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August 29, 2013

箱根はもう秋

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a trip to Hakone

仙石原のススキも穂が立ちはじめて、箱根はもう秋の気配がしている。

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箱根湿性花園の、仙石原湿原の植生を復元した一角。かつて人の手が入って湿原が乾き、ススキやヨシなど丈の高い植物が増えて背の低い多様な植物が消えてしまった。そこでノハナショウブ、コオニユリ、コバギボウシなど本来の植生を取り戻そうと実験している。仙石原といえばススキが有名だけど、これは湿原が失われてゆく途中の風景なんだ。

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夏休みももうすぐ終わり。芦ノ湖は家族連れでいっぱいだけど、日蔭の涼しさ、雲の流れを見ているとやはり秋。

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さる健保組合の寮にはずいぶんお世話になった。来年3月で閉鎖が決まったという。外見はなんともなさそうだけど補修費用がかさみ、健保組合の財政も苦しい折からの決定だそうだ。

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August 25, 2013

『楽園からの旅人』 吊り降ろされるキリスト

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Il Villaggio di Cartone(film review)

『楽園からの旅人(原題:Il Villaggio di Cartone)』は、イタリアのある町の教会堂を舞台にしている。映画の冒頭から最後まで、カメラは教会の内にとどまり、その外に一歩も出ようとしない。教会堂の外の世界は、例えばパトカーのサイレン、車の騒音、ヘリコプターの羽音、窓を打つ雨滴といった音や映像で示されるのみ。それは実務的にいえばロケをすることなく、すべてセットで撮影されたということだろうけど、撮影費用を抑える(?)という制作事情によるだけでなく、内容的にそうする必然性があったのだと思う。

主人公は老司祭(マイケル・ロンズデール)で、彼が司祭を務める教会は今にも取り壊されようとしている。どんな事情があったのか説明されないが、司祭は納得していない。取り壊されようとしている聖堂の物理的空間が、カトリック教会への信頼を失いかけている司祭の精神のあり方(内的空間)と重なって見えてくる。そして映画は、聖堂という物理的空間(それは司祭の内的空間に重なる)に徹底的にこだわっている。

映画の冒頭で、聖堂という神聖な空間(=内的空間)に高所工事車両が侵入してくる。クレーンが伸び、聖堂の天井近くに据えられた磔刑のキリスト像に鈎がかけられ、ロープで吊るされる。荊の冠をかぶったキリストがくるくる回りながら地上に降りてくる。『フェリーニのローマ』の冒頭はヘリコプターから吊るされたキリスト像だったけれど、それに匹敵する印象的なショット。司祭は「神は黙したもうた」とつぶやく。「今は神さえ自分の義務を果たさない」とも。

壊されつつある聖堂に夜、警察に追われたアフリカ系の不法移民が逃げ込んでくる。イスラム教徒らしい。互いに顔を知らない、いくつかのグループ。怪我をした男がいる。出産間近の女がいる。子供もいる。身なりのきちんとした裕福そうな者もいれば、貧しい者もいる。爆弾を隠し持ったグループもいる。警察に内通する密告者もいる。

原題のIl Villaggio di Cartoneは「段ボールの村」ということらしい。不法移民たちが雨漏りする聖堂のなかで家族ごとに段ボールで仕切りをつくり、布を張って、何軒もの家のような空間をつくる。それがタイトルの「段ボールの村」に見える。キリスト教会のなかに非キリスト教徒がつくった異空間。

司祭は逃げ込んできたイスラム教徒を追い払うことをしない。ユダヤ人の医者を呼んで怪我人を診せる。密告者の導きで聖堂に入ってきた取締官を追い払う。法律やカトリック教会のルールに従うのでなく、それが誰であれ教会は迫害される者、傷ついた者、弱い者に開かれているという宗教家として原初の姿勢を取る。そんな司祭を、教会堂の管理人(ルトガー・ハウアー)が不安げに見つめる。

映画はそういったことをセリフで語らせるのでなく、吊り降ろされるキリスト像はじめ、ステンドグラスから漏れる雨、移民たちが洗礼盤を使ってその水漏れを受けるショット、聖堂内部の「段ボール村」のショット、音の出ないテレビに映っている海と難破船の残骸、といった映像で語ってみせる。その寡黙さに力がある。

82歳のエルマンノ・オルミ監督が、自ら最後の劇映画と言った『ポー川のひかり』の5年後につくった新作。なにがオルミ監督にこの映画をつくらせたのか、その答えは映画を見れば明らか。ヨーロッパ社会とキリスト教会への危機感と鋭い批判の背後に強烈な宗教的信念がある、と感じられた。


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August 22, 2013

鷲尾倫夫「巡歴の道」展ほか

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Washio Michio photo exhibition

鷲尾倫夫はかつて写真週刊誌の腕利きカメラマンであり、その後、いくつものテーマで作品を撮り、写真集をつくってきた。いま銀座ニコンサロンでやっている「巡歴の道」(~8月27日)のテーマは沖縄。会場にいた鷲尾さんに話を聞いた。

鷲尾さんは今まで沖縄を撮ったことはなかったそうだ。2年前から沖縄本島の北から南まで、そして島々を歩きはじめた。行く先々でおばあに声をかけ、話しこむ。自宅においでと言われ、お腹がすいてるだろうと芋をごちそうになる。やがてぽつりぽつりと戦争の話が出てくる。おばあは本土の人間にも分かる言葉でしゃべってくれるが、話に熱が入ってくると思わず沖縄言葉になる。おばあは全部をしゃべってくれるわけでない、他人には話さないこともある、と鷲尾さんは言う。

作品はモノクローム。森のなかの神聖な空間、御嶽(うたき)の風景が数点、作品の核のように置かれている。その前後には沖縄のおばあとおじいたち。若者たち。町の何気ない光景。数少ないが、米軍の存在を思い出させる写真もある。なかでも何人ものおばあたちの表情には、いつまでも見入ってしまう。

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銀座から新宿へ回って原芳市「天使見た街」展(Place M、~8月25日)。先日、「常世の虫」という充実した写真展を開いた原が、ここではリオのカーニバルを撮っている。といってもカーニバルそのものでなく(カーニバルは昔、篠山紀信が「オレレ・オララ」という凄い写真集をつくった)、カーニバルに参加するコスチュームに身をつつんだ男女を町中で捉えたポートレートと、町角のスナップ。原のカメラは、町なかからファベーラと呼ばれるスラムにまで入ってゆく。

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August 21, 2013

今日の収穫

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today's harvest

今日の収穫はゴーヤ3本、なす2つにミニトマト9個。今年はゴーヤが次々に大きくなって食べきれないくらい。

今年、朝食用にはまっているのがゴーヤの卵炒め。ゴーヤを細切りにし、油炒めして溶き卵をかけるだけ。味付けは塩で、ゴーヤの苦味がアクセントになる。トマトの卵炒めの応用。トマトのときは牡蠣油を入れて中華風に味付けるけど、ゴーヤは塩だけがおいしいみたいだ。

ところで一昨日はとんだヘマをやってしまった。請け負っている仕事の締め切りを4日も間違えていた。電話がかかってきて、「今日が締め切り」と言われてあわてた。幸い仕事はほぼ済んでいて、あとは最後の仕上げだけ。翌日の朝一番で届けて、なんとか迷惑をかけずにすんだみたいだ。別の仕事の締め切りとごっちゃになっていたのだが、一度締め切りは○日と間違ってインプットされると、すっかり思い込んでしまう。これも歳のせいか。


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August 19, 2013

『風立ちぬ』 美に傾いて

Photo
Kaze Tachinu(film review)

お盆休みの一日、満員のシネコンで『風立ちぬ』を見ながらふと寅さんシリーズのことを思った。寅さんシリーズは長いこと日本の正月とお盆の風物詩的存在だったけど、ひょっとしたら『風立ちぬ』も観客に同じように受け止められているのかもしれない。そんなふうに感じたのは、寅さんは喜劇、『風立ちぬ』はファンタジーとジャンルの差こそあれ、どちらもひたすら懐かしく美しかったから。

『風立ちぬ』はタイトルロールで「堀越二郎と堀辰雄に敬意をこめて」とクレジットされる。映画のなかで、ゼロ戦の設計者・堀越二郎は「飛行機は美しい夢だ」と言う。宮崎駿が飛行機(飛行物体)に偏愛に近い愛情を抱いているのは、宮崎アニメを見ている人なら誰でも知っている。それも、現代的な航空機でなく、できるだけ原始的なもの。手造り感のあるもの。ここでも二郎の夢のなかで、初期の飛行機設計家・カプローニが設計した三枚翼の飛行機が飛び立ったと思うとすぐ翼が折れて落下するシーンが出てきて、いかにも宮崎好みだなあ。

もう一方の堀辰雄の小説は、名作小説を読むのが青春の教養だった時代には多くの若者の心を捉えた。上流階級の空気を感じさせる軽井沢という舞台。当時は死病だった結核に罹った若者の、はかない生。高原の爽やかな風。そんなアイテムが、戦後の混乱と猥雑の時代にはすごく新鮮に感じられた。

そして、映画の冒頭から最後まで何度も出てくる蒸気機関車と、東京と田舎を結ぶ列車の窓外に広がる田園風景と自然。田舎の立派な日本家屋の佇まい。関東大震災で東京が火の海になるシーンも含めて、風景が美しい。

これらの懐かしく美しいものは、高度成長以前の時代を知っている者なら誰もが何らかの形で体験している。

僕自身のことを考えても、小学校時代はプラモデルの草創期で、ゼロ戦のプラモづくりに熱中した記憶がある。高校時代には『風立ちぬ』を読んだ。ガキのころ大宮から蒸気機関車に乗って北関東の温泉地(軽井沢じゃなかったけど)に出かけたとき、往復の窓から見た緑したたる風景は今も記憶に新しい。夏休みに母の実家(埼玉県羽生)に滞在した折の、離れと池のある和風建築は映画に出てくる家そっくりだった。

だから『風立ちぬ』は、見ているとひたすら懐かしい。でも、と思う。これまでの宮崎アニメとはなにか違う。『風立ちぬ』は、これまでの宮崎アニメに比べて美しいことの代償に切り落とされたものがあるような気がする。『ナウシカ』はもちろん、『もののけ姫』や『千と千尋』『ポニョ』にいたるまで、物語の上でもっと想像力をはばたかせ、フィクションとしての工夫がこらされていたような気がする。それにディープ・エコロジーとでもいうか、自然と人間の共生を願う思想の影がもっと大きかったような気がする。

それに比べると、『風立ちぬ』は宮崎駿自身の青春期の記憶と父親世代への思いといった、彼の地がもろに出ているのではないか。

宮崎駿自身この映画について、「美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない」と書いている。美しいものの背後に描かれなかったものがあることは、もちろん宮崎駿は知っている。ゼロ戦は二郎の「美しい夢」であるかもしれないが、戦争のための戦闘機であることはまぎれもない。映画の最後で、米軍の空襲で破壊された日本軍の航空機の残骸が描かれる。その残骸を超えて、二郎の「美しい夢」が作中に出てくるサバの骨のカーブを持った三角形の抽象物となって飛び上がり、やがて同じ形の物体が群れて空を飛んでいるのに混じってゆく。それは抽象物でありながら、トンボか鳥の群れのようにも感じられる。大空のなかで、「夢」が大自然と一体化してゆく。ファンタジーとしてはそれで完結するけれど、それを「美しい」と言ってしまうのはいささか抵抗がある。

菜穂子は「自分の美しい姿」だけを二郎に見せて姿を消す。その後には、死に向かっての苦しい病との闘いがあるのは当然のこと。宮崎駿は、その後の菜穂子についても一言も触れない。

別にそれが悪いと言っているわけじゃない。リアルな現実を描けと言ってるわけでもない。ファンタジーなんだから、それはそれでいい。でも、この映画に出てくるいくつもの矛盾(美しい夢が戦争機械でもあるような)から、あえて切り落としたものがあるために、映画を見た印象がひたすら懐かしく、美しく、それだけ映画が単色になったような気がする。映画を見た感触が何に似ているかといえば、ガキのころ読まされた正しく生きた人たちの陰影のない偉人伝に似ている。

二郎の夢のなかで、カプローニは「飛行機は美しくも呪われた夢」とも言う。美しいだけでなく、呪われたものとしての飛行機が(反戦的な意図でなくとも)出てくれば、映画の印象はもう少し変わったかも、と思う。

でも宮崎駿監督は、そんなことも分かった上で「美に傾いて」みせたのだろう。

エンドロールで、「作画」や「動画」の100人に及びそうなたくさんの名前がクレジットされる。ハリウッド映画なら、ここは同じような数でVFXのオペレーターの名前がずらっと並ぶはずだ。すべて手作業のアニメづくり。ここでもまた宮崎駿は「美に傾いて」いる。


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August 18, 2013

爆笑問題の漫才

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Bakusho Mondai, the comiv dialogue acts

「爆笑問題の漫才を聞きに行かない?」と友人のNさんに誘われて国立劇場(演芸場)の「花形演芸会」(8月17日)へ。バクモンはTVでしょっちゅう見るけれど、本職の漫才を聞いたことはない。彼らは若いころから「花形演芸会」に出ているらしく、1997年には花形演芸大賞金賞を受賞している。

まずは落語。灸を痩我慢する仕草が笑わせる桂宮治の「強情灸」、泥棒から金を巻き上げる元泥棒のお妾さんがしたたかな瀧川鯉橋の「転宅」と、おなじみの噺の後で派手なチェック柄のシャツを着た太田と田中が登場。ひと際拍手が大きい。いきなり麻生財務大臣の「ナチス発言」はじめ時事ネタを連発。矢口真理、土屋アンナの芸能ネタもきわどいしゃべり。「これはテレビじゃできないな(笑)」「国立劇場ならいいのか(笑)」。

田中裕二の突っ込みはテレビで見るよりずっと鋭い。それを受けてボケの太田光が、短く毒ある一言。切れのいいスピードが快い。政治から芸能まで最近のネタを総ざらいして、後から出てきたロケット団に「用意した時事ネタ、全部やられちゃった(笑)」と言わせた。漫才を聞いたのは久しぶりだけど、やっぱり面白い。

その他に落語で春風亭柳朝「荒茶」、立川志ら乃「蜘蛛駕籠」、蜃気楼龍玉「妾馬」。志ら乃は表情も話ぶりも談志そっくり。

爆笑問題は毎年ここに出ているらしい。来年もまた来よう。


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August 13, 2013

ヤモリが深夜の出迎え

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being met by a gecko at midnight

わが家の門にはヤモリが棲みついている。夜遅く帰ると、たいてい門のどこかにへばりついて出迎えてくれる。愛嬌ある姿に、ただいま、と声をかけてみる。いつか写真に撮ってやろうと思っていたけど、こちらに気がつくとすぐに姿を消してしまう。今夜はなんとか写った。


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August 10, 2013

3つの写真展巡り

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3 photo exhibitions

このところ仕事とプライベートの用事が重なって落ち着かない日々がつづき、映画も見られず、本も読めず、ブログの更新もとどこりがちだったけど、1週間前、ようやく一段落ついた。今日は久しぶりに写真展めぐり。

まずは東中野のCafeポレポレ坐で本橋成一×萩原義弘「炭鉱から」展(~8月10日)。本橋のは太陽賞を受けたデビュー作品「炭鉱<ヤマ>」(1968)から。1960年代の九州の炭鉱。写真集では繰り返し見ていて、これはいかにも60年代の空気を感じさせる造本だった。現物を見るのは初めて。いかにも本橋らしい、体温の感じられるプリント。1点、炭鉱町の商店街を撮った写真が大きく伸ばされている(上の左の写真)。こういう商店街は炭鉱町だけのものではないから、写真のなかに入り込んで、この時代に戻ったような気分を味わった。

二世代若い萩原のは、1980年代の北海道夕張炭鉱。大学の卒業制作で、これまでほとんど展示したことはないそうだ。本橋のと20年の差があるけれど、炭鉱の労働と町の風景はほとんど変わらない。いちばんの差は、こちらの風景には雪があること(上の右の写真)。萩原はその後、雪と建物を非ドキュメンタリー的手法で撮った写真集『SNOWY』を出しているけど、このドキュメントにその萌芽が見えるのが面白い。なるほど、こういうところから次のテーマが出てくるのか。

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東中野へ行くとたいてい寄る「十番」で昼食を取り(この店のことは前にも書いたけど、正しい町の中華屋)、新宿御苑前のPlace Mで大塚勉「タイベックスーツ」展(~8月11日)。

原発事故以来、TVなどでよく見かける白い防護服(タイベックスーツ)その他の福島の写真や、津波によって流された写真の複写なんかを素材にしている。印画紙を福島の沼に10日間沈めて変質させたり、銀を浮かして映画の「銀流し」のような効果を出したり、放射線を防ぐ鉛の薄板を印画紙にかぶせたり、目に見えない放射線被害を目に見えるものにする工夫がある。

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今日はもうひとつ、恵比寿・東京都写真美術館の米田知子「暗なきところで遭えれば」展(~9月23日)。

こちらも、土地が秘めている記憶や歴史といった目に見えないものをどう目に見えるものにするかとの問題意識に貫かれている。きれいな景色や何の変哲もない町の風景が美しい大画面にプリントされている。作品リストと照合すると、それらの風景が、知覧の特攻隊の出撃基地跡だったり、伊藤博文暗殺現場のハルビン駅だったり、台湾のかつての日本人高官の家族の家だったり、サハリンの日本企業の工場跡だったりする。米田の視線は、戦争と植民地、それらをめぐる現在の日本に焦点が当てられている。


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August 09, 2013

新古書店の売れ筋

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ときどき覗く新古書店(ブック・オフでなく個人営業店)のウィンドーにこんなビラが貼られていた。買取価格が高いのは、

百田尚樹「永遠の0」 300円
      「風の中のマリア」 200円
池井戸潤「オレたちバブル入行組」 200円
      「オレたち花のバブル組」 200円
東野圭吾「真夏の方程式」 200円

80~100円で買い取る著者は、上記3人と湊かなえ、山手樹一郎、エラリー・クイーン、司馬遼太郎

新古書店はたいていアイドル写真集やDVD、CDも扱っているから、客層が普通の本屋や古書店に比べて若い。

百田尚樹は新作「海賊と呼ばれた男」が本屋大賞を受賞したためか。池井戸潤のはTVドラマ「半沢直樹」の原作本。東野圭吾のは映画化され公開中。湊かなえも旬の書き手(って、僕は東野以外読んだことがないけど)。エラリー・クイーンはミステリーの王道。司馬遼太郎は世代を超えて読まれてるんだろう。よく分からないのが山手樹一郎。僕らの世代でも山手樹一郎は読んでない。「桃太郎侍」でもあるまいし、なにか僕の知らないきっかけがあるのか、それとも店の特殊事情か(「常連客から山手樹一郎を集めてほしいと頼まれたとか)。

 

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August 08, 2013

『ペーパーボーイ 真夏の引力』 過剰な風土

The_paperboy
The Paperboy(film review)

マイアミの市街地から西へ車で30分も走ると、エバーグレーズという湿地帯が始まる。僕はキーウェストへ行くためにその端をかすめた程度の経験しかないけれど、地図を見ると東西60キロ、南北100キロ近い広大な湿地帯で、ガラガラヘビやワニも生息している。

『ペーパーボーイ 真夏の引力(原題:The Paperboy)』の舞台はフロリダで、モート郡の田舎町と都市のマイアミと、この大湿地帯で物語が展開する。熱帯の沼と森の色と匂いと熱気が映画の背景になっているだけでなく核にまで食い込んでいて、この風土が犯罪を生んだのだと感じさせるところが青春映画であり犯罪映画でもあるこの作品の魅力だろう。

1969年、そこでうごめいているのはホワイト・トラッシュと呼ばれる貧しい白人たち。保安官を殺した死刑囚ヒラリー(ジョン・キューザック)は湿地帯の小屋に住み、ワニの皮をはいで暮らしていた男。一方、いかにも安手の制服を着たウェイトレスで、貧しいのでアフリカ系女性とアパートをシェアしているシャーロット(ニコール・キッドマン)は、獄中の囚人と文通するのが趣味。会ったこともないヒラリーを誘惑する手紙を書き、彼と婚約してしまう。

いつものオタクっぽい役柄でなく、知性のかけらもない暴力的な中年男を演ずるジョン・キューザックと、都会的洗練からほど遠い60年代ふう濃厚メークにミニスカートでビッチを演ずるニコール・キッドマンが、イメージを逆手に欲望むき出しの男と女になるのが面白いし、魅力的。

物語の主役は、田舎町で小さな新聞社を営む家の兄弟だ。大学を中退して新聞配達(ペーパーボーイ)をしている弟のジャック(ザック・エフロン)と、ヒラリーの冤罪の疑いを調べに町に帰ってくるマイアミ・タイムスの記者で兄のウォード(マシュー・マコノヒー)。ジャックは兄の調査の運転手を務めることでシャーロットに出会い、彼女に恋してしまう……。夏の雨に打たれてジャックとシャーロットがダンスするショットが印象的な。

映画にはいろんな要素が絡む。例えば人種。1969年のフロリダでは、南部に属する州としてアフリカ系への偏見は強かったはず。ジャックの家にはアフリカ系の家政婦で子持ちのアニタ(メイシー・グレイ)がいる。母に捨てられたジャックは女性恐怖症気味で、アニタに母親のような愛情を感じるようになる(ジャックが惚れるシャーロットも年上の女だ)。このアニタが映画の語り手になり、ひと夏の事件を回想する構造になっている。

マイアミからウォードと一緒に事件を調べにくる記者もアフリカ系のヤードリー(デヴィッド・オイエロウォ)。彼はロンドンから来たと自称しているが、後半、「そうとでも名乗らないと相手にしてくれない」と告白して、ジャーナリストとして出世する野心に燃えた地元の青年であることを明かす。

セックスもここではむき出しだ。シャーロットはヒラリーとの接見で、ジャックやウォードの目の前で股を広げてあえいでみせる(セックスとは違うが、ジャックが海でクラゲに全身を刺されてのたうちまわっているとき、シャーロットが浜辺でビキニの水着を下げてジャックにおしっこをかけるシーンもある)。ジャックの兄ウォードも弟が思っているような正義漢という顔の裏側にホモセクシュアルでSM嗜好を持っていて、そのため手ひどい怪我をすることになる。

ヒラリーが暮らす湿地帯の風景が圧巻。ゆっくり流れる川と、水中から立ち上がる樹林。闇に目を光らせて泳ぐワニ。車の入れないジャングルを行くと、ヒラリーと叔父と女たちが孤立して暮らす粗末な小屋がある。小屋を支配しているのは叔父で、男はワニの腹を割いて内臓を取り出す。女はバケツのアイスクリームが回ってくるのを待って動物のようにくらいつく。シャーロットは半ば強制的にヒラリーに小屋に連れてこられ、やがて事件が……。

真夏の強烈な光と影のコントラスト、熱帯の濃厚な色彩のなかで、すべてが妖しく、いががわしい。リゾートとは別の顔をもつ南部フロリダの強烈な風土がこの映画の主役なのだ。

監督はアフリカ系のリー・ダニエルズ。60年代ソウルやポップスがふんだんに聞けるのも楽しい。この映画、好きだな。


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August 07, 2013

原芳市「常世の虫」展

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Hara Yoshiichi photo exhibition

会場の入口にこう書かれていた。「人は死んで虫に化身する」。展示されているのはみなモノクロームで、蛍光灯に吸い寄せられた蛾、網戸にとまるカナブン、路上の蝉の死骸といった生活のなかで見かける虫たちと、人や町の何気ない光景。これらの写真に冒頭の言葉を重ねてみると、これは虫に化身した彼岸の死者たちがこの世に戻ってきて見た風景ということになるのか。

だからかどうか、これらの写真には死に親しい空気が流れている、と感じる。でも、それだけではなさそうだ。人はみな死にゆく存在だけれど、だからこそこの世はいとおしい。野原でバッタを追う少年も、むきだしの腰にお灸をすえる女性も、下半身に揚羽蝶の刺青を入れた女性にも、病院のベッドに座るおばあさんからも、悲しみは感じられない。生きてあることをひっそりと寿いでいる。それが写真家の視線なんだろう。(~8月13日、銀座ニコンサロン)

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猛暑日の予感

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will be hot today

このところ曇り空や雨がつづいて猛烈な暑さも小休止だったけど、今朝、6時すぎにはもう夏用雨戸の隙間から陽が射している。猛暑日になるとの予報。広島と長崎の間に、

眼を張りて炎天いゆく心の喪 三鬼


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