『嘆きのピエタ』 スラムの聖母
『嘆きのピエタ(英題:Pieta)』の舞台になっているのは、ソウルの町中を流れる小さな川、清渓川(チョンゲチョン)沿いの街。清渓川は今は両岸が遊歩道として整備され、僕も4年ほど前にちょっとだけ歩いたけど、若いカップルの散歩道として人気になっている。
でも1960年代まではこの川岸に朝鮮戦争避難民たちが住みついたスラムがあり、小さな家屋や家内工業の工場がひしめいていた。その後、スラムは撤去され川は暗渠になってその上に高速道路が建設されたが、2000年代に入って都会に自然を取り戻そうと川の復元工事が進められた。
キム・ギドク監督の映画は常に低予算でつくられるから、セットではないだろう。この映画は、今も一部に残っているにちがいないかつてのスラムで撮影されている。車の入れない狭い路地がくねり、粗末な家々にはプレス機や圧延機が一台だけ置かれ、人びとはそれで辛うじて生計を立てている。キム・ギドクもかつてこの街で労働者として働いたことがあるという。
主人公ガンド(イ・ジョンジョン)は狭いアパートに住む孤独な取り立て屋。利息があっという間に元金の10倍になる闇金融に使われる彼は、借金を払えない人間に保険をかけた上で不具にして保険金を巻き上げる。そんな日々を送るガンドの前に、30年前にガンドを捨てて悪かったと、母を名乗る女(チョ・ミンス)が現れる。アパートに上がりこんだ女をガンドは脅し、暴力をふるって試すが、女はガンドに謝り、愛していると言いつづける。
キム・ギドクの映画に通底しているのは、人の思いの深さ、激しさだと思う。人があることを、あるいは誰かを思う。その思いがあまりにも深く、激しすぎるために社会の常識や日常的な人間関係を突き破り、時に犯罪や殺人として噴出する。キム・ギドクはそうした行為の異形の美を描いてきた。見る者に、時に強引なストーリー・テリングや常識を突き抜けた思いの深さを納得させるのは、画面に滲み出るひりひりするような肉体感覚や逆撫でする皮膚感覚の鋭さ故だ。
ガンドが借金を払えない男の手をプレス機に置いて、手を切断しようとする。シャツを圧延機に巻き込んで腕をつぶそうとする。それ以上の描写はないけれど、画面は直接的な描写以上に激しく肉体の痛みを予感させる。ガンドによって車椅子になった男が首吊り自殺に使う鈎手の生々しさ。
ガンドが自分の腿の肉を切り取り、それを母を名乗る女の口に入れ、俺を捨てたのなら、そして俺を愛してるなら食ってみろといわんばかりに生肉を食わせる。女の陰部に手を突っ込み、「私はここから出てきたのか? ここへ帰れるのか?」と問う。キム・ギドク以外ではありえないシーンの数々。
(以下、ネタバレです)女のガンドに対する贖罪と愛に接しつづけるうち、ガンドは女を母として愛しはじめるようになる。が、映画の後半、女はガンドによって自殺に追い込まれた男の母であることが明らかになる……。
女は復讐のためにガンドに近づいた。自分を母と思わせ、自分を愛させることによって、愛する者を失うことの絶望の深さによってガンドに復讐しようとした。でもガンドが女を愛したように、女もまたガンドを愛しはじめたようにも見える。
そんな人と人の激しい思いが絡みあっているからこそ、ラスト直前、女と自殺した息子とガンドが墓穴に横たわるのを俯瞰したショット、ラストでガンドが不具にした男のトラックの下に自らを鈎手で吊るすショットがなんとも美しい。
キム・ギドクはここ数年映画をつくれなかったブランクがあり、最後の劇映画『悲夢』の出来もいまひとつだったけど、この映画は初期の『悪い女 青い門』『魚と寝る女』『悪い男』といった傑作群を彷彿させる。
「ピエタ」は、死して十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリア像のこと。「聖母」を演ずるチョ・ミンスが、無表情のうちに微妙な感情の揺らぎを感じさせてすばらしい。2012年のヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞した。
Comments
気持ちはわかりますが、あまりにも韓国流にまとまりすぎちゃってて、
そこが何とも言えないんですよね。いいとか悪いとかは。そういう作風としか言えない作品でした。
Posted by: rose_chocolat | July 02, 2013 07:06 AM
韓国流というか、韓国流をさらに煮詰めたキム・ギドク流というか。難をいえばいくらも挙げられるけど、ワン・アンド・オンリーですから、受け容れるか受け容れないかということになりますね。私は好きなんです、こういうの。
Posted by: 雄 | July 02, 2013 10:15 AM
他の国の人間から見ると、あまりに衝撃的な演出の端々からにじみ出る奇妙さに、監督の意図や、何かしらの新鮮さを見出し、それが評価につながってるんでしょうけど、
別に韓国の日常であり、韓国人の感覚であり、韓国そのものであるだけの話という事で、見ても不愉快なだけな代物であるとしかいいようがない。
赤目四十八滝とかもそうですが、朝鮮民族の朝鮮民族そのものらしさってのは、あまりに残酷かつ激しく、グロテスクで、映像にのせると、それが『表現』ってところに収れんされてしまう。結果印象だけは、妙な鮮烈さを残すんで、必要異常な高評価を呼んじゃうんでしょうね~。
いや、試し腹、乳だしチョゴリ、火病。そんな国の日常であるだけの映画でした。
Posted by: そのまんま | January 25, 2014 10:02 PM
コメントありがとうございます。
私はキム・ギドクの映画が韓国の日常であり、韓国人の感覚であり、韓国そのものであるとは思っていません。彼の映画は韓国でも異端ですし、韓国の人々に広く受け入れられているわけでもありません。朝鮮民族というより人間誰もが抱えているどす黒いものをデフォルメして取り出してみせることによって、あの残酷やグロテスクが出ているんじゃないでしょうか。だからこそ世界中の映画祭で評価が高い、私はそう考えます。
その極端にデフォルメして見せるキム・ギドクの手法をどう思うかは好き嫌いの問題で、人それぞれなのでしょうね。
Posted by: 雄 | January 26, 2014 03:10 PM