混じる(原作・脚本は劇作家の三浦大輔)。男と女、あるいは1人の女をめぐる2人の男。若いころを振りかえれば誰にも覚えがあって、ぎゃっと叫びたくなる言葉であり、行動であるだろう。若い観客なら、オレ(私)はこんなゲスじゃないと思いつつ、なにがしか現在の自分を重ねてしまうに違いない。これってオレ(私)のことじゃん、と。近頃の若いもんにただ辛らつなだけでなく、誰にも覚えがある地点まで突きぬけているからこそ、見ていて笑いつつ痛さや恥ずかしさに打たれる。

『恋の渦』は、山本政志監督が主宰する映画実践塾の企画のひとつとして、第一線の監督を招き生徒がスタッフ、キャストとして動きながらつくった作品。それが劇場公開されヒット作となった。

監督の大根仁はテレビ出身。テレビといってもゴールデン・タイムでなく深夜ドラマをつくってきたようだから、誰にも楽しめるテレビの作法と深夜枠の冒険精神を併せもっているんじゃないかな。テレビやプロモーション・ビデオ出身という背景が、今の邦画の主流とは異質のものをもたらしたのかもしれない。といっても、僕が見ている邦画はミニシアターのインディペンデント系の映画が多いけど。

近ごろのインディペンデント系出身の監督のスタイルは、カメラについていえばアップより引きの画面、移動よりフィックス、斜めの画角ではなく正面を好み、短いカットをつなぐのでなく長回しを好む。だから映画から受ける感触は、対象から距離をもってクール。『恋の渦』はそこがずいぶん違う。長回しはしないし、アップも多用する。それだけ登場人物が皮膚感覚として近く感じられる(共感は一切しないけど)。

4つの部屋を舞台にした密室劇であることも(壁にはAKB48や壇蜜のポスター)、男と女のどうしようもないエネルギーが閉じ込められ渦巻いてる感触につながる。笑いも、インディペンデント系のゆる~い笑いやユーモアでなく、失笑や爆笑。

映画はいろんなスタイルがあってこそ面白い。『恋の渦』のこてこての濃い味は貴重だ。好みじゃないなあ、などと言いつつ、大根監督の映画を次も見にいくことになりそうだ。


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September 11, 2013

田附勝「kuragari」展

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Tatsuki Masaru photo exhibition

午後の光がまぶしい街路から照明のない会場へ入ると、目が慣れるまでのちょっとの間、本当の暗がりに入ったように思った。上の写真右手の壁の奥にもうひとつ空間があって、そっちはもっと暗い。

暗がりのなかに、周囲を黒い闇に囲まれ真ん中だけが円く照らされた写真が並んでいる。映っているのは夜の森。どの写真も、鹿がびっくりしたように撮影者を見つめている。心がざわざわする。夜の森を歩いていて、いきなり生き物に出会う。そのとき撮影者が感じたろう驚きと恐怖と喜びの感情が、見る者にも再現される。そんな展示。

田附勝はLED照明を片手に、ライカを片手に夜の森に入っていったそうだ。人間と出会うと鹿は一瞬静止する。そこをLEDの光でシャッターを押す。場所は岩手県釜石。『東北』で木村伊兵衛賞を受賞した田附が、東北とさらに深く関わっていくことを鮮明にした写真展だ。

田附の東北は、海や水田ではなく山。東北は遥かな狩猟採集の時代、信州とともに人口密度が高かった。森が豊かだったからだろう。写真集『東北』でも狩猟や、それにまつわる祭の写真が印象的だった。

展示を見ながら連想したのは、福島の森。汚染地域では人間が撤退し、飼育されていた牛や豚、犬猫が野生に帰った。イノブタが繁殖したり、人間のテリトリーが動物のテリトリーに取って代わられたり、いろんなことが起きている。そんな福島の森や動物と、これからどうつきあっていったらいいのだろう。(六本木・ギャラリー SIDE 2、~9月13日)

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September 09, 2013

『サイド・エフェクト』 新上流の不安

Sideeffects
Side Effects(film review)

映画監督をやめて絵描きになると宣言したスティーブン・ソダーバーグ監督(宮崎駿同様、「撤回します」と言いそうな気もするけど)の映画が2本かかっている。『マジック・マイク』と『サイド・エフェクト(原題:Side Effects)』。『マジック・マイク』はヒットしてるし楽しめそうな映画ではあるけれど、ミステリー好きとしては『サイド・エフェクト』に足が向いてしまう。日曜の午後、雨とあって新宿シネマカリテは小さな劇場だけど満席。

ソダーバーグ最後の映画になるかもしれない『サイド・エフェクト(副作用)』はニューヨークを舞台にした、薬害にまつわるサイコ・ミステリー。サイコといってもハラハラドキドキでなくソダーバーグらしいクールなサスペンスで、都市に暮らすアッパー・ミドル・クラスの男と女の冷え冷えした人間関係を背景に、怖さがじわっと身にしみてくる。

映画は建物のショットで始まり、建物のショットで終わる。冒頭はマンハッタンの北端、155丁目にある高級コンドミニアム。カメラは建物全体から装飾された壁と窓に静かに近づいてゆく。カメラが室内に入ると部屋から部屋へ血の跡がべっとりついているのは、ミステリー導入部の王道。ラストは逆に鉄格子のはまった窓から建物全体へ、さらに建物の周囲へとカメラが引いてゆく。建物は精神障害治療センター。カメラがさらに引くと、病院の彼方にマンハッタンの高層ビル群が小さく見えている。

病院の建物の入口には「ワーズ・サイキアトリック・センター」と書かれていた。ワーズ島はイースト・リバーの中洲の島で、マンハッタンとクイーンズとブロンクスに囲まれている。グーグルを見ると実際に精神障害治療センターや下水処理場があり他は公園になっている。住宅地域はなさそうで、地下鉄も通っていない。

ワーズ島はかつて個人所有の島だったが19世紀にニューヨーク市の所有になり、墓地や移民のための病院が置かれた。ワーズ島の南にあるルーズベルト島も同様に個人所有からNY市の所有になった島で、ここにも監獄や病院が置かれた。この島にはマンハッタンからロープウェーがあって、僕はこれに乗って島に行ったことがある。ルーズベルト島は今は住宅地として整備されているけれど、かつての監獄跡の建物も残っている。ワーズ島といいルーズベルト島といいイースト・リバーに浮かぶ島は、その歴史からニューヨークという都市内部のいわば隔離された場所だった痕跡をひきずっている。

精神科医のジョナサン(ジュード・ロウ)が、軽い交通事故を起こして病院に搬送されたエミリー(ルーニー・マーラ)を診察し担当医になる。エミリーは、金融マンの夫(チャニング・テイタム)がインサイダー取引で服役中に鬱病を発症していた。バンクスはエミリーの以前の担当医ヴィクトリア(キャサリン・ゼタ-ジョーンズ)と会い、彼女の示唆でアブリクサという新薬を処方する。新薬を処方することで、ジョナサンには製薬会社から報酬が出る。でも新薬には夢遊状態に陥る副作用があり、ある夜、エミリーは夢遊状態で夫を殺してしまう。

裁判で、エミリーの弁護士は薬害による無罪を主張し、処方したジョナサンの責任が問われる。病院から追い出され妻も家を出て窮地に追い込まれたジョナサンは、エミリーの交通事故が自ら仕組んだのではないかと調べ始める……。

ごひいきのキャサリン・ゼタ-ジョーンズはひっつめ髪に黒縁の大きな眼鏡をかけた女医役で、ふくよかな色気を押し隠している。ただの脇役のはずないよなあと思ってたら、どんどん影の主役めいてきて、最後はうーん、そうきたか。ロンドンから来た医者でイギリス英語のジュード・ロウは、ニューヨークの空気になじめない男のとまどいを漂わせる。どこまで病気でどこまで仕組んでいるのか分からないルーニー・マーラーも、ナイーブな女の陰りと魅力が素敵だ。

出てくるのは医者や金融ビジネスに従事する男と女。社会学者チャールズ・マレーが、旧来の富裕層でなく知的労働によって富を得る「新上流」と定義した階層に皆が属している。ここでは成功と失敗は紙一重。小さなスキャンダルひとつで現在の地位と富を失いかねない不安とあせりがミステリーの源になっている。ソダーバーグは彼らに対するクールな批評を、ひとひねりした復讐劇に仕立ててみせた。

最後のシーンで、病院に収監されたエミリーは「調子はどう?」という看護師の問いに「Better. Much better」と答える。字幕がどう訳したか記憶にないけど(「とてもいいわ」だったか「まあまあね」だったか)、いろんなふうに取れる複雑なニュアンスを持っている。エミリーの病が一段と深くなったのか、正気である彼女の絶望の表現なのか。どちらとも取れるけれど、そこからカメラは引いてマンハッタンの風景を無言で映し出す。


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September 06, 2013

『トゥ・ザ・ワンダー』 スタイルの極北

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To the Wonder(film review)

映画というのは巨額の金がかかるアートでありエンタテインメントでもある産業だから、特権的な立場にあるごく少数の例外を除けば、映画監督は常に自分のつくりたいものと市場性のバランスを考えなければ長期にわたって映画をつくりつづけることはむずかしい。でも確固とした自分のスタイルをもった映画監督は、時に市場性よりも自分のスタイルを極北までつきつめた映画をつくってみたいと欲望するのかもしれない。

例えば台湾のホウ・シャオシェンの『珈琲時光』から『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』にいたる映画は、それ以前から持っていたスタイルを過激に推し進めて、映画的時間と現実の時間を限りなく近ずけることにリアリティーを求めたようにも見える。2本とも興業的に失敗し作品としての評価も高くないけれど、僕はどちらも好きな映画だ。

『トゥ・ザ・ワンダー(原題:To the Wonder)』も、それと似た種類の映画に見える。1980~90年代の『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』で自分のスタイルをつくったマリックの最近作は、『ツリー・オブ・ライフ』から『トゥ・ザ・ワンダー』へと、彼の初期の映画が持っていたスタイルを一層徹底させている。

『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』でも、それぞれの物語の傍ら主人公たちをつつむ草木や小動物や風や太陽の光といった自然描写が強調されていた。時にはそうした自然描写こそ映画の主役ではないかと感じたりした。その自然描写が『ツリー・オブ・ライフ』や『トゥ・ザ・ワンダー』では、明らかにこちらが主人公というところまで徹底されている。もちろんその分、物語が希薄になった。物語らしい物語も、人と人が対話するセリフもごく少なく、主人公の独白が映画の推進力になる。しかも『ツリー・オブ・ライフ』では神との哲学的な対話が繰り返される。

『トゥー・ザ・ワンダー』は男と女の出会いと別れ。フランスへ旅行したアメリカ人ニール(ベン・アフレック)がフランス女性マリーナ(オルガ・キュリレンコ)と恋におちる。マリーナはニールが住むアメリカの田舎町に移り住むが、やがて二人の心は冷え、マリーナはとフランスに帰り、でももう一度心を寄り添わせた二人は結婚するのだが……。田舎町には神父(ハビエル・バルデム)がいて、彼もまた心が揺らいでいる。

一応、そういうストーリーらしきものはあるけれど、ふつうドラマにあるべき最低限の説明もされない。説明的なセリフが過剰な映画(日本映画の悪癖)も興ざめだけど、これはまた極端。wikipediaによると、きちんとしたシナリオもなかったらしい。だから物語のおおよその流れしか観客には分からない。

その代わり、ニールとマリーナが寄り添い、離れるといった心の揺れを、草がそよぐ草原や、潮が満ちてくる砂浜や、たわむれるマリーナに降り注ぐ陽光や、打ち寄せる波、水中の泡や光などによって語っているように見える。そこから受ける印象は、男と女は出会いと別れを繰り返しながら生きてゆき、自然はそれを黙って見つめている、といった感慨。

もっともこれに神父の独白や神への問いかけが加わるから、自然と人間といった単純な二分法ではなく、キリスト教に縁がない僕のような人間には分かりにくい。

主人公たちの恋と別れは、ヨーロッパで妻と出会い、後に別れたマリック監督自身の体験をベースにしているらしい。ということは、一人の男の脳髄に宿った地球創世期の記憶みたいな壮大な構えだった『ツリー・オブ・ライフ』こ比べ、これはほとんどマリック監督が自分のためにつくった、観客を必要としない映画? 美しい映像を堪能した『ツリー・オブ・ライフ』のようには酔うことができなかった。やはり自分は物語がしっかりして人間をきちんと描いた映画が好きな古い人間なんだなあと、再認識。オルガ・キュリレンコは魅力的だけど。

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September 04, 2013

奥野ビル2つの展覧会

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2 exhibitions in Ginza

銀座の奥野ビルといえば1932年に建てられ、築80年以上になる現役の歴史的建造物として有名だ。同潤会アパートをつくった設計者の手になり、建設当時は高級アパートメントだったという。いかにも昭和のモダニズムを感じさせる建物。今は部屋のほとんどがギャラリーや洒落たショップになっている。ここで写真に関係する2人の展覧会が開かれている。展示は2人とも写真でないのが面白い。

大西みつぐ「物語」(~9月8日、奥野ビル306号室)。

306号室では昭和初期の完成直後から平成の始めまで女性が美容室を営んでいた。1980年代に廃業した後も、彼女はこの部屋に暮らしていたという。今はほとんどの部屋がギャラリーなどに転用するため改装されているけれど、この部屋だけは女性が住んでいた当時のままに残され、それを生かしながらいろんな展示が行われている。

壁には直径40センチほどの円い鏡が3つかかっている。美容室を営業していたとき、この鏡の前に女性たちが座ったのだろう。背後の壁は部分的にはがれて、数種類の壁紙が見える。戦前、戦後を生きてきた女性の「時間」を感じることができる。そんな空間のなかで、戦前のものらしい真空管ラジオから懐かしい音楽が流れている。古い女性のポートレートが2枚置かれている。化粧用の小物もある。大西みつぐはそうした「もの」をさりげなく配置することで、306号室とここに住んだ女性の「物語」を、訪れた者がさまざまに想像し、読むことを仕組んでいる。

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飯沢耕太郎「DUNIA─世界」(~9月7日。地下の「巷房2」)。

写真評論家の飯沢耕太郎はこのところ、「きのこ」愛とか小説とか、写真の外の世界での活躍が目覚しい。この展示はドローング。色んな色の線がぐるぐると渦巻いて、魚とか、きのこらしきもの、人の顔、そのなかでも眼、あるいは妖怪らしきもの、時には形も定かでないものが立ち上がってくる。そんな生成の過程が感じられる。

会場に置かれた古いノートを見ると、写真についての言葉の上に、まるでいたずらがきのようにドローイングが描かれていた。写真について語るのは言葉を使ってアートの核を捉えようとする矛盾した仕事だけど、知的作業をしながら無意識に手が動いてその作業に回収できないなにものかが生まれた。それがやがて自覚的になされてこの展示となって結実した。そんな想像をしてしまう。


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September 03, 2013

『オン・ザ・ロード』のビ・バップ

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On the Road(film review)

ジャック・ケルアックの『路上』はビートニクの聖典と言われるけれど、ビートニクが詩や小説だけでなく、当時の新しいジャズ、ビ・バップとも深く関係していたことはよく知られている。実際、『路上』のなかでもビ・バップを象徴するプレイヤー、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンを聞いた、という描写が何度も出てくる。ビートニクもビ・バップも、戦争(第二次世界大戦)をくぐって伝統的な小説や音楽に飽き足らなくなった世代が新しい体験、未知の熱狂と速度感を求めたことに共通するものがあったんだろう。

映画『オン・ザ・ロード(原題:On the Road)』にはスリム・ゲイラードというアフリカ系のジャズメンが出てくる。スリムが演奏するシーンが2度ほど出てくるし、画面の背後でもスリムの曲が何曲も流れている。ニューヨークのクラブのシーンでは、スリムの5、6人編成のコンボが熱狂的な演奏を繰り広げ、スピード感ある音に合わせて客が痙攣的なダンスを踊っている。音の感じはビ・バップというより、ビ・バップの匂いのする古いジャズ。小説ではこんなふうに描写されている。

「スリムが『Cジャムブルース』を弾こうとしているのに気がつくと、彼の大きな人差し指を弦にかけて、とどろくように大きなビートがはじまり、誰も彼もみんなが体をゆり動かしてロッキングをはじめる。……やがて、スリムは気が狂ったようにボンゴをひっつかんで、おそろしく速いキューバナ・ビートを鳴らし、スペイン語、アラビア語、ペルーの方言、エジプト語と彼の知っている言葉をみんな使っての気狂いじみたことをわめくのだ」

スリム・ゲイラードはピアノとギターを演奏するジャズメンで、ベーシストと組んで1930年代後半に人気者になった。指の爪側でピアノを弾いておどけたり、ジョークで客を笑わせるのは、この時代のアフリカ系ジャズメンの悲しい性。でもすごい早弾きで、笑いとスピードで観客を興奮状態にさせたという。その片鱗はYouTubeで見ることができる。1945年にはチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとアルバムを録音しているから、ビ・バップの連中とも近かったんだろう。

『路上』に登場する何人ものジャズメンのなかから、映画化するに当たってチャーリー・パーカーのような生粋のビ・バップでなく、スリムのような一時代前の大衆的ミュージシャンを選んだのが興味深い。新しいジャズであるビ・バップは、昼間はビッグ・バンドに属するミュージシャンが深夜、自分たちだけでやりたい音楽を演奏するジャム・セッションのなかから生まれた。だから音楽として純化され、結果、パーカーらのモダン・ジャズはダンス音楽から鑑賞音楽に変わったとされる。

そういう純化された音楽が出てくる裾野には、スリムのような古さと新しさを併せ持ったミュージシャンがたくさんいたはず。スリムの音楽では、ビックバンドのジャズで男女が組んでダンスを踊るようには踊れないけど、興奮した観客は身体を痙攣させるようにして踊っている。いまクラブで踊られているダンスの元祖みたいなもんですかね。今の僕たちは完成された音楽としてのビ・バップを聞いているけれど、その周辺にはスリムのような古いジャズと新しいジャズが入り交じった音楽がたくさんあって、客たちはそんな音にも身体を合わせて踊っていた。そういうビ・バップが生まれる背後の混沌が分かって面白い。

ビ・バップだけでなく、映画はビートニクの背後にあるいろんなものを再現して、なるほどこうだったんだと分からせてくれる。僕が『路上』を読んだのは30年近く前で、そのときは小説(映画)に出てくるオールド・ブル・リー(ヴィゴ・モーテンセン)のモデルがウィリアム・バロウズで、カーロ(トム・スターンリッジ)のモデルがアレン・ギンズバーグということすら知らなかった。だから小説の背後にある事実や人間関係が分からないまま、自由を求めて路上へと向かう主人公たちの、なにものかに衝き動かされる心情ばかりが印象に残った。

映画を見ると、既製の社会システムからはみ出すことを選んだビートニクの精神を体現する本当の「路上」の人は、表現者として何の作品も後世に残さなかったディーン(ギャレット・ヘドランド)であり、彼を巡って酒とクスリとジャズと同性愛的な関係が背後にあったことがよく分かる。カーロ(ギンズバーグ)はディーンへの愛を隠さないし、ディーンは妻も子もありながらゆきずりの男(カメオ出演のスティーヴ・ブシェミ)とよろしくやっている。クスリはアンフェタミン、ベンゼドリン、マリファナ、モルヒネ、睡眠薬など手当たりしだい。

もうひとつなるほどと思ったのは、ディーンの父が大陸全土を放浪するホーボー(『北国の帝王』のリー・マーヴィン、よかったなあ)で、ディーンの放浪は行方知らずの父を探し、また父と同じ生き方を自ら引き受けることでもあったこと。小説にも出ていたのかもしれないけれど、まったく記憶になかった。ビートニクはホーボーの息子たちなんだ。

そんなディーンに対して、ケルアック自身を投影した主人公サル(サム・ライリー)はディーンの同伴者というか観察者みたいな立ち位置。ディーンが家や家族を捨てて路上に出ていくのに、サルはニューヨークに帰るべき家を持ち、そこから路上に出かけ、また帰ってくる。だからこそ、青春が終わったとき家という拠点に帰って戻って小説を書くことができたんだろうけど。だから『路上』はディーンへに捧げられた鎮魂歌のようなものだろう。

『路上』の映画化は製作のフランシス・フォード・コッポラが長いこと温めてきた企画で、ブラジルのウォルター・サレスを監督に起用した。『モーターサイクル・ダイアリーズ』でもそうだったけど、旅がもつ独特の浮遊と空虚が画面から滲みでてくる。西部の砂漠や中西部の農村風景、サンフランシスコの都市風景、どれも素晴らしい。その一方、家庭を捨てるディーンの妻の目から男たちを見る視線も持ちあわせている。だから単純なビートニク賛歌にはなっていない。

そんな複眼的な奥行きがあるからこそ、最後、一つの時代が終わりニューヨークの路上に消えてゆくディーンの姿が悲しく迫ってくる。


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